【06-2】拡がる不穏(1)―2

文字数 2,141文字

5分ほどでマンションについた光は、これもいつものことだが、エレベーターを使わずに自室のある5階まで一気に階段を駆け上がった。
自室の前に立った時にはさすがに息が弾んでいたが、その代わり先ほどまでの靄々(もやもや)とした気分は少し解消していた。
そういう点で光のメンタルは、至極単純に出来上がっていると言える。

部屋に入ると奥のリビングから、「お帰り」という声がした。
同居人の篠崎渚(しのざきなぎさ)はすでに帰宅しているらしい。
渚は短大時代の同級生で、光にとっては数少ない友人の一人、そして渚にとっては、光が東京で唯一と言ってよい友人だった。

二人ともそれぞれの理由で人間関係の構築が得意でなかったのだが、どういう訳か互いに気が合い、以来8年以上の付き合いが続いている。
気が合うというよりも、一緒にいても互い面倒ではないというのが主な理由だったのかも知れない。

短大卒業後、光は今のF幼稚園に就職し、渚は身軽さを望んで派遣社員として働くようになった。
その際に光は、職場であるF幼稚園への徒歩圏内という、唯一の条件で部屋を物色していたのだが、賃貸料がネックとなって中々決まらなかった。

そこで同じように部屋を探していた渚が提案した、家賃及び水道光熱費折半でのシェアハウスという選択肢に一も二もなく飛びついたのだ。
新築の2LDKの部屋に、ワンルームマンション並みの家賃で住めるのだから、光は今の状況が結構気に入っている。
何より勤務先のF幼稚園まで徒歩で10分、走って5分という立地条件が、人込み嫌いで寝坊助の彼女にとっては、何物にも代えがたい好条件だったのだ。

光は玄関に上がると、「ただいま」とリビングに向かって一声掛け、玄関脇にある自分専用の6畳の洋室で手早く部屋着に着替えた。
そして共有スペースのリビングの扉を開くと、予想通りクーラーをガンガンに効かせた室内で渚が缶ビールを飲みながらテレビを見ていた。

北海道出身の渚は暑さが大の苦手で、よくこれで風邪をひかないなと思うくらい室温を下げる。
同居して光が唯一困った点がこれだった。同居1年目の夏に、光はそのことで渚にクレームを入れたが、
「寒いのは服を着込めば凌げるが、暑いのは服を脱いで凌ぐにしても限度がある」
という、解ったような解らないような屁理屈で言い込められて以来、諦めてしまった。

同じことを繰り返し言い募るのは光の性格に合わない。
それに光も、渚ほどではないにしろ結構暑がりではあったからだ。

リビングに入った光に渚は、
「今日は遅かったね。先にやってるよ」
と言って、手にしたビール缶をひょいと持ち上げる。
こいつの場合、そのオッサンぽい仕草が妙に堂に入っているから不思議だ。

テーブルの上にはコンビニで買って来たらしい食べ物がいくつか並んでいた。
「あんたの分も冷蔵庫に入ってるよ」
と渚は言った。
この辺り、こいつは結構気の利く奴だ――と光は常々感心している。

冷蔵庫から自分の分らしい食料と缶ビールを取り出すと、光もテーブルに着いた。
暑い中を歩いて来たので喉が乾いていたのだ。350ml缶のプルトップを開けてビールを流し込むと、炭酸飲料の爽快さが喉に染み渡る。
光は思わず、「プハー」とやってしまった。

すかさず渚が、
「相変わらずのオッサンぶりですなあ」
と、にやにや笑いながら茶々を入れてくる。

「あんたにだけは言われたくねえわ」
と光も返す。二人の間のやり取りはいつもこんな風だった。

渚はこうして部屋の中にいる時は物凄くオッサンくさいのだが、同性の光から見てもかなり見てくれのいい女だ。
身長も光と同様、女子としてはかなり高い方である。
しかもスリムで足が長い、モデルのような体形をしている。

顔は丸顔で目が大きく、小ぶりな鼻や口と相まって、街を歩いているとパッと人目を惹くような美形である。
髪の長さはようやく(うなじ)に掛かるくらいのショートなのだが、これがまたよく似合っている。

しかしショートヘアにしているのはファッションではなく、単にロングだと乾かすのに時間がかかるという至極単純な理由らしい。
つまり極端に面倒くさがりの性格なのだ。
その点は光と共通しているが、渚の場合は程度が度外れていた。

そして渚は一見華奢に見えるが、実はフルコンタクト系、所謂(いわゆる)<実戦空手>の有段者だった。
しかも男相手でも引けを取らないくらいの腕前らしい。
面倒くさがりの癖に道場だけは今でも必ず週に2回通っており、日々のトレーニングも欠かさない。

通勤電車で痴漢に遭い、
「問答無用で股間を蹴り上げて悶絶させてやった」
と、嬉々として語る渚の自慢話も、これまでに何度も聞かされていた。
そういう武闘派のところもまた、光と同じだった。
つまり似た者同士という訳だ。

相手もそう思っているのかも知れないが、光にとって渚は一緒にいてほとんど気を使わなくてよい、ある意味ベストパートナーではあるのだ。
でなければ人間関係についてある意味臆病な光が、シェアハウスなどするはずもない。
多分それは渚も同じなのだろう。
何しろ光以上に人づき合いが億劫な奴なのだから。

――よく会社員をやっていられるな。
光は渚を見て時々思う。
以前そういう趣旨のことを渚に言うと、
「あんたと違って、あたしゃ大人だからね」
と、にべもない答えが返って来た。
とにかく口の減らない奴でもある。
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