第14話
文字数 2,497文字
斜面には、数時間前に久明たちが這い上がった跡がそのまま残っている。
「この跡を辿って行けば、簡単にオレたちが倒れていた所に行けるね」
久太郎は、自分の足下で何か作業をしている久明に話し掛けた。
「そうだね。縄梯子はここまでの長さしかないから、この先は縄を伝って降りよう。滑らないように気をつけろよ」
久明は荒縄を木の根元に結わえながら上を向き、久太郎に注意した。
「だってさ、ジャイアン」
久太郎も上を向いて言った。
「ん? なあに?」
「ここから梯子がなくなるから、気をつけろって!」
久太郎は大声で怒鳴った。その拍子に右足が梯子から滑り落ちた。
「ほら、お前が一番危ない。気をつけろ」
久明は木に括り付けた縄が緩くないか確認しながら、再び久太郎を注意した。
「殿もお気をつけなされませ」
隼人の頭上から様子を見ていた弥七郎が声を掛けた。
「弥七郎さん! もう、絶対に未来に通じる穴を見つけなくちゃ」
「へへへ、殿だってさ。なんか笑っちゃうよね」
久太郎は顔を上げて、隼人と弥七郎を見比べながらニヤニヤする。
しばらく縄を伝って降りていくと、ようやく斜面は緩くなった。久太郎と久明が倒れていた所ははっきりとした跡になっていて、すぐに分かった。久明が握り潰して粉々になった落ち葉もそのまま残っている。
「きっと車がぶつかった木の根元が、時空の隙間への入り口なんだよ」
久太郎は立ち木の根元を一本一本吟味しながら、近づいてきた隼人に言った。
「ああ、なるほど。でも四百五十年も後までずっと生えてる木なんかあるのかなあ」
隼人は首を傾げながら、久太郎が調べている木の根元にしゃがみ込んだ。
「でも時々ニュースで樹齢何百年とかって言ってるよ」
「それはめったにないことだからニュースになるんじゃないの? それに車がぶつかった木は、何百年もずっと生えていそうなほど大きな木じゃなかったし」
「それって、どれくらいの太さだった?」
「多分、それくらい」
隼人は周りの木を見渡してから、幹の直径が三十センチ程のコナラの木を指差した。
「普通の太さだね。木登りするにはちょうどいいけど……。でも、あれじゃあ何百年も生きてないか」
久太郎は、その何の変哲もない雑木の側に寄って、幹を叩き、梢を見上げた。少し上の方に、カブトムシやクワガタムシが飛来しそうな樹液溜まりがあるが、今はアリがたかっている。
「木も一緒にタイムスリップしてたらいいのに。……ガッ!」
草鞋の足でその木の根元を蹴っ飛ばした久太郎は、奇声を発してその場にうずくまった。
「ほらほら、何やってるんだよ。運動靴じゃないんだよ」
つま先を押さえて唸っている久太郎を見て、隼人は苦笑した。
三人は木立をいちいち棒で叩いたり石を投げつけたりして、何か異変が起きないか調べて回った。投げた石が消滅したり、時空の揺らぎでも発生したりしてくれたら見つけ物である。木の根元にひょっこり穴でも開いているかもしれず、それも落ち葉を掻き分け、棒で突いてみて確かめる。
「全然ダメだね。それらしい木なんかありゃしないや」
隼人が倒れていた灌木の繁みの辺りも入念に調べてみたが、結局何も分からずに終わった。下草を掻き分け、周辺の落ち葉を全てどかしてみても、未来への入り口はおろか、未来から来たと思われる物体も、何一つとしてない。
「やっぱり無駄骨だったね」
久太郎は腰に手を当て、尖らせた唇を少し歪ませた。彼も多少はがっかりしたのであろう。
隼人にいたっては絶望感に打ちひしがれて、目は虚ろに開き、痛ましいくらいに悄愴し、立ち木を背にして力なく坐り込んでいる。弥七郎も、崖の上から隼人の様子をのぞき込んで悲しそうな表情をしているようである。
「タイムトラベルのうち、我々が遭遇した過去へのタイムスリップは、どう考えても怪奇現象で、本来あってはならない事象だ。一方で未来へ行くことは、相対性理論をベースにした物理学的考察では、一応不可能ではないかもしれない、とは言われてはいるけど、やっぱりそれを実現するにはとんでもない量のエネルギーが必要だからね。未来に戻るのは相当難しいだろうな」
理論物理学の世界では、時空を歪ませてワームホールを発生させたり、光速で移動したりといったテクニックを使えば、未来へのタイムトラベル、あるいは浦島現象は可能だということになっている。しかし現実には、未来への移動ですら地球人類の技術力では到底無理な話である。必要なエネルギーを発生させるすべはなく、もし出来たとしても、その膨大なエネルギーを制御できなければ、どの時代に飛んでいくかは予測不能であろう。
「よく分かんないけど、もう未来へは帰れないってことだね」
「ひと言で言えばそういうことになるな……」
久明も四百◇□年後に戻ることを諦めた。元々期待はしていなかったのでショックは小さいが、さすがに落胆はした。これからの問題は、今後どうやってこの時代に生きていくか、である。
いきなりこの世界にやってきた久明には耕す土地がないので、百姓はできない。手に職のない彼は職人にもなれそうもない。日曜大工くらいはできるが、そんな程度の大工仕事は、この時代の人は誰でもできる。彼の持っている特殊技能は剣道の技だが、剣術を学ぶ人間の多かった江戸時代ならともかく、戦国時代にそんなことで食っていけるかどうかは分からない。
「こうなったら覚悟を決めて、しばらく里見家にお世話になるしかなさそうだ」
「それじゃあオレ、あしたから武士になる」
久太郎も先ほどは幾分落胆の色を見せていたが、適応能力が人並み外れて旺盛な彼は、未来の世界に戻れないことに対するダメージはほとんど受けていない。彼はすでに戦国の世に生きていく意欲を漲らせていた。
「お前にはかなわないよ、父ちゃんですら打ちひしがれそうになっているのに」
久明は久太郎の割り切りの良さに少し感心し、少しあきれた。
「ほらジャイアン、元気出せよ。この時代だってきっと面白いよ」
久太郎は茫然として佇む隼人の背中を軽く叩いた。
「とりあえず館へ帰ろう。すべてはそれからだ」
久明は三人に言って、縄を登り始めた。