第3話

文字数 1,795文字



    二


「こんにちは──」

 久明は慣れた様子でガラス張りの引き戸を開き、冷房が程良く効いている事務所の中に入った。

「いらっしゃい。……あれ。……あ、もしかして岡本君?」

 椅子に坐ってテレビを観ていたマスターは、一瞬訝しげな表情を見せてから立ち上がり、満面を笑みに変えて久明を出迎えた。マスターは久明より七、八歳年上で、五十歳を少し越えたくらいである。この手の商売をしている人の常で、顔や腕は真っ黒に日焼けしている。

「はい、ご無沙汰しておりました」

 久明は頭を下げた。

「いやー、久しぶりですね。何年ぶりかな」

 マスターは久明に近づき、手を差し出した。

「うーん、十年ぶりですかねえ。子供が出来てから家族サービスが優先になってしまい、なかなか来られなくなりましたから」

 申し訳なさそうな顔でマスターの手を握りながら久明がそう言った時、久太郎と隼人が引き戸を開けて事務所に入ってきた。

「こんにちは!」

「はい、いらっしゃい。これはまた元気のいいのが来ましたね。岡本君のお子さん?」

 マスターは笑顔で二人に声を掛けてから久明を見た。

「はい、小さい方がうちの子で、大きい子はその友だちです」

「岡本久太郎です。こっちはジャイアン。オレの一の子分です」

 久太郎は隼人を顎で示した。

「こら、お前はまたそんなことを言う。隼人君に失礼だろう」

 久明は久太郎の頭をげんこつで軽く叩いた。

「佐久間隼人です。お世話になります」

 隼人は例によって、深々と腰を折って丁寧にお辞儀をした。

「君、ずいぶん大きいねえ。いくつなの?」

 マスターは隼人の体格に少し驚いたらしい。目を丸くして訊いた。

「もうすぐ十一歳。小学五年生です」

「まだ五年生なんだ。中学生かな、とも思ったよ」

「オレと同い年だよ。デカイばかりが取り柄の奴さ」

 久太郎が横から口を挟んだ。

「こら、父ちゃんがさっき言ったことを、お前はもう忘れたのか」

 久明はヌーッと手を伸ばして、薄ら笑いをしている久太郎の耳たぶをひねった。

「痛てえ! 父ちゃん、暴力反対!」

「馬鹿者。つまらない事ばかり言っているなら、お前は外に出て車から荷物を降ろしておけ」

「……はーい」

 久太郎はいたずらっ子らしくペロッと舌を出し、

「おい、行くぞ!」

 と、隼人を誘って事務所を出ていった。

「元気なお子さんですね」

 マスターは、ステップワゴンのハッチバックを開けて釣り道具を降ろしている二人を窓越しに眺めながら言った。

「いやうちの子はさわがしいだけでして、なぜ出来のいい隼人君と仲がいいのか、さっぱり分かりません」

 苦々しい表情を作って、久明も外の二人を見やった。

「いえいえ、男の子はそれくらいの方がいいですよ。わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい、ってね」

 マスターは、昔あったコマーシャルのワンフレーズを口にした。

「ずいぶん古いキャッチコピーですね」

「ははは、確かに。歳がばれてしまいますね。岡本君は生まれてましたか?」

「ぎりぎりセーフですね。あのメラメラ燃える焚火のシーンは、鮮烈に記憶に残っています。多分幼稚園に行っていた頃でしょう」

「私はあのコマーシャルのように太いハムを木の枝で串刺しにして、焚火で豪快にあぶって食べるのに憧れまして」

「私もです。少し大きくなってから赤いウインナーソーセージでやってみましたが、あれは小さすぎてすぐに焦げてしまい、正直なところあまりうまくなかったです」

 久明は、黒焦げになったウインナーソーセージの苦い味を思い出し、渋い顔をした。

「それ、私もやりました」

 久明とマスターは顔を見合わせて笑った。

「実は私は学生の頃に色々な食材であれを試しまして、マルツンのハンバーグはかなりうまかったですね」

「マスターは確か山岳部で山登りを……」

 久明は埋もれていた古い記憶を辿って言った。以前雑談の中で、マスターはそう言っていたような気がする。

「よく覚えていますね。山に登った時は焚火もしました。焚火が目的で山歩きをした、と言った方がいいかもしれませんが。私は焚火奉行でして。でも、もう山は駄目ですね。ほとんどの所で焚火は禁止になりましたし、それに体が鈍ってしまって、房総の鋸山や伊予ヶ岳でさえ、登ろうとすると息が切れてしまいます」

「冬の立山にも登ったというマスターが?」

「全然ダメですね。寄る年波には勝てません」

 マスターはせり出し始めた腹を、ポン、と叩いて笑った。


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