第3話

文字数 2,081文字



 十一万人を超える大軍に小田原城を包囲された氏康は、サザエのように固く城を閉ざして守りに専念した。

 このころの小田原城は、後年の豊臣秀吉による小田原攻めの時と比べると惣構えも狭く、まだまだ整備途上で完成品とは言える状態ではないが、それでも巨大城郭に変わりはない。これを力攻めで攻め落とすのは十一万人の軍団でもほぼ不可能であり、兵糧攻めで自落に追い込むのにも、何ヶ月もの月日が必要であろう。

 敵地に深く侵入した軍隊にとって、一番の課題は物資の補給である。

 景虎軍の延びきった補給線は北條側のゲリラ部隊に分断され、物資を奪われてしまう始末で、食料の現地調達もままならない。一種の焦土作戦に出た敵の戦法に嵌って逆兵糧攻めのような形になり、徐々に軍団の維持が困難になってきた。

 背後で蠢く武田信玄やそれに呼応している一向一揆の動きも気になる。信玄は北信地方での活動を活発化しているほか、氏康の依頼を受けて小田原城の後詰に出兵する構えを見せ、越中一向一揆は景虎の本城、春日山城の背後で不穏な動きを見せている。

 常陸や下野には、北條家の誘いに乗った陸奥の諸勢力が侵入しつつあり、その地を領有する武将には国元から危急を知らせる飛脚が頻繁に来るようになった。

 常陸の佐竹家が無断で帰国してしまったのをはじめ、軍団から脱落する武将が出るに至って、景虎は宇都宮、小田等北関東諸将の進言を受け入れる形で氏康征伐を諦め、囲いを解いて鎌倉に退いた。

 翌月の閏三月一六日、景虎は、関東一円の大名小名多数が参列する中、鶴岡八幡宮の神前で上杉氏の名跡と関東管領職を正式に継承した。名前も前の関東管領上杉憲政から「政」の字を貰って「上杉政虎」と改めた。

 義弘も関東管領職拝賀の式典に参列し、そのあと政虎と談合して、房越攻守同盟の締結と、里見家庇護下にある足利藤氏の古河公方擁立を確認した。義弘は、原胤貞が政虎に接近し、里見家の抑制を陳情していると聞き及んだことから、千葉、原両家との戦闘が続いている下総南部の情勢についても理解を求めた。

 この間、政虎と武蔵忍城主の成田長泰との間で何らかの軋轢が生じ、長泰は離反して北條方に帰属するという一幕もあった。

 里見軍は、この月の終わりごろ小櫃谷に帰還した。



「上杉政虎という人は自己中です」

 宿下がりしてきた久太郎と隼人に、久明が小田原出陣の感想を訊いたとき、以前上杉謙信のことは好きだ、と言っていた隼人がしかめっ面で首を振りながら、政虎のことをそう評した。一方、久太郎は、

「すっごくお酒が好きな人で、いつも酔っぱらっていたよ」

 などと、他愛もないことを言っている。

「隼人君もそう思ったか。政虎は、戦国武将の中では珍しく任侠の士ではあるが、あまり目下の人の感情を慮らない人物だと、未来の世で評価されることがある。そのために、武田信玄や北條氏康の謀略に切り崩されて離反者や反乱者が相次ぎ、たびたび苦境に立たされることになる」

「それにずいぶん怒りっぽいみたいで、しょっちゅう周りに怒鳴ってました」

「そうそう。雷が落っこちたみたいな勢いだった。おっかなかったよ。あれは酔っぱらってたせいじゃないね」

 久太郎もこの点では相槌を打った。

「なるほど……」

 久明は軽く頷き、今後の対応を判断する上で一番知りたいことを訊いた。

「それで、それに対して今回味方した武将たちは何と言っていた?」

「難しいお人だと」

「むずかしいおひと、か」

「はい、みんなそういう風に言ってました」

「なるほど、みんながか。それで若殿は?」

「それが、殿は何もおっしゃらずに、ただ首をひねるだけで……」

「ふーむ……」

 戦国武将は自我が強烈で、灰汁の強い者が多い。喜怒哀楽が激しいのもこの時代の人々の常ではあるが、関東管領として古河公方足利藤氏を支え、関東武士の旗頭となり、失われた関八州の秩序を再興し、戦国の混乱を収めて平和を実現するには、政虎の性格は大きなマイナス点であろう。

 むずかしい、と思う武将たちの気持ちはいずれ、付き合いたくない、こんな男とは一緒にいたくない、という感情に変化するだろう。

 自家の興亡に文字通り生死を賭けている戦国武将は、なるべく強くて勝ちそうな方に身を置こうとする。しかし感情のある人間という生物である限り、嫌悪感を抱いている者についていくのにはおのずと限界がある。

「成田長泰の例でも分かる通り、政虎は自分の武威を恃むあまり、調略や根回しといった小細工を好まず、政治や外交という周りとの協調が必要なことを疎かにする傾向があるようだ。今後若殿を補佐するにあたり、政虎の言動には振り回されないように気をつけなければならない」

 久明は自分自身に言い聞かせるように言った。

「まだ元服したばっかりで子供みたいな僕たちには、よく分からないです」

 隼人は小首をかしげた。本来なら中学生になったばかりの年齢である二人には、政治云々の話は確かに難しすぎるかもしれない。

「それもそうだ。それで久太郎は他に何か思ったか?」

「うーん、すっごく髭が濃い人だった」

 久太郎は間違いなく、まだ子供である。


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