【08-1】拡がる不穏(2)―1

文字数 2,652文字

江東区東陽町Hストア店内。
玉木富子(たまきとみこ)は清掃具とトイレ備品を乗せた手押し車を押しながら、次の清掃場所へと向かっていた。
富子と肩を並べて歩く同僚の岡本が、頻りに彼女に話しかけてくる。
岡本が富子の相棒になって以来、毎日繰り返されている光景だった。

富子が清掃のパートに出るようになったのは、5年前に夫の勇が長年勤めた警視庁を勇退した直後からだった。
それまでは家にいて、細々と手職だった和服の裁縫の請負仕事をしていたのだ。

外に出て仕事をするようになったのは、収入が年金と勇が嘱託として務めている警備会社からの僅かな俸給だけになったので、少しでも家計の足しにしようという目的もあった。
その頃になると裁縫の請負仕事が徐々に減っていたのも理由の一つだった。

しかしそれよりも、警察を辞めて毎日のように家にいる勇と、四六時中顔を合わせていなければならない状況が、少し鬱陶しくなったというのが一番の動機だったかも知れない。

刑事だった勇の日常生活はかなり不規則で、家にいる時間もおそらく世間一般の会社員と比べると随分と少なかったはずだ。

勇が突然刑事部に配属され、それまでの交番勤務や機動隊勤務の時と比べると、家を空ける時間がそれまでより極端に短くなった時、正直言って富子はかなり不安だった。
その頃は娘の絵海もまだ幼かったので、出来ればもう少し家族と一緒にいる時間を増やしてほしいと思っていた。

それには勇も気づいていたようで、いつも済まなさそうにしていた。
だからと言って勤務時間を減らすためには、他の部署に異動するか、いっそのこと警察を止めるかしないと無理だということは富子にもよく分かっていた。
結局自分が我慢するしかないと諦めてしまっていたのだ。

そんな時間が過ぎ、やがて娘が嫁いだ頃には、家の中に確固たる自分の居場所が出来上がっていた。
それはキッチンなどの特定の空間ではなく、言ってしまえば家そのものが自分の居場所だったのだ。

そこに定年退職した夫が居るようになると、それまでは想像もしていなかったのだが、富子は少しばかり居心地の悪さを感じるようになっている自分に気づき、少し驚いてしまった。

勇には申し訳ないと思いつつも、そんな日常が段々とストレスになっていることに気づいた富子は、思い切って清掃のパートに出ることにしたのだった。
富子からそのことを聞いた勇は、最初は面喰らったような顔をしたが、敢えて彼女の提案に反対することはなかった。

多分心の中ではあれこれと考えていたのだろうと思うが、それを余り口にしないのが勇の良い所であり、少し物足りない所でもあったのだが。

決断した富子の行動は至って早く、勇に告げた翌日には派遣会社の面接を受け、その後2日ほど研修なるものを受けると、翌週には先輩について清掃の現場に出ることになった。
どうやら世間には清掃仕事のニーズがあふれ、かなり人手不足だったらしい。

そして外に働きに出てみると、これが結構楽しかった。
富子は元々ほとんど風邪もひかないほど健康で、足腰もかなりしっかりしている。
さらに若い頃から働き者できれい好きだった富子は、いたってこの仕事に向いていたと言える。

毎日体を動かしているので、最近では益々体の調子がよくなってきたくらいだ。
それに加えて同僚の中で岡本のような新しい友達もでき、時折誘い合わせて食事に行ったりする機会も増えたりして、近頃では以前より精神衛生的にも健康な生活を送っている。

つまり富子の今現在の生活は、これまでになかったくらい充実しているのだ。
最初は夫を残して出かけるのに少し引け目を感じていたのだが、今ではそれも気にならなくなった。
勇は勇で、四六時中家にいて夫婦で顔を突き合わせているのが億劫な様子だったし、最近はむしろ富子のパートに賛成している風だったからだ。

そんな勇の様子がおかしくなったのは、3週間ほど前だった。
その日富子がパートから家に戻った時、奥のリビングの灯りが点いていないことに、まず不審を覚えた。

彼女が「ただいま」と言っても、家の中から返事がない。
その日勇は嘱託の仕事に出る日ではなかったので、いつもならリビングでテレビを見ている筈なのだが。

――どこかに出掛けたのかしら?
そう思った富子が首を傾げつつリビングを覗くと、勇が灯も点けずに、ぼおっと椅子に腰かけている。

驚いた富子が、
「びっくりした。いるんだったら返事くらいしてよ」
と小言を言っても、勇は生返事をするだけで、やけに反応が鈍い。
さすがに心配になって、「何かあったの?」と訊くと、勇はようやく口を開いた。

どうやら中島茂が行方不明になったらしいという連絡が、昔の同僚刑事からあったようなのだ。
中島は勇のそれ程多くない友人の中でも、特に親しい一人だった。

警察学校に同期入学して以来だから、40年以上の付き合いになる。
お互いの結婚式だけでなく子供の結婚式にも招待し合うくらいの仲で、中島が数年前に奥さんを亡くしてからは、たまに家に招いたりもしていた。

その中島が行方不明になったというのだから、富子もひどく驚いて、勇に事情を問い質した。
中島は勇と前後して警視庁を定年退職した後、長年交通課に奉職していた関係から、江戸川区にある自動車教習所に職を得ていた。

消息が分からなくなった日も仕事で出ていたが、退社後音信不通になったらしい。
正確には翌日無断欠勤したのを心配した教習所の職員が、中島の携帯電話に連絡したがまったく応答がなく、更に心配になって中島の息子に連絡を取ったようだ。

驚いた息子が連絡をしたがやはり応答がなかったらしく、警察に捜索願を提出し、その情報が昔の同僚の間を巡り巡って勇の所に問い合わせが来たということらしい。
勇も心配になり電話を掛けたが、やはり中島から応答はなかったようだ。

翌日になって江東区の南砂町にあるマンションを訪ねたが、ドアには鍵が掛かっていて、部屋の中にも人の気配はなかったらしい。
結果勇は心配が募る余り、少々落ち込んでしまったようだ。

富子はそんな夫の様子が気になったが、どうしてよいか分からなかった。
夫がそれ程落ち込む姿は、知り合って以来一度も見たことがなかったからだ。
そんな風なので、「元気出しなさいよ」などと、ありきたりの言葉を掛けるのも少し躊躇われた。
勇が、当たり前のことなのだが、ずっと中島のことを気にしている様子だったからだ。

先日もわざわざ月島署に以前の同僚を訪ねたり、中島が勤めていた教習所を訪れたりしたようだったが、やはり何の手掛かりも見つけられなかったらしい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み