【09-1】拡がる不穏(3)―1

文字数 3,291文字

「グエン君、日本に来て何年だっけ?」
木村準一は助手席に座ったグエン・リンフェンに訊いた後、
――前にも訊いたっけな?
と思った。
最近どうも物忘れが激しい。

「1年7か月です」
グエンはニコニコしながら、おそらく何回目かの木村の問いに、嫌がる素振りも見せずに答える。

彼はヴェトナムからの技能研修生で、日常会話もかなり達者だ。
少なくとも、現場での仕事上のやり取りに殆ど支障はない。
木村は自分の息子とあまり年の違わない、このヴェトナム人青年を結構気に入っていたし、可愛がってもいた。

世間には酷い扱いを受けている、海外からの技能研修生が多いらしいということはニュースで見聞きしていた。
しかし木村が勤める会社では、少なくとも彼が知る範囲では、そのような処遇は受けていないように思われる。

だからと言ってグエンが十分な収入を得ているとは思われず、日々の生活は決して楽ではないだろうことは、木村にも容易に想像ができた。
それでもグエン青年は、いつも明るい表情で働いていたし、仕事に取り組む姿勢も真摯そのものだった。

――必死なんだろうな。
彼と一緒に仕事をするたびに、木村はそう思う。
金を貯めて故郷に帰るためなのか、技術を学んで帰国後に生かしたいのか、あるいはその両方なのか。

いずれにせよ木村はこの青年が嫌いではなかったし、一緒に仕事をしていてもまったく苦になることはなかった。
同僚の中には彼に対してきつく当たったり、仕事ぶりについて文句を言う者もいた。しかしそれに対して、彼は一度も反抗的な素振りを見せたことがない。
多少理不尽な物言いをされても、じっと我慢している様子だった。

そういう現場に行き会うと、
「もう、いい加減にしてやれよ」
と、木村はつい口を挿んでしまう。
そういうこともあってか、彼は最近木村の現場に回されることが多くなっていた。

永代通りを北向きに右折してしばらく行くと、目的の現場に到着した。
「暑っちいな、しかし」
工事用の軽トラックから降りた木村はカンカン照りの空を見上げ、心底うんざりした声で言った。
車を降りた途端に、少し太りぎみの全身から止めどもなく汗が噴き出して来る。

彼の会社は住宅用の水道管工事や、役所からの上下水道の保守点検等の業務を請け負う、日本中どこにでもありそうな零細企業だった。
今回の様な下水道の点検作業は、いつもなら定期的に行われる点検・補修や、異臭などの苦情があった場合、あるいは災害後の復旧などがメインなのだ。

しかし今回は、何故か警察からの依頼ということだった。
――何で警察が?
そう思って社長に訊いてみたが、首をひねるだけで捗々しい解答は返って来なかった。
下請けの小さな会社では、お上の意向など知らされないのかも知れない。

現場にはすでに小柄な年配の男と、まるまると太った中年の男が到着していた。
二人とも警備員の制服を着ている。
「O警備の人?」
70歳をいくつも超えていそうな小柄な男が、木村の問い掛けに、愛想笑いを浮かべながら頷いた。
太った方は不愛想な表情のままだ。

――自分と一緒で、暑くて機嫌が悪いのだろう。
木村は勝手にそう決めつけると、
「じゃあさ、今から機材下ろすからさ、うちの若い子と一緒に、道にコーンとバリケ並べてくんない?」
と頼む。

そして、
「グエン君さあ、機材下ろして」
と、同乗して来た研修生に声をかけた。

「木村さん、わかりました。全部降ろしますね」
グエンは元気な声で答えると、荷台から手際よく機材を下ろし始める。
木村の下について4、5か月になるので、仕事の呼吸はすでに飲みこめ来ているようだ。

「よろしく」と、グエンに返した木村は、強い日差しの照り返しにうんざりしながら、10m程向こうに立っている三人に近づいた。
1人は顔見知りの下水道局の田中という職員、あとの二人は見ない顔だった。

近づいて誰にともなく会釈すると、
「あんたT社の人?
名前何だったっけ?」
と、田中が横柄な口調で訊く。
木村は以前から、業者に対する見下したような田中の態度が気に食わなかった。

――どうせ憶える気もないだろうが。
心の中で田中を罵りながら、
「どうも、T水道工事社の木村です」
と、田中の隣に立った二人に向かって自己紹介した。

一人は小柄な50がらみの中年男、もう一人は細身の神経質そうな顔をした30歳くらいの男だった。
二人とも白っぽいシャツと、地味な色のスラックスを身に着けている。

「私は深川署の高橋、こっちは岡村です。
今日は暑いのにご苦労さんだね」
中年の方が黒い手帳をかざしながら如才なさげな口調で言った。
どうやら現場を確認に来た刑事のようだ。
そう思って見ると、二人とも何だか目つきが鋭い感じがするのだから不思議だ。

「それで今日は?」
木村が高橋と名乗った刑事に訊くと、田中が少しむっとした顔で割り込んで来た。
「今日はね、このマンホールから下の下水道を調べることになってるの。
この刑事さんたちが。
あんた会社から聞いてないの?」

「刑事さんたちが下に潜るんですか?」
田中を無視して訊くと、
「ええ、申し訳ないが、私とこの岡村も一緒に降りたいんだよ」
という柔らかい言葉とは裏腹に、厳格そうな表情が返って来た。
横に立った若い方の刑事も一切言葉は発しないが、表情は真剣そのものである。

そうすると木村としては、何故警官が下水道を調べなければならないかという理由を聞き出すタイミングを逸してしまった。
仕方なく、
「解りました。ほんじゃあ、今マンホールの蓋開けますんで」
と、足元を指さす。

マンホールの蓋は23区のどこでも目にする、桜の花と銀杏の葉とゆりかもめがデザインされたものだ。
サイズは色々だが、ここのマンホールは人間が入れる大きさだった。

「グエン君、道具運んできて」
車の脇で佇んでいたヴェトナム人研修生に指示すると、勤勉な彼はすでに道具を積み終えていた台車を押し、すぐにマンホールの傍まで運んで来る。

――最近、テ キパキとしてきやがったな。
そう感心しつつ道具を選んだ木村は、マンホールの蓋に開いた穴に差し込むと、手際よく持ち上げて蓋を穴から完全にずらす。

マンホールからは、下水道に続く立坑が見えた。
この現場は初めてだが、覗いて見ると下水道までは結構な深さがあり、底ははっきりと見えなかった。

「さってと。じゃあ降りますか。
私が最初に降りて下から声掛けますんで、順番に降りて来て下さい。
警備の人、交通整理頼んだよ」
最後は警備員に向かって声を掛けると、木村は立坑の壁に取り付けられた鉄製の梯子を伝って、暗い穴の中へと降りて行った。

7、8mの高さを降りると、直径が2m程の下水管に到達する。
持参した照明器具を、壁面を通る細いパイプに掛けると、管内は少し明るくなった。
「それじゃあ、1人降りて来て下さい。
くれぐれも気を付けて」

木村が上に向かって呼ぶと、誰かが梯子を伝って降りて来る音がする。
やがて年配の方の刑事が姿を見せた。
グエンが渡したらしい会社のヘルメットを被り、足には黒い長靴を履いている。
こちらは自分で用意したもののようだ。

木村が、「次どうぞ」と合図すると、今度は若い方の刑事が降りて来た。
そして下に着いた途端、悪臭に顔を顰める。
高橋と名乗った年配の刑事は、下水管の先に懐中電灯を向けると、灯りの位置を動かしながら様子を確認し始めた。
それに習う様に、岡村の方は反対方向を懐中電灯で照らし始める。

すると上からグエンが降りて来て、
「何か手伝うことありますか?」
と訊いた。
どうやら田中は降りて来ないらしい。

下水道局が発注する保守点検作業の時は、監督義務があるので嫌々ながらも下水道に入るのだが、今日は管轄外ということなのだろう。
現金なものである。

高橋に向かって
「何か手伝うことありますかね?」
と訊くと、
「この先はどうなってるの?」
と質問が返って来た。

「この先ですか?
ずっと行くと本管に繋がってます。
その先は処理場ですね」
すると高橋は、
「じゃあ、こっち側は?」
と、今度は反対方向を指して訊いてきた。

「そっちは行き止まりですよ」
そう答えながら高橋の指す方向に目を向けると、グエンが下水管の底を見ながら、いぶかし気にしている。
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