第8話

文字数 2,304文字



   三


 久明の屋敷は、突貫工事の末にひと月ほどで完成した。

 広大な敷地内には、部屋が十室と大きな納戸が付属している母屋の他に、家臣のための長屋が二棟と風呂小屋、馬五頭分の厩舎があり、さらに馬場や的場もある。わずか三百俵取りの新米武士には過大なほどの大邸宅である。

 敷地の周りには義堯の館から延長された空壕と土塁が廻っていて、館の稜堡のように出っ張っている。有事の際には館と連携して、久留里城の出丸としての役割を担うことになるのだろう。

 引っ越しの日には、久太郎と隼人が初めて宿下がりをしてきて、家来たちを宰領して転居の手伝いをしてくれた。

 二人はひと月前とは見違えるほど成長し、大人びた顔つきになっていた。隼人もすっかりこの時代に慣れたようで、自信に満ちているように見える。

 久明は、義舜のもとでどのような教育を受けているのか気になって二人に訊くと、隼人は少しはにかんで、

「鎗や弓矢の稽古とか。あと、仲間の小小姓や近習の方々と、例の戦ごっこもやっています」

 と言う。

 久太郎は苦笑いを浮かべて、

「それと近所のお寺から毎日お坊さんが来て、漢字ばっかりの本を読まされてる。せっかく学校がない所に来たと思って喜んでたのに、結局勉強しなくちゃいけなくなっちゃった……」

 どうやら同年輩の小姓たちと机を並べて漢籍の素読をやらされているらしいが、脱走したくてうずうずしている久太郎が目に浮かぶようだ。

 安房の自領に帰っていた薦野神五郎は、わざわざ祝福しに出てきてくれた。隼人の家臣になった栗原弥七郎が声を掛けたらしく、久明たちが初めに出会ったあの農夫もやって来た。彼は乱杭歯を見せながら口を動かし、聞き取りづらい地の言葉で祝いの言葉を述べている。里見家の重臣も入れ代わり立ち代わり顔を出し、義堯や義舜も多忙の中、時間を割いて駆けつけてくれた。それぞれが祝儀の品を持参するので、一室はそれらで山のようになった。

 祝儀の品は米や雑穀類、豆類などの穀物と干し魚や山菜の干物など、日持ちのする食料がほとんどであった。そのほか布の反物が十数反に、太刀や打ち刀、鎗の穂などの刀剣類が多数と具足が数組。これらの武具は久明らの配下になった者たちや久太郎と隼人に分配した。

 宮内(くない)という大それた名前の農夫にも、小刀やイワシの干物を分け与えた。

 宮内はこの日も初めて会った時と同じく、くたびれて擦り切れた衣服を着ていた。久明がそれを見て麻布の反物を二反与えると、宮内は感激して、自分の倅を差し上げるので馬の口取りにでも使ってくれ、と言い出した。

 真新しい木材の匂いがプンプンする屋敷で一泊した久太郎と隼人は、焼き肉やハンバーグが食べたい、という言葉を残して翌朝早々に義舜の城へ帰っていった。

 昼前に宮内が息子を連れてやってきた。さわやかに日焼けした孫作という名の息子は、馬丁にしておくのが惜しいほどに精悍な面構えと、立派な体格を持っていた。

 宮内の跡取りであろう孫作を取り立ててもよいのか、と訊くと、宮内は、自分は子沢山で、あと三人息子がいるから大丈夫だ、という。もっとも宮内の腹の中には、

 ──どうせいずれは兄弟のうちの誰かは雑兵として連れていかれるのだろう。それならば今のうちに頼りになりそうな家に差し出して、臨時雇いの雑兵ではなく正式な家来としてもらった方が良い。

 という思惑があるに違いない。

 久明は、素晴らしい眼光を放つ、まだ一五、六歳のその少年を一目見て気に入り、側に置いて使うことに決めた。もしかしたら宮内はいずれ、他の息子も家来にしてくれと言ってくるかもしれないが、孫作の弟なら利発に違いない、それらも受け入れようと思った。

 宮内が帰ると、久明はさっそく孫作に手綱を渡して嘉風に跨り、館に上がって義堯に伺候し、引越しの完了を報告し、孫作の紹介をした。



 知行地を持たない久明の日常には、特別すべきことがなかった。毎日が決まったことの繰り返しである。

 毎朝孫作を伴い義堯のもとに伺って雑談の相手をしたり、行政や外交の顧問として助言を与えたりするのが久明の仕事で、午前中でそれらの仕事は終わってしまう。午後は五郎太を師匠役にして馬術や弓術の稽古をしたり、家来たちや里見家の侍に剣術指南をしたりして過ごしていた。孫作にも手ほどきをするが、彼は技の習得が早く、すぐに上達した。久明はいずれこの少年を侍分に取り立ててやろうと思った。



 収穫の秋が過ぎ、そして冬が訪れようとしていた。

 日々は一見平穏無事に過ぎていった。

 あくまでも、一見、である。

 久留里領を貫流する小櫃川を北に四里も下れば、もう敵領内である。元々上総国西部から北部にかけての地は里見家と北條方勢力との境目であり、緊張状態が常態化していて小競り合いが絶えず、時に大いくさにまで発展していた。今のような静けさの方が異常であった。大嵐の前の静けさのようにも思われた。

 霜が降りる頃になると、久留里城にある義堯のもとには、小櫃川下流にあり北條方になっている菅生庄で、敵方の動きがにわかに活発化しだして、物資が集積されつつあるようだ、という情報が入るようになった。

 久留里城のある畔蒜庄(あびるのしょう)内でも、最近見慣れぬ商人風の男や乞食坊主に身をやつした者など、不審な人物が目撃されはじめた。

 上総西部の天羽郡内に蟠踞し、北條家の手先として活動している土豪集団鳥海党も、最近里見領に入り込んで、拐かしや放火などの不穏な動きを始めているようである。

 (はしり)(みず)の海を挟んで、相模と上総の往来が激しくなっている。

 何かが蠢きはじめている。それが何かを知っているのは、里見家では未来から来た久明だけである。


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