第1話

文字数 2,154文字


 一



 夏休みに入ったばかりのこの日、久太郎と隼人は二人連れだって、カブトムシやクワガタムシを獲りに出かけた。

 ここ「ちはら台」のはずれにある森は、シイやコナラなどの落葉広葉樹と、スギなどの混在する雑木林となっていて、朽木や腐葉土を幼虫のエサとする昆虫類が数多く生息している。

 下草の笹を掻き分けて森の中から自転車を停めてある道路に出てきた二人には、しかし疲労の色が顔に滲み出ている。さんざん森の中をさまよった挙句に彼らが捕まえたのは、コクワガタのメス一匹だけであった。

「なんだよ、チョロQがいっぱい獲れるって言ってたから朝っぱらから早起きしてきたのに、全然獲れないじゃないか。もう疲れちゃったよ」

 隼人は口を尖らせて久太郎に文句を言いながら、手にしていた空の虫かごを放り投げ、車道と歩道を分ける縁石に坐り込んだ。夜明け前から森に分け入った隼人の手足は、夜露と汗でぐっしょりと濡れている。

「そう言うなよ。いつもはいっぱいいるんだよ。この前だってちゃんと獲れたんだから」

 久太郎も縁石の上に腰を降ろした。

「ふーん、本当に?」

 隼人は、運動靴にこびりついた笹の枯葉を指でつまみ取りながら鼻を鳴らした。

「本当だよ。……お前、オレのこと全然信じてないな? この間ジャイアンにやっただろ」

「え? チョロQがくれたあのカブト、ここで獲ったの?」

「そうだよ。あの時はいっぱいいたなあ。乱獲になるといけないと思って、ジャイアンにやったカブトとクワの、オスメス二匹ずつしか捕まえなかったんだけどなあ」

 久太郎は渋い顔をして坊主頭をひねった。近隣の子供達の間では、自分で飼える程度の数しか捕らないのが暗黙のルールになっている。彼は、ひょっとしたら誰か心ない人物が最近森の中に入り込んで、ごっそりと捕獲していったのかもしれない、と思った。

「ふーん。僕さあ、今までデパートとかホームセンターとかで売ってるカブトしか見たことなかったんだ。ほら、プラスチックのカゴに入ってるやつ……。喉渇いちゃった」

 隼人は立ち上がって、自転車のハンドルにぶら下げておいたステンレス製の水筒を取った。

「へー、この辺で虫なんか買う人はいないよ。せいぜいヘラクレスが売ってたらちょっと欲しいな、って思うくらいでさ。東京にはカブトはいないのかな……、オレも喉が渇いた」

 久太郎も立ち上がって、同様にぶら下げてあった自分の水筒を手に取り、腰に左手を当てて、立ったまま中身のカルピコを喉を鳴らしてラッパ飲みした。

「あー、ひと仕事した後のカルピコはうまい!」

 隼人はその様子を見て苦笑いした。彼は縁石に坐り直し、水筒の内容物を蓋に注いで飲んだ。こちらは麦茶である。

「僕が住んでた江戸川区に森は全然ないんだよ。公園に木は植えてあるけど……、そういえばセミは鳴いてたような気がする」

 隼人はそう言ってから森に目をやった。さっきまで二人がいた森の中では、いつの間にかアブラゼミの大合唱が始まっていた。
 



 二人は、千葉県市原市にある「ちはら台」という新興ニュータウンの中にある市立小学校の五年生である。

 バブル経済華やかなりし頃に開発が進んだちはら台は、昭和中期頃に造られた多摩ニュータウンなどとは違い、一戸建ての住宅と中高層マンションが主体で、いかにも団地、といった風情の、三、四階建て程度の集合住宅はほとんどない。

 市原市の西部は臨海工業地域になっていて、石油化学工場が立ち並ぶ。一方で内陸部は、ほとんどが農地や森林となっている。

 宅地化するまでは、このあたり一帯も森林と畑に覆われた鄙びた農村地帯だったので、今でも周辺には里山風の豊かな自然が残存している。北隣のおゆみ野と合わせると千ヘクタールを超えるニュータウン域内には大きな公園もある。

 そういう田舎と都会のハイブリッドなところには、往々にして岡本久太郎のような野生児が生息している。

 久太郎は体が小さく、チョロチョロとすばしっこいQ太郎ということで、同級生からはゼンマイ仕掛けのミニカーをもじって「チョロQ」と呼ばれている。

 小学五年生の男児の間では、誰も互いを本名で呼ぼうとはしない。今の世ではあだ名禁止、という学校もあり、外向きには苗字で呼び合うようにしているが、仲間内ではそんなことはお構いなしである。

 体を動かすことに無上の喜びを感じ、サッカーや野球などのスポーツばかりしている彼は、勉強のこととなるとからっきし駄目な少年である。当然体育以外に得意な科目などはなく、通信簿には一と二ばかりが並ぶ。学業だけを見れば、久太郎はいわゆる劣等生の範疇になるだろう。

 そんな久太郎に最近できた相棒が、この春に東京の江戸川区から引っ越してきた転校生の佐久間隼人である。

 隼人は身長百六十センチ、体重七十キロという堂々たる体格の持ち主で、転校してきたその日のうちに「ジャイアン」というあだ名をつけられた。風貌もマンガのキャラクターそのものだが、内面はとても内気でおとなしい性格の少年である。

 転校してきた当初の隼人には、その威圧感溢れる体躯と風貌のせいで、クラス内の誰も近寄ろうとしなかった。しかし生来社交的で物怖じしない性質の久太郎は、孤立しかけていた隼人に声をかけ、それ以来二人は無二の親友になっていた。


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