第15話

文字数 2,370文字



 このころから、敵の攻撃はがぜん激しさを増してきた。景虎がいよいよ出撃してきそうだとの急報を受け取り、早いところ久留里城を攻略しようと焦っているのだろう。

 久明が守っていた自分の屋敷や義堯の館は、北條軍の決死隊に柵を倒され壕を埋められて、ついに敵の猛攻を支えきれなくなった。守兵は建物に油を撒いて放火した後、後方の山城に退却する。

 久明とその家臣は、足軽の三大夫が流れ矢に当たって左の耳たぶを削がれ、敵が投げてきた礫に当たった久明が小手に打撲傷を負ったほかは、全員無事であった。義堯から借りた寄騎衆は、撤収作業中に突撃してきた敵兵と渡り合って三人が討死し、彼らの従者も数人が死傷した。

 北條方は出丸を攻略して気勢が上がったが、焼け野原となったそれを確保できずに退却した。北條軍は久留里城本城に対しても連日休みなく攻勢を掛けてくるが、強固な要害である本城は容易に攻め切れるものではなく、いたずらに負傷者を増やすだけとなっている。一方の里見軍は、敵の攻撃に対しては防戦するが、逆襲部隊を繰り出すことはせず、専守に徹している。

 いくさは膠着状態に陥った。攻めあぐんだ北條軍の兵士たちは、城下まで進出しては罵詈雑言を並べ立てたり、誹謗中傷を書き並べた矢文を射込んだりと、城兵を挑発して城から引きずり出そうとしているが、城方は取り合わない。

 九月になった。

 友好関係にある常陸佐竹家から使者が来て、長尾景虎率いる越後勢八千は予定通り昨八月二十九日に出立し、すでに三国峠を越えつつある、と知らせてきた。

「そろそろ氏康は退却の決心をするはずです」

 久明は北條軍の様子を眺めながら、義堯に言った。

「全ての準備は整いつつある。武田からの早馬によると、長狭郡で武田勢と睨み合っていた千葉介の軍勢は、景虎出軍の風聞を耳にしただけで早々に退きはじめたらしい。よって武田もこの一戦に参加する。いよいよじゃ」

 義堯はそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。自身の、そして里見家の将来が懸かった大勝負の前に、百戦錬磨の義堯でさえ緊張しているらしい。

「敵は一万五千、味方は九千余、武田殿の部隊を入れても一万二千の兵力です。しかし敵は退却途中に左右後方と三方から攻撃されて支離滅裂になるのは必定です」

 味方の諸部隊は予定通りの人数を引き連れて、それぞれ小糸城と飯給付近に集結を完了し、すぐにでも所定の待機場所に移動できる状態になっている。

 戦力では劣るが、計画通りに味方部隊が動けば勝ちいくさになるのは間違いあるまい。あとは氏康を取り逃がさぬよう、天に祈って戦うだけである。

 久明も歴史が動くその瞬間が近づいていることを感じて、体が熱くなった。



 数日後、敵の様子に変化が現れた。

 向郷付近に屯する部隊間を行き来する武者の数が、普段より多いような気がする。申の刻の頃にたなびいていた、夕餉の炊煙と思われる煙も、これまでと比べてかなり濃かったようだが、これはすぐに消えた。

「はて。これは……」

 久明は義堯の本陣から敵陣を眺めながら首を傾げた。

「うむ、何事か起きそうじゃ」

 義堯は、飯給付近に陣を敷いている正木大膳亮時茂と小糸城主の秋元小次郎義久に使番を出して配置に付くよう命じるとともに、敵陣周辺に物見を放って監視を厳しくさせた。

 果たして、敵は動いた。夜のとばりが降りた頃、夜陰に紛れるように小荷駄部隊が撤収を開始したのである。小荷駄はあゆみが遅いので、先に逃がしたのであろう。

 多かった炊煙は、兵士の腰兵糧をこしらえるためだったに違いない。煙がすぐに消えたのは、里見側に行動を察知されるのを恐れた首脳部が、物主たちに伝令を出して消させたのだろう。

 時季は太陰太陽暦での九月上旬、令和の世で使っているグレゴリオ暦では十月も中旬に差し掛かろうかという頃である。冴え冴えとした南の夜空に浮かぶ半月が、やけに明るくみえる。

 小荷駄部隊は松明などの灯りを使っていないが、その姿は半月から照らされる月明かりのおかげで、山上の本営からでもはっきりと見える。

「ほう、小荷駄が引き揚げていくか。ということは、どうやら敵も景虎出陣の通報を受けたようじゃな。ならば本隊も撤退し始めるな、それは今夜か明日か……。定石ならば、我らより人数に勝る氏康は、明るくなってから堂々と去っていくものじゃが……。いや、きやつは焦っておる。一刻でも早く武州へ転進せば、と思っておるじゃろう。すると撤退は今夜半か遅くとも明日未明じゃ」

 義堯は、物資を馬の背に満載し、川向こうの裏街道を木更津方面に向けてゆるゆると行進している、北條軍の小荷駄部隊を注視しながら自問自答した。

「して、あの小荷駄はどうしてくれようか」

 輸送部隊が目の前を去っていく。普通の作戦計画ならそれを襲わない手はないだろう。荷を背負った駄馬の群れは鈍重な上、護衛の兵卒は主力級ではないのが一般的である。戦闘能力の落ちる相手では落ち穂拾いをするようなもので、襲撃目標として恰好の獲物である。敵の主力部隊が現れる前に撤収すれば、強盗は完了する。

 しかし義堯は、その獲物を無視することに決めた。

「狼煙を上げよ。いや夜間であるゆえ見逃すことがあるやもしれぬ、各陣に使番を走らせて申せ。それぞれ合戦配置につけ。同士討ちを避けるため、具足の左肩に白布をむすべ。合言葉は、『勝つ』、『里』、『北』、『負け』じゃ。荷駄隊はやり過ごし、その後に現れる敵本隊を襲え。目指すは氏康が首のみじゃ。他の首は取るべからず、捨て置け。太郎と武田には、速急に久留里まで押し出せ、と伝えよ」

 義堯はつぎつぎに命令を下し、城内の各曲輪にも急使を出して、今すぐにでも城から出撃できるように準備させた。出門順なども決めさせた。

 久明も義堯の旗本として出撃する。五人の家来にも準備させた。


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