第10話

文字数 2,374文字



 四


 その後も武蔵から下総にかけての戦乱は続いている。それらの戦いは、輝虎や里見家の希望とは裏腹に、北條軍の優勢で進展している。

 里見勢が市川の陣を引き払い、足利藤氏を伴って上総に帰った後、武蔵や下総の反北條勢力は、岩付城の太田資正と関宿城の簗田晴助くらいしかいなくなった。輝虎の小田原攻めに呼応して北條家に反旗を翻した武州青梅の有力国人、三田弾正忠綱秀は、輝虎や太田資正の援助を受けて細々と抵抗を続けているが、北條氏照の軍勢に激しく攻め立てられて、今や滅亡寸前に追い込まれている。

 久明がいつものように正五の館に出仕すると、正五は普段は千本城にいるはずの義弘と二人だけで密議をこらしていた。

 廊下に面する障子は開け放たれ、廊下に江阿弥が背筋をピンと伸ばして坐っている。庭には薦野神五郎が義堯の居室を背にして床几に坐り、要所に義弘の旗本や神五郎の家臣が十数人、抜身の鎗を携え、万が一曲者が発見されたときに備えている。気配はないが、隣室にも同様に得物を携えた警備の人数が控えているのだろう。

 久明が入室すると、義弘は周りに不審な気配がないことを確認してから口を開いた。

「大学殿も知っておろうが、今我が方にとって、状況は極めて厳しいものとなっている」

「………」

 ものものしい雰囲気に、何か重要な作戦を計画しようとしていることが知れる。恐らくはあのことであろう、と思いながら、久明は義弘の言葉を待った。

「これを打開するため、我らは海向こうに二、三千ほどの兵を送り、三浦から鎌倉辺りまで攻め入ろうと思っている。これについて大学殿の意見を聞きたい」

(やはりそうか……)

 久明は自分の予想が的中したことにいささか失望し、小さく溜息をついた。

 里見家の水軍は、頻繁に走水の海を渡って三浦半島に上陸し、彼の地を荒らしまわって略奪行為を働いている。三浦半島の村々の一部では略奪の対象から免れるため、北條方に納入すべき年貢の一部を、かつてこの地を領有し、今なお一定の影響力を残す内房正木一族を通して里見側に差し出しているほどである。

 また里見家では、時に陸戦部隊も渡海させて玉縄城下を急襲したり、鎌倉に侵入して町を焼き払ったりしている。多くの場合、この軍事行動に対して北條家はさしたる反撃を行わずにひっそりと鳴りを潜め、里見軍が去っていくのを待つ、という姿勢に終始している。

 ところが史実によると、永禄五年十月の渡海、つまり今まさに正五と義弘が計画しようとしている作戦では、北條軍は痛烈に反撃して、里見軍は手痛い敗北を喫することになっている。

 久明がどう返答しようか迷っていると、正五が重ねて訊いてきた。

「大学殿、いかがかな」

 こういった時のために自分はこの時代にやってきたのだ、と思い、久明は意を決して言った。

「今敵地に渡るのは危険です。おやめになった方がよろしいかと思います」

「ふーむ。なぜだ」

 義弘は首を捻り、久明を見た。よもや端から出兵するな、と言われるとは思ってもみなかったのだろう。

 戦略的に見ると、武蔵や下総に主力軍の多くを派遣して手薄になっている後方を急襲するのは、決して間違いではない。必要最低限の兵力しか置いていない本国を脅かされた北條家は、慌てて軍勢を召還するだろう。すると危機的状況に置かれている反北條同盟は、一気に息を吹き返すに違いない。

 しかし久明は、部将が何人も死ぬことになるこの戦いを避け、のちに起こるであろう大いくさのために兵力を温存したかった。

「恐れながら未来に残る書物には、こたびの渡海はご当家には良からぬ結果になると書かれております」

「舟いくさに負けると申すのか。船手奉行からの注進によると、北條の海賊衆のうち三崎衆はほとんどが江戸や葛飾の方に行っているということだが。伊豆の海賊が三崎の応援にやってくるのか」

「書物には詳しい経緯が書かれていませんので、舟いくさで負けるかどうかは分かりません。もしかしたら上陸時に襲われるのかもしれません」

「上陸時にか、なるほど。だが敵の玉縄衆や小田原衆が、江戸衆の応援で出張って行った古河や葛西から戻ってきたという報はなく、彼の地は手薄なはずだ。何とかなるのではないか」

「いや、敵はご当家がこの機会に三浦の地を襲うと想定している可能性があります。おそらく常よりも監視の目を厳しくして、我が方が上陸する場所を見極め、兵力を集中して一気に我らを殲滅しようとするに違いありません」

「うーむ。しかし今の状況を打破するには、相模に渡って彼の地を痛撃するしかなさそうだが」

「ならば、こういたしましょう。渡海する部隊は三百人からせいぜい五、六百人程度の少数で、舟も早舟主体で一気に向地に押し渡り、浦々を見て敵が現れそうならさっさと引き揚げる、と」

「それでは常の襲撃と大して変わらぬが。その程度のことでは、氏康めが慌てて軍を返すことはないのではないか?」

「二引両の旗が相模の海に翻った、ということだけでも、ある程度の効果はあります。とにかく今回は戦わずに敵を牽制するだけにしていただかないと、益あることになりません」

「………」

 過去に挙行した大規模な渡海作戦で、里見軍が大勝したことはあれど、一敗地にまみれたことはほぼない。義弘は、本当か? と言いたそうな目付きで久明を見た。

「太郎──」

 これまで脇息にもたれ掛かり、黙って二人のやり取りを聞いていた正五が義弘に言った。

「大学殿の申される通りにせい。これまで大学殿が申されたことに間違いはなかったぞ」

「はあ、しかし……」

 義弘は、諦めきれぬ、という表情をした。

「いや、玉縄衆は武蔵に行ってはおるが、主将の綱成も彼の地に向かったとは限らぬ。綱成が玉縄に留まっているのなら、兵が少ないとは言っても手ごわいぞ」

「……分かりました。大学殿の申される通りにいたします」


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