第18話 

文字数 2,164文字




 後日、ことの顛末を知った正五は、

「我が方の同盟は、火の玉のように激しく走り回るが戦略眼が今一つの輝虎に振り回されるところがあって、なかなかむずかしい。じゃが武田と北條の盟約も、狸と狐の化かしあいのようで、大変じゃのう」

 と、複雑な顔をして久明に呟いた。



 行軍中に松山城開城の急報を受けた輝虎は、案の定烈火のごとく激怒した。

 彼は腰の佩刀を、側に控える小姓の首を抜き打ちに打ち落としそうな勢いで抜き、それを振り回して怒鳴った。

「太美をこれへ呼べ! 奴の許におる新蔵人が証人も連れてこい!」

 太田美濃守資正が、上杉憲勝の息子を連れて押っ取り刀で参上すると、輝虎は抜き身の切っ先を資正の鼻先に突き出してわめいた。

「そちは何をしておったのじゃ。返答次第では首が飛ぶぞ!」

 目を吊り上げて怒り狂っている輝虎の額にはいく筋もの青筋が立ち、湯気が上がっている。

「申し訳ございませぬ。敵の包囲陣に阻まれて我が使者が入城しかねている間に、氏康の調略が入ったとのことです」

 資正は平伏しながら答えた。

「敵に囲まれていてもすぐに落とされる状態ではないことは、城内から見ても分かっていたはずだ。それをおめおめと調略に乗せられて開城するとは、何たる体たらく!」

 輝虎の太刀を持つ手が震えた。

「それがしめの不徳の致すところでこのようなことになり、申し訳もございませぬ」

 資正は静かな口調で言った。

「そちは、あ奴の後見を請け負ったではないか。その時、あの男は親父の憲政とは違って骨がある、と申しておったではないか!」

「よもや新蔵人殿がかように弱き心の持ち主とはつゆ知らず、それがしめの目利き違いでござりました」

「うぬ!」

 輝虎は怒りにまかせて、手にした太刀を振りかぶった。

 資正は自分の不手際で発生した事態の責任を、回避するつもりはなかった。彼は手打ちになる覚悟を固めて、身じろぎせずに、頸部に振りかかるであろう不気味な光を放つ凶刃を待った。

「まあ、弾正殿……」

 正五は、前後の見境がつかなくなっている輝虎に声を掛けた。

 まなじりを吊り上げ鬼の形相になっている輝虎は、

「何か文句があるのか──」

 とでも言いたげに、正五を睨みつけたが、正五はその目を正面から見据えたままやんわりと続けた。

「弾正殿、ここはこの老入道の顔に免じて、美濃守殿を許してもらえぬじゃろうか。落胆しておるのは貴殿だけではなく美濃守殿も同じでござろう。それにこの入道も家来数多を失いながらようやくここまでたどり着き、その挙句に無駄骨じゃったと知らされたのじゃ。この気持ちを分かってくだされ」

「……あい分かった。この場の美濃が首は入道殿に預けておく。しかし余はこの小童の首を刎ねるぞ。入道殿もそれに異存はあるまい」

 輝虎は振り上げていた太刀の切先を後ろ手に縛られた憲勝の息子に向けて、この少年を睨んだ。少年も気丈に輝虎を睨み返した。

「こんな幼童を斬り捨てても何の解決にもなりませぬが……。しかしこれも世の常、是非もありませぬ」

 正五が輝虎から目を逸らして溜息混じりに言い終わった時、この不運な少年の頭部は、血煙を噴出させながらロケットのように宙を飛んだ。

(世の習いとはいえ惨いものじゃ。これでは、この男の下に人物は育つまい)

 正五は細く開けた目の端で、肩で息をしている輝虎を捉えながら思った。

 転がっている少年の首は、まだ輝虎を睨んでいる。



 証人を成敗したくらいでは、輝虎の怒りは収まらない。

 彼は正五と資正を従えて東進し、小田朝興、成田長泰等の守る騎西城を力攻めに踏み潰し、さらに東進して古河城も回復した。北條方の守備兵は輝虎襲来の風聞だけで四散して、同陣していた足利藤氏がそれと入れ替わって入城、古河公方に復帰した。

 これでやっと腹の虫を収めた輝虎は、上州厩橋城に退いて正五や資正と今後の方針について談合した後、松山城開城後甲斐に帰国していた武田信玄が信濃で動き出した、という知らせを聞いて、六月に越後に帰った。

 正五は帰路上州箕輪城を訪ねて先妻の甥、長野業盛と親交を深め、資正の岩付城に立ち寄ってから、国府台城に帰陣した。

 国府台城はすでに完成していた。それは陣城などではなく、空壕深く土塁高く、備えも立派な本格的城郭に仕上がっていた。眼下の太日川畔に桟橋を設けて船舶が直接城域に出入りできるようにした、里見家典型の港城である。これなら陸上が封鎖されても水軍による物資補給が可能になり、長期の籠城に耐えられるだろう。

 正五は新しい橋頭堡のでき映えに満足し、この守備と周囲の計略を義弘の手に任せることにした。

 それに対して、久明は国府台城に大兵力と共に義弘を留め置くことに強く反対した。

 ここ二、三年のうちに占領した上総の新領土は、まだ完全に掌握しきれているわけではない。その領地に義弘を置いて、支配権を確固たるものにするのが先決ではないか。事を急ぐと必ず齟齬をきたし、今までの戦勝が無になってしまうだろう。

 しかし正五は、今回ばかりは久明の諫言を聞かなかった。

 関東をせっかく制圧しても、わずかばかりの兵を上野に残すだけで自分はさっさと越後に引き揚げてしまう、輝虎の態度への当てつけもあったのだろうか。正五は処置を変更せずに里見軍主力を国府台城に置いたまま、自身は久留里城に帰城した。


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