【06-1】友の失踪(1)

文字数 2,116文字

その日は朝からその靄々とした気分が湧いてきたものだから、すっきりとしない一日の出だしとなってしまった。
――朝っぱらから鬱陶しいことだな。
勇は自重を込めてそう思うと、吸い込んだ煙草の煙を勢いよく吐き出した。

遅い朝食を済ました彼は、月島警察署に後輩の警察官を訪ねるために家を出た。
5分ほど自転車で走り、大江戸線の勝どき駅の交差点を晴海ふ頭の方に向かって曲がると、大通りの両側に背の高い建物がずらりと並んでいるのが見える。

自分が交番勤務をしていた頃とは景色が一変しているのを見て、勇は急に切なさを覚えてしまった。
何だか若い頃の自分の人生が、景色ごと消え去ってしまったような気がしたからだ。
思えば自宅からそう遠くないというのに、この付近に足を向けるのは実に20年ぶりのことだった。

勇は気を取り直すと、月島署に向かって自転車を漕ぎ始める。
晴海通りは海から来る風が強いので、彼の様な老人が、自転車を走らせるのは一苦労だった。

少しふらつきながら、勇は懸命にペダルを漕ぎ続けたが、黎明橋を渡り終えた頃にはすっかり息が上がっていた。
――知らない間に、えらく体力が落ちたもんだ。
勇は自分の不甲斐なさに小腹を立てると、再び気を取り直して目的地へと向かった。

晴海三丁目の交差点を埠頭方面に曲がって少し行くと、左手に月島警察署がある。
勇は署の脇の歩道に自転車を止め、署の玄関をくぐった。
その際に、立ち番の若い制服警官に軽く敬礼をすると、ちょっと驚いた様子で慌てて敬礼を返してきたのが可笑しかった。

勇は署の案内係に自分の名前と身分を告げ、訪問相手の桑野太郎を呼び出してもらった。
玄関フロアの隅に置かれた古いソファに腰かけて5分ほど待っていると、正面の階段から桑野が太った体を揺らしながら降りて来た。
桑野は既に50歳も中半を過ぎているはずだったが、太っているせいか、実年齢よりもずっと若く見える。

勇が椅子から立ち上がって迎えると、
「玉さん、お久しぶりです。お元気そうで良かったですわ」
と、桑野は商売人のような、愛想のよい笑顔を浮かべて挨拶した。

「そっちも元気そうだな。相変わらず忙しいのかい?」
「相変わらずですね。
玉さんには釈迦に説法ですけど、暑かろうが寒かろうが、事件は待ってくれませんからね」
「大変そうだな。そんな忙しいとこに済まないんだが」

そう言いかけた勇を遮り、
「ああ、気にせんで下さい。
中島さんの件ですよね。

俺も気になったもんで、城東署の担当の方に色々問い合わせて見たんですけどねぇ。
これがあんまり上手くないんですわ」
と言って、桑野は坊主頭を掻く仕草をした。

――困った時のこいつの癖だったな。
勇はその様子を見て昔を思い出し、何となく懐かしい気分になった。
定年するまで桑野とは同じ刑事課の同じ班に所属していて、同じ事件を担当することがよくあったからだ。

その桑野から、中島茂についての問い合わせが勇の所にあったのは、2週間ほど前だった。
中島は警察学校の勇の同期で、それ以来45年以上に渡る友人だった。
同じ所轄署に配属されたことは一度もなかったが、忙しい合間を縫って年に数回は酒を酌み交わしていたし、お互いの娘や息子の結婚式に招待し合う仲だった。

中島も勇同様、5年前に定年を迎えが、交通課畑が長かったので、その伝手で西葛西にある自動車教習所に定年後の職を得ていた。
その中島が教習所を無断欠勤し、音信不通となったのが3週間前だった。

中島は早くに妻を亡くし、二人いる子供たちも既に独立していたので、江東区東砂町で一人暮らしをしていた。

それまでは無断欠勤することなど一度もなかったので、心配した教習所の係の人間が登録された携帯電話の番号に連絡したが、中島とは連絡が取れなかったらしい。
そして不審に思った教習所の係の人間から、就職時の身元保証人である長男の元に確認の連絡が入り、漸く行方不明になっていることが判明したのだった。

長男が父親を訪ねた時、一人暮らしのマンションの部屋はきちんと施錠されていて、室内が荒らされた気配はなかったらしい。
そして本人の姿も部屋の中には見当たらなかった。
何度電話しても父親に繋がらなかったため、不安を覚えた長男は、所轄の城東署に父親の捜索願を出したのだった。

元警察官ということもあってか、警視庁内の縦横の繋がりで情報が巡り、それを小耳にはさんだ桑野から勇に連絡が入ったのが2週間前だった。

知らせを聞いて心配になった勇は、すぐに中島に連絡を入れたが、やはり電話は繋がらなかった。
その後何度も掛けてみたが、結果は同じだった。
更に不安を覚えて中島のマンションを直接訪ねて見たが、やはり友人は不在だった。

年齢が60歳を超えていることから、外で突然倒れて救急搬送された可能性も検討され、都内や西葛西周辺の消防に照会が回ったようだが、いずれも不発に終わっているようだ。中島の目撃情報もないらしい。

無理もないな――と勇は思った。これといった特徴もない老人のことなど、道行く人は気にも掛けないだろう。
そう思うと、自分たちの存在感の薄さに、虚しさが湧いて来る。

すまなさげな桑野に向かって、
「何か分かったら教えてくれ」
と言い残すと、勇は月島署を後にした。
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