第5話
文字数 1,956文字
「それで外向きのことは若殿に任せて、お屋形さまは国内の懸案に取りかかると?」
「そういうことじゃ。できれば我が里見領を、そなたが申しておった未来の世の様にしてみたいのじゃ」
「一つ間違えば取り返しのつかぬことにもなりかねませんが……。拙速すぎる改革は諸人、特に大身の外様衆から反発を招くでしょう」
「そこで手始めに我が料所から変えていく。余が決めたことは絶対じゃと、余人の意識に植え付けていく」
「はあ……」
「家来どもに以前やった給地や知行地の充行状や目録を提出させ、改めて知行割を行い証文を出す。もちろん家臣同士の境界争論などは許さぬ。最終的には領内すべてを蔵入地にして、家臣全員に蔵米か銭で給付するのが目標じゃ」
義堯が思い描くように領内全域を一元支配できれば、武士身分の者から百姓町人まですべての人民が「国民」となり、領域の管理がしやすくなる。近世の軍隊のような徴兵制度の導入も可能になるかもしれない。武士は官僚として給与所得者になり土地に縛られなくなるから、領主間の争いがなくなる。大規模な土木工事や殖産などの施策も大名主導で行えるようになる。
「しかしわざわざ入道なさらなくても」
「いや、外向きには太郎が当主じゃ。余が隠居したと周りに思わせるには、頭を丸めたほうがよい。法号は
「それはまた、手回しが早い」
久明は苦笑した。
「佐貫城を取り戻したら、そこに太郎を入れる。久留里や千本ではさすがに本城としては山奥すぎる。それにゆくゆくは法度も定めるぞ」
義堯は微笑を浮かべながら抱負を語り続けた。
しかし里見義堯改め正五入道の目指す改革は遅々として進まなかった。そもそも里見家を取り巻く環境が、正五を内政家として置いておくことを許さなかった。
関東の動乱は、上杉政虎の参入によってますます厳しく複雑になり、政略戦略ともに高度な手腕が要求される事態となった。このような状況への対応は、家督を継いだばかりで、対外的に正五ほどの信用を勝ち得ていない新屋形義弘には、少し無理があろう。
政虎の関東入りに応じて北條家を離反した諸勢力の大半は、氏康の硬軟自在の駆け引きによって、再び北條家に帰属した。
そして今、氏康は古河城への攻勢を強めようとしている。
政虎や里見家とその同盟者たちは、里見家で養われていた足利藤氏を古河公方に仕立て上げ、古河城に入れていた。政虎に随行して関東入りをした前の関東管領上杉憲政や現役の関白近衛前久は、政虎が越後に引き上げてもなぜか政情不安の関東に残り、藤氏と一緒に古河城に滞在している。
氏康は、古河城を回復して自家の傀儡公方義氏を復帰させ、あわよくば藤氏ら三人を生け捕りにしてやろうと考えている。むろん藤氏は古河公方を「僭称」した罪状で抑留するため、憲政は義氏の地位を認めさせ、さらに関東管領職を氏康に譲渡させるため、前久はこれらを朝廷や幕府に公認させるためである。
その情勢に危機感を強めた政虎は、信玄との死闘の末、結局痛み分けに終わった第四回川中島合戦から引き揚げたばかりではあったが、すぐさま関東への再出馬を決断し、正五にも古河城の後詰のために武蔵岩付城への参陣を要請した。
「大学殿、やはり余には内向きのまつりごとなどをしている暇はないようじゃ。政虎は余直々の出陣を求めてきた。あの者は、同い年の太郎をまだ完全に信頼しきってはいないようじゃ」
「入道さまの名声は天下に鳴り響いていますから、政虎としてはどうしても入道さまを頼りたくなるんでしょう」
「困ったものじゃ……」
正五は苦しそうな顔をして嘆息した。
「入道さま」
「なんじゃ?」
「実は、今回の戦いは前回とは打って変わって政虎の思い通りにはいかず、味方に不利となります」
「……? 大学殿は政虎がいくさに負けると申すのか」
「はい、相当に厳しい戦いを強いられます。ですから当家の行く末を慮ると、今回は入道さまのご出馬はお控えいただきたいのですが」
「ふーむ。しかし要請を無視して出ぬわけにもまいるまい」
正五はゆっくりと目を閉じた。
「それでは、岩付城からそう遠くはない地、たとえば葛飾郡の市川か松戸の辺に陣を敷き、千葉や原の軍勢を牽制しつつ政虎の指示を待つ、というふりをしていたらいかがでしょう」
「ふり、とな? 政虎を見殺しにするのか?」
「いいえ、必ずしもそういうわけではございません。政虎は先日北信で武田信玄と大いくさを戦い、かなりの痛手を負っているにもかかわらず、無理を押して出兵しています。いま仮に北條と正面からぶつかっても勝ち目はなく、それどころか厭戦気分が横溢している越軍は大変なことになってしまうでしょう」
久明は、正五の青々と剃りあげた坊主頭を見上げながら、言葉を切った。