第16話
文字数 2,335文字
坂下の北條軍が放つ鉄炮攻撃を竹束の楯でしのいだ勝浦衆は、煙硝の白煙が漂う中、楯を捨て、後ろに控える内房衆他による矢や礫の掩護を受けながら坂を一気に降り、その途中にいた敵部隊を蹴散らして敵中に突入した。
二番手の小田喜衆も、統領正木大炊介信茂の、
「者ども続け! 忠義の弾正と平六を死なすな!」
という叫び声とともに、北條軍が放つ矢衾の中を駆け降り、勝浦衆の後に続いて突撃した。さらに長南武田勢も北側の崖を下り、敵と激突する。
彼らの疾風のような攻撃は、北條軍先鋒の江戸衆を粉砕し、江戸城代遠山綱景や江戸衆副将富永康景らを討ち取る大戦果を挙げた。
坂下で繰り広げられ、混乱が渦を巻いている乱戦は、敵味方の旗指物が入り乱れ、台地上の本陣から眺めている久明の目には、どうなっているのかよく分からない。
しかし百戦練磨の正五には、戦いの流れが見えていた。
彼は朝日を背に受けて合戦の様子を見守っていたが、やがて床几から立ち上がり、使番を前に叫んだ。
「これはいかん! 土岐勢を投ぜよ、太郎の軍は左翼から迂回して、敵後方に回り込め! 内房衆は正面から攻め掛かれ、何としてでも勝浦と小田喜を救うのじゃ!」
そして自らも河原毛の乗馬を引き寄せ、五十七歳の老武者とは思えない身のこなしでヒラリと飛び乗り、
「我が旗本も坂を降るぞ。皆の者、続け!」
と怒鳴って馬を煽り、先頭切って駆け始めた。
里見軍が全軍挙げての攻勢に打って出たころ、眼下の戦場では、緒戦の突撃で深入りしすぎた勝浦衆と小田喜衆が、進撃速度が鈍ったところを北條綱成の玉縄衆等に飲み込まれ、重囲の中に陥っていた。
「かかれー、かかれー。忠臣を殺すな! 勝浦衆を救え!」
正五入道の、低いがよく通る号令を背に受けて、久明等旗本衆も内房衆の後から乱軍に突入した。
けたたましく鳴らされる太鼓や鉦。
馬の嘶き、人馬の足音。
武者の怒号や呻き声。
武器がぶつかり擦れる音。
人体が突かれ斬られる音。
凄まじいばかりの血の臭い。
合戦場は混沌として、何が何だか全く分からない状態になっていた。
どこからともなく血しぶきが飛んでくる。霜柱が融け、人馬に踏みにじられて泥濘と化した足元には、何体もの首なし死体が転がり、それらは馬蹄に踏みつけられて悲惨なことになっている。
久明の周りには、正五から拝領した金小札に赤糸縅の華美な鎧と名馬嘉風を見て、久明を名のある武将に違いないと思い込んだ敵兵が、次から次へと群がり寄ってきた。
三大夫や新しい家臣の星野左京と鈴木太郎左が、必死になってその敵兵と渡り合おうとするが、人数が多すぎて防ぎきれない。
久明は敵の徒武者が繰り出す長柄の鎗を、刃渡り四尺以上ある例の大太刀で振り払い、愛馬嘉風を寄せて、
「──!」
という気合とともに武者の甲冑もろとも斬り捨て、馬を寄せてくる騎馬武者には、太刀で錣の辺りを横殴りに殴りつける。防具の薄いところに当たった敵は、あさっての方向に首をねじ曲げてそのまま絶命し、気絶して落馬した男は鎧通しを手にした彦八等が引導を渡した。嘉風は敵の馬に噛み付いて久明を掩護している。
中には、
「やあやあ我こそは藤原北家魚名流、
と、時代がかった名乗りを上げてくる者もいるが、そんなものに構っている余裕などはない。問答無用でその男を長剣で殴り倒すと、
「やや、これは卑怯な……」
という目を向けながら、冥途に飛び立っていった。
一体何人の敵を倒したのだろうか。乱戦はすでに二刻余は続いていた。大太刀を振り回し続けた右腕は、鉛を仕込んだかのように重く、熱を持っている。太刀はひどく刃毀れて、ノコギリのようになってしまった。
久明は太刀を鞘に納めようとしたが、途中でつかえて入らなくなっている。敵を殴りつけている間に曲がってしまったらしい。久明は苦笑して、使い物にならなくなったその太刀を投げ捨てた。
「………?」
久明は甲高い義弘の声を聞いた。どうやら夢中で敵を切り伏せているうちに、裏手に回って攻めている義弘の部隊に紛れ込んでしまったらしい。
少し冷静さを取り戻して周りを見ると、三引両の背旗を背負った、ひときわ大兵の隼人が目についた。
隼人は寄せてきた敵の騎馬武者が繰り出した手鎗を掴んで強引に引き寄せ、鞍の前輪にその男の青くなった顔を押し付けていた。よく見ると、鎧直垂の襟首を引き出して、柔道の絞め技のように男の頸を締め上げているようである。足をばたつかせてもがいていたその男は、頸の骨が外れて脊髄が損傷したのか、すぐにぐったりとして動かなくなった。従者の栗原弥七郎や正円の腰には、首がいくつもぶら下がっている。
「あいかわらず凄い怪力だな。あれでは敵の武者がかわいそうだ」
久明は呆気にとられて呟き、苦笑するほど余裕が出てきた。崖の上から見物している民衆の姿まで目に入るようになった。
「さて、久太郎は無事かな」
これほどの乱戦になると、久明も父親として人並みに息子のことが心配になった。
少し離れた所に義弘の陣旗が立っていた。鹿毛の馬に跨り軍配を振っている義弘も見える。その周りにいる騎馬部隊の中に、「丸に麻の葉」の定紋を白抜きにした、かちんの指物を挿した武者がいた。
「おお、あれは久太郎だ。無事だったか」
しかつめらしい顔をして栗毛の馬に乗り、義弘に侍っているその姿を見て、久明はさすがにホッとした。
そのころになって、三方から攻め立てられていた敵は崩れ始めた。
緒戦で大損害を受けつつも戦場に踏みとどまり、その後も太田新六郎康資の指揮で奮戦していた江戸衆がついに潰走し、それに引きずられるようにして、全軍潮が引くように退却を始めた。