【07-1】警視庁刑事部参事官 伊野慧吾(1)

文字数 1,805文字

その日伊野慧吾(いのけいご)は、警視庁内の執務室で机に向かっていた。
まだ午前11時には少し間があるというのに、室内には蒸せるような熱気が籠っている。

もちろんエアコンは正常に作動しているのだが、おそらく室温は30℃近くになっているのだろう。

最近では外気温が連日のように35℃を越えているのに加え、伊野の執務室は東側と南側の壁に大きな窓が取ってあるので、真夏になると朝から1日中強烈な陽が差し込む。
そのためエアコンの冷却機能がまったく追いついていかないのだ。
こんな部屋を宛がったのは、上司の嫌がらせに違いないと、伊野は確信していた。

室内のエアコンの温度設定は24℃にしているが、まったく追い付いていない。
さらに彼は人並み以上の暑がりなので、今日の様に暑い日には無性に腹が立ってしようがなかった。

しかし伊野をここまでヒートアップさせている原因は、単に室内が暑いということだけではなかった。
現在都下で頻発している、失踪事件の捜査が思うように進んでいないことが、主な原因だった。

東京都内での失踪事件の件数は、直近10年の行方不明者の届出数で見ると、8万人から9万人の間を推移している。
つまり1日に平均220から250人が失踪していることになる。

それらの行方不明者の95%以上が、所在確認、死亡確認、届出の取り下げのいずれかの形で、後にその所在が明白になるか、或いは有耶無耶になっていた。

それでも毎年、都内だけで2千人余りが、行方知れずのままとなっているのだ。
もちろん届出のない不明者の数はこれに含まれない。

しかしこの数週間の間に、江東区管内で連続して発生している失踪事件は、他の事件と比べてかなり異質だった。
失踪の原因がまったく分からないのだ。

都内で人が行方不明となる原因は、統計的に見ると、疾患によるもの、つまり認知症高齢者の失踪等が最も多く、家族関係と事業・仕事関係がそれに次いでいる。
しかし江東区管内で報告されている、直近数週間の失踪者のうち、10人以上がこれらのいずれにも該当していなかった。

もちろん本人にしか分からない理由で、周囲との関係を断ち切りたいと考える人間は存在する。
そしてその手段として、失踪を選択することは十分にあり得ることだった。
伊野もそのことは理解している。

しかし今回のように、江東区内の比較的狭い範囲で、その様なケースが連続して発生した場合は、やはり被害者たちが何らかの事件に巻き込まれた可能性が疑われる。
尤も、普段であれば、他の行方不明者の中に埋もれていても、おかしくない程度の数だった。

最初に異常に気付いたのは、本庁の情報管理課勤務の警官だった。
彼女は定期的に、各種事故・事件のデータを解析し、統計データを作成する担当者だったのだが、江東区管内で届出のあった行方不明者の発生頻度や地域、背景情報にある種の偏りがあることに気づいた。
その中には数年前に警視庁を定年退職した警官も含まれていた。

情報管理課の課長経由で上がって来たその報告が、伊野のセンサーに引っかかったのだった。
伊野は担当者を呼んで詳細を報告させた。

彼女によると、江東区管内で過去三か月の間に届出のあった行方不明者の中で、ある種の共通項が認められる集団があるということだった。
その共通項は年齢、性別、職業などではなく、失踪動機が不明であることや、帰宅時などに突然失踪している状況が、類似しているということであった。

さらに該当する事案が、少しばらつきはあるものの、荒川近辺から西方向に向かって経時的に発生していると考えられた。

報告を聞いた伊野は、該当する行方不明者の捜査を深川、城東の両警察署に指示した。
指示を受けた両警察署では、失踪者が何らかの事件に巻き込まれた可能性を含めて捜索を開始したが、その進捗は捗々(はかばか)しくなかった。

類似の失踪事件がその後も連続で発生したことと、捜査の人員が決定的に不足していたことが原因だった。

ただでさえ日々の事件数が多い東京で、いくら事件性があるとは言え、失踪者の捜索に回せる人員は非常に限られている。
その限られた数の人員で、徐々に増えていく失踪者を追わなければならないのだから、現場の捜査員の苦労は並大抵ではなかった。

結局いずれの失踪者についても、これといった成果が得られないまま、(いたずら)に時間だけが過ぎていたのだった。
普段であれば、そのまま他の行方不明者の中に埋もれて、通常の失踪案件として終息していたかも知れない。
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