第14話
文字数 2,097文字
しかし高城胤吉らの妨害によって、里見軍は自軍の糧米調達すら困難を極め、進撃の準備が整わないうちに年が明け、永禄六年になった。
松山城攻略の陣中にいる氏康は、高城胤吉や江戸城代遠山綱景らの勧めで、いまだ国府台城に留まっている里見軍を退治するための軍を発した。
北條軍は当主氏政を総大将に、小田原衆、玉縄衆、江戸衆など、総勢一万五千人前後である。
今これから起ころうとしている合戦について、「関八州古戦録」という江戸時代に書かれた歴史書には、北條軍は
い
がわ」とも。渡良瀬川の最下流域にあたる。現代は利根川の分流の江戸川になっている)を押し渡って久明は、当然関八州古戦録の記事を知っている。彼は北條軍が大軍を催し下総方面に向かった、という諜報を得ると、里見民部少輔堯次を司令官として安房衆を動員し、矢切の渡しを眼下に見下ろす崖の上に布陣した。
それに対して北條家は対岸の柴又付近に若干の部隊を置いたものの、それが渡河してくる気配はない。敵部隊の屯している柴又や金町には少数の小舟があるだけで、渡河に必要な数の舟を回航してくる気配もない。
しばらくすると本陣から使番がやってきた。敵の本隊は一里ほど下流の市川で渡河し、あるいは水軍で市川から
肩透かしを食らった形の久明はさざ波が立ち、キラキラと光っている川面を眺めながら首を捻り、
「はて……。話が違うな……」
と、そう思ったが、すぐに思い直した。
「里見軍一万が駐屯している国府台城の目の前で、わざわざ川を渡るという自殺行為はするはずがない」
矢切云々は、あくまでも後世に書かれた歴史書の記述である。「関八州古戦録」は丹念に記録や言い伝えを収集して書かれたとされ、内容の信憑性はかなり高いと言われているが、成立したのはこの合戦から百六十年ほども経った江戸時代中期(享保十一年、一七二六年)のことなので、様々な錯誤があってもやむを得ない。
さらに、この時の記述も二十五年前の天文七年十月に行われた「第一次国府台合戦」と混同している可能性がある。
「第一次国府台合戦」では氏康の先代氏綱が、小弓公方足利義明と里見義堯や
この合戦では北條軍は松戸方面に主力を展開し、国府台の北方で激戦をした、となっているので、恐らく矢切の付近か、またはそれより少し上流で渡河したのであろう。
大軍が国府台に陣取る連合軍の目前で渡河し、上陸して、なおかつ台地の上に登って松戸に展開し、野戦をする、などということは、常識的に考えるとあり得ないような気もするが、総大将の義明は公方である自分に弓を引くものはいない、と言ってみすみす北條軍の上陸を看過してしまったという話が伝わっている。それに対して義堯は渡河中の敵を攻撃すべし、と主張したが、受け入れられなかったとされている。
松戸の辺りで決戦が行われ、味方が壊滅しつつあった頃、南方の市川に布陣していた里見軍は、大規模な戦闘をせずにほぼ無傷で戦場を離脱し、安房に帰国したという。もしかしたら義堯は、当たり前の戦術を訳の分からない理屈で否定する義明を見限り、むしろ滅びることを願っていたのかもしれない。
その後里見家は、義明の死と、この合戦で大きな痛手を負った真里谷武田家の衰退で権力の空白域になった上総に進出し、その過半を手中に納めて今日に至っている。
正月七日、北條軍は国府台の南側にあたる
北條軍の兵士が持参した腰兵糧は三日分。北條家首脳は一気に短期決戦で勝負をつけるつもりでいた。
里見軍が普請している国府台城はまだ完成には程遠く、籠城はできない。ならばこの一戦は必ず野戦となり、長期戦はありえない。それに、もしもいくさが長引いて、輝虎が後詰に参ずると厄介でもある。
機敏な行動のできない小荷駄は邪魔であり必要もないので、今回の作戦には同行していない。
明日早朝にも北條軍との激突が起ころうか、という気配が濃厚に漂い出したこの日の夕刻、勝浦正木家の軍代、正木弘季と正木時成は連れだって正五の本陣を訪れた。
「勝浦の兄から密使が参りました。彼の地に残っている兄は、敵に内応しておりまする」
弘季はそう言って、一通の書状を正五に見せた。
それは勝浦正木家の当主、正木左近大夫時忠から弘季、時成の二人に宛てた密書で、
「他国から乱入し関八州の安穏を破る上杉輝虎と一味になり、手先となって行動する里見の命運芳しからず、勝浦正木家は義によって小田原の一味となる。よってこたびの出陣は無用であるゆえ、早々に帰国するべし」
などと書かれていた。
「なるほど。左近大夫は近頃妙な動きをしておる、と思うておったが、こういうことであったか。それでそちたちは、どうするつもりじゃ?」