文字数 14,062文字

        三

 耳元で風がひゅうひゅうと音を立て、通り過ぎていく。その風に乗って鳶がすぐ横を滑空し、ひと声鳴くと、さらに上空へと羽ばたいていった。
 (じゅん)陽気(ようき)(ほうき)()をしっかりと握り締め、眼下を窺った。家々の屋根が後方へ遠ざかる。水田の水面に太陽が映り、そこを陽気箒に跨ったオンナノコと潤のシルエットが横切っていく。道行く上雲津(かみくもつ)の人々の姿は、指の爪ほどの大きさだ。
 地上からの高さは五十メートルほど。オンナノコが守り神の神通力とやらを使って、潤の姿も常人からは認識できなくしたので、誰にも気づかれない。
「いやっほ~いっ。乗り心地はどうっすか? 気持ちいいでしょ? 遊園地のアトラクションなんかには絶対負けないっすよ」
 陽気箒の快活な声が青空に響く。
 飛び上がった当初は、箒一本という頼りなさが怖かったが、それもやがて感じなくなった。柄を握ってさえいればバランスを崩すこともない。スムーズな安定飛行をする陽気箒に、潤は安心して身を任せた。
「夫さま」
 オンナノコが潤に横顔を向け、語りだした。
「この世のすべてには〝神数(かみかず)〟の(こん)というものが備わってるぞ」
 九十九(つくも)(がみ)の根源――神数。神数の根は、この世に空気のごとく存在する〝(まな)〟という、森羅万象に影響力のある神気を摂取することで成長し、いずれ神数になる。
「年数を重ねて徐々に蓄えるものもあれば、まれに偶発的に短期間で大量の〝(まな)〟を摂取するものもある。そうして一定量に達すると、神数の根は神数に変じて九十九神を生む」
 オンナノコは片手を柄から離し、自分の頭の上を指差した。
「見ておくれ、夫さま。〝神数〟という言葉を強く意識し、集中してじ~っと。夫さまにも神数が見えるはずだぞ」
 潤は半信半疑で、オンナノコの頭上の虚空に目を凝らした。神数……神数……と、心中で呟きながら。
 すぐに陽炎(かげろう)のような淡い影が見え出し、ぎょっとした。陽炎はゆらゆら、うねうねとオンナノコの頭上で曖昧にうごめき、やがて色が黒くなると、空間に漢数字となって浮かび上がった。
【九十九】。
 筆でしたためた墨字風だ。空間に描かれたそれは透明なガラスに書き記したみたいだが、首を傾けて見る角度を変えても、見づらくなることはない。常に鮮明な【九十九】が視界に映る。
「それが神数ってヤツか?」
 オンナノコが得意げな表情でうなずく。
「えへん。わらわの神数は九十九神最大値の【九十九】だぞ」
「ちなみにおいらは【十八】。いやあ、まだまだケツが青いっす。青竹箒っす」
 口を挟んだ陽気箒の柄の先を、潤は凝視した。たしかに【十八】の漢数字が見える。
「神数は九十九神の能力値でもあるぞ。日々のたゆまぬ研鑽、上雲津に幸をもたらす功徳(くどく)を積むことで〝(まな)〟を取り込み、さらに高まっていく」
 オンナノコがまなざしに憧憬をにじませた。
「九十九神の神数は【九十九】が最大、と言われておるが……。じつは古くからの言い伝えでは、九十九神を越えた上位神――〝百神(ももがみ)〟や〝千神(ちがみ)〟、〝万神(よろずがみ)〟なんてものもあるらしくてな、その頂点が最極神〝八百万(やおよろず)〟だと言われておるぞ」
 おとぎ話みたいなものだけど、とオンナノコは笑う。
「なんにせよ、神数が高ければ高いほど、高度な神通力や並外れた身体能力を会得できるってわけだぞ」
 オンナノコは片手を胸に置き、自身に語りかけるように言った。
「大好きな上雲津を守護するこの力。わらわはこれを誇りに思ってる。いや、わらわだけじゃない。九十九神もひとも、皆この町を愛し、この地に生きるものを愛している。そんな愛情が、〝(まな)〟を世界にあふれさせるのだから。でも……」
 表情を曇らせるオンナノコ。
「九十九神にだって魔が差すことがある。己の不遇を呪ったり、将来を悲観したり、悲しみ、絶望したり、あるいは欲に目が眩んだり、憎悪に呑まれたり……そうすると、ついには〝邪霧(じゃきり)〟に侵されてしまう」
「邪霧?」
「うむ、邪な心によって変異した〝(まな)〟とも言われてるぞ。〝(まな)〟自体は力の源みたいなものだから、使うものによって悪しき力になることもあるのだろう」
 邪霧に侵された九十九神は正気を失い、九十九(つくも)堕使(おとし)となる。九十九堕使は九十九神や人間を見境なく襲い、生気を奪うという。
「まあ、便宜上生気と言ってるが、それはひとや九十九神が体内に蓄えた〝(まな)〟だという説もある。そのへんはよくわからん。ただはっきりしてることは、九十九堕使に生気をすべて奪われたら、九十九神も人間も生きてはいられないということ。そして生気を得た九十九堕使は己の神数以上の力を得て、さらに邪霧を暴走させてしまう。手に負えなくなる。噂によれば、昔、どこかの町を丸ごと消滅させた九十九堕使もいたらしいぞ」
 オンナノコは「悲しく、嘆かわしいことだ」と嘆息したが、すぐに胸を張った。
「だからわらわは九十九堕使の邪霧を祓い、上雲津の皆を守らなくてはならない。それがこの地の〝(まな)〟によって生を受けた守り神の使命だぞ」
「オンナノコ……」
 潤にはまだ九十九堕使の脅威に実感がわかない。だが、オンナノコが抱えたものの大きさには圧倒された。
 見た目は自分と年の変わらない少女だ。なのにその華奢な双肩には上雲津の平和が懸かっている。多くのものたちの現在を、未来を、彼女は庇護し続けなくてはならない。
 その重責がどれほどのものか、潤には想像もつかない。ただ平凡な自分との違いに胸苦しくなるばかりだ。オンナノコの存在が遠く感じる。
 そしてあらためて思う。思わずにはいられなかった。
 守り神と夫婦になってともに上雲津を守護していくなんて、やはり無理だと。〝男らしく〟ないかもしれないが、そういう次元の話ではない気がした。中学生の自分にはすべてが途方もなさすぎる。
「守り神さま、名授さま。ほらあそこ。現場が見えてきたっすよ」
 陽気箒の声に思考を中断し、潤は前方へ目を移した。
「学校?」
 見つめる先には、やけに広々とした土のグラウンドと、くの字型の校舎が二棟。両棟ともモスグレー色のコンクリート造りの二階建てだ。周辺は住宅と田畑が半々くらいだが、グラウンドの向こうにはこんもりと雑木林が広がっている。
「上雲津学校だぞ、夫さま」
 それは潤が転入する市立学校だった。
 上雲津町は子供の数が多くない。そのため小学校と中学校の校舎が同じ敷地内に建てられている。生徒数は小学校が百人弱で、中学はその半分。運動会や文化祭を共同開催していると、引越し前に千鶴から聞かされたときは、潤は最初冗談だと思った。
「子供たちの生気を狙うつもりか。むむむ、許されんぞ、そんなたわけたこと」
 オンナノコが上雲津学校へ警戒の目を向けたとき、
「おおっと、いたっすよ! いやがったっすよ! 野郎、屋上っす!」
 陽気箒が箒の穂先を矢印のようにして、ななめ下を指し示した。潤も目を凝らす。
 あれは?
 校舎までの距離は百メートルほど。それは潤たちから見て、左側の校舎の屋上にあった。
 傘?……いや、扇?
 屋上の床に、広げた茶褐色の扇みたいな物体が居座っていた。大きさはしかし一般的な扇の数倍。屋上の昇降口扉に匹敵するほどだ。全体を紺色の光が覆い、うごめくようなその光り方が不気味に映える。さらに近づくと、広がった扇の要部分に極太の胴体があって、ようやく潤にも正体がわかった。
「蛾だな、あれ」
 それは熊並みに巨大な蛾だった。円筒状の胴体の先端にはススキのような触覚と、ストロー状の口。茶褐色の翅には目玉のような斑点が不規則に散っている。
「陽気箒、屋上へ下ろしてくれ」
 オンナノコに言われ、陽気箒が急降下する。巨大蛾から二十メートルほど間合いをとった、屋上のフェンス脇に着陸した。
 オンナノコと潤が並んで立ち、陽気箒が頭上に待機する。一方、巨大蛾は毒々しい翅を誇示するかのように広げ、翅の模様を完全に露わにした。
「むう、あの翅模様……なるほど、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだ」
 オンナノコの呟きに、潤は目を見張った。巨大蛾の翅には、音楽の教科書などで誰もが一度は目にしたことのある作曲家ベートーヴェンの肖像画が、鱗粉の濃淡で巧みに再現されていた。
「名授さま、ヤツは九十九神の……いや、今は九十九堕使となった〝肖像蛾(しょうぞうが)〟っす」
 え? ダジャレ?
「うむ、肖像蛾はたしか、学校の音楽室の肖像画から生まれた九十九神だったな」
「あ、そう言えば肖像蛾の野郎、最近〝蛾は愛されない、蝶がよかった〟って嘆いてたっすよ」
「ふん、己の〝運命〟をはかなみすぎて魔が差したというわけか。ベートーヴェンだけに」
「……」
 ここは笑うところかと思ったが、オンナノコと陽気箒が至極大真面目だったので、潤は自重した。
「夫さま、肖像蛾の全身を覆っている光のようなものが見えるか?」
「ああ、紺色の、なんだかもやもやしてるヤツだろ?」
「あれがさっき言った九十九堕使の邪霧。邪霧は濃度が高まるほど漆黒に近づき、九十九堕使の凶暴性を増加させる。祓うのが難しくなるって寸法だぞ」
 つまり紺色の邪霧を祓うのも簡単ではないということか。潤はゴクリと喉を鳴らした。
「でも心配はいらないぞ。あやつとわらわでは神数が違うもん。きっと楽勝だぞ」
 悠然と笑うオンナノコの横で、潤は、神数、神数、と心で唱えつつ、肖像蛾の触角のあたりに注目した。達筆な漢数字――神数が、ぼおっと視界に浮かび上がる。その値は【二十三】。それが本当に能力値なら、【九十九】のオンナノコとは雲泥の差だ。
「それで邪霧を祓うにはどうするんだ?」
「ボッコボコにするだけだぞ」
「え? マジ?」
「うむ。邪霧で曇った正気を呼び覚ますにはそれしかない。でも大丈夫。邪霧は鎧みたいなものだから。無傷、とまではいかないが、九十九神本体に致命傷を与えることはない。ボコボコにして破壊するのはあくまで鎧だから、心配はないんだぞ」
 いや、心配なのはそっちじゃなくて。
 潤は横目でオンナノコを窺った。オンナノコの着物の袖口から覗く腕には包帯が巻かれてある。脳裏に大根おじじの言葉がよみがえった。
〝守り神さまは……あのお方はとても責任感がお強い。上雲津の九十九神と人間を本当に愛するがゆえ、御自分が傷つくことを厭わず、御無理をなさる〟
「オンナノコ」
 潤が名を呼ぶと、オンナノコはかすかに身震いした。頬が桜色に染まり「はにゃあ」と息を吐く。
「夫さまに名を呼ばれると……なんというか、心がぽわんっと爪弾(つまび)かれるぞ。身体が熱くなって、でも潤いで満たされ、心地よく痺れて……。えへへ、わらわの奥底から滾々(こんこん)と力がわいてくる」
 はにかむオンナノコに、潤は真剣な顔で訊いた。「俺にできることは?」
 怪我を負っているオンナノコの力になるため付いてきたのだ。自分にできることがあるなら全力でしたい。けれどオンナノコは穏やかな表情で頭を横に振った。
「ここで見守っていてほしい」
「そ、それだけか?」
「夫さま、それはとても大事なことなんだぞ。夫さまが見ていてくれれば妻のわらわは頑張れる。夫さまがここにいてくれることが、わらわにとってなによりの助けだぞ」
「でも……」
 見守ることなんて、なにもできないことと一緒じゃないか。そう言いかけた潤だが、オンナノコの驚異的な身体能力や神通力をもってしても手傷を負うほどの戦いの場に、平凡な中学生の出番はない気がした。かえって足を引っ張りかねない。歯痒く、不甲斐ないけれど、それが事実だ。
 結局潤は「わかった。無理だけはするな」と、オンナノコに声をかけることしかできなかった。
「うむ。約束する」
 オンナノコはうなずき、表情を引き締めた。墨色の瞳に闘志の光が宿り、それを放つように肖像蛾を睨みつけた。拳を握る。気合によって髪がふわりと膨らむ。わずかに腰を屈め、スウッと息を吸った。
(なんじ)に神の鉄槌(てっつい)を!」
 オンナノコが飛び出した。走ったのではなく、屋上の床すれすれを飛ぶ低空跳躍だ。着物の袖をなびかせ、勢いは弾丸のごとく、猛然と肖像蛾へ迫った。
 オンナノコはそのまま拳を構える。が、すんでのところで、肖像蛾は鱗粉をまき散らして羽ばたき、オンナノコの突き出した拳をかわした。肖像蛾の真下を通過したオンナノコは、地に足をつけて立ち止まると素早く反転。もう一度身構えたが、それよりも早く肖像蛾が翅を振動させた。
 とたんに鳴り響く大音声。それは数多の楽器が奏でるオーケストラの重奏だ。ベートーヴェンの代表曲、交響曲第五番『運命』が高らかに、壮大に流れだす。
 上雲津学校を包み、空にまで届く肖像蛾の『運命』。ティンパニがホルンがコントラバスが音を重ね、そしてそれに呼応するかのように、屋上周辺に白光の塊が集まってきた。
「むう、生気を集めだしたか」
 拳大ほどの風船のように浮かぶ白光に、オンナノコが眉をひそめた。生気は屋上の床からも、フェンスの外からも現れ、ひゅるひゅると肖像蛾に吸収されていく。
 潤はフェンス越しに、学校の敷地を見下ろした。生気は校舎の壁のあちこちから生じ、屋上へ集まってくる。向かい側の校舎からの生気が少ないのは、それが小学校舎で、すでに帰宅した生徒が多いからかもしれない。
 よく見ると、校庭にいる生徒たちからも生気が抽出されている。ひとつ、ふたつ、みっつ、と生徒の身体から飛び出し、浮遊しだす生気の光。しかし生徒本人はそれに気づいていない。肖像蛾が奏でる『運命』さえ聞こえていないらしく、隣の生徒と談笑を続けていたりする。
「心配ないっすよ、名授さま」
 頭上でそう言う陽気箒からも、生気の光が飛び出していた。いや陽気箒だけではない。自分の身体からも生気が出ていることに気づき、潤はぞっとした。思わずその生気をつかもうと手を伸ばす。が、触れることさえできず、生気はすぐに肖像蛾に吸い寄せられ、取り込まれていく。
「生気の十や二十奪われても、ひとも九十九神もたいして影響ないっす。ちょびっと疲れるくらい。まあ、あんまり取られると意識なくなっちゃいますけどね。で、すっからかんになるとあの世行きっす」
「あの世行き……」
 シャレにならない。潤の顔は恐怖で強張った。陽気箒が潤の肩を、箒の穂先で励ますようにぽふっと叩く。
「平気っすよ。そうなる前に、守り神さまが邪霧を祓ってくれますから。大船に乗ったつもりで、ヨーソロー。おいらは早漏。なんつって」
 陽気箒の下ネタは無視して、潤は戦うオンナノコに目を戻した。
上雲津(かみくもつ)守護之(まもりの)霊妙(れいみょう)――」
 オンナノコの掲げた左手の先、その空間に【神】の字魔法陣が光線で描かれた。
(えん)(はらえ)!」
【神】の字魔法陣が弾けた瞬間、オンナノコの左手周辺に火花が瞬き、直後、そこに燃料が投下されたように、円盤状の炎が出現した。ごおごおと音を立て、獰猛な火炎をたぎらせ、火の粉を散らす。
「覚悟するがよい!」
 オンナノコが左手を振り下ろす。と同時に、炎の円盤は熱風とともに肖像蛾目掛けて飛んだ。しかしまたしても肖像蛾はひらりと舞い、オンナノコの攻撃を紙一重でかわす。
 すばしっこいな、肖像蛾。
 見守る潤は歯噛みをした。不安が募る。神数に差があるから楽勝だとオンナノコは言っていたが、彼女は怪我を負っている。そのせいか手こずってるように見えた。
 肖像蛾は『運命』を勇壮に響かせ、オンナノコからも生気を吸い出し、己のものとしている。しかしオンナノコは動じない。悠然と肖像蛾を見つめ、唇の端に笑みを浮かべた。
 ごおおっ。
 風の音、いや逆巻く炎熱が空気を焦がす音が聞こえ、つぎの瞬間、爆発音とともに肖像蛾が煙に包まれた。
 潤は一瞬、なにが起きたのかわからず、
(えん)(はらえ)が戻ってきたんすよ」と、陽気箒に言われてようやく理解した。どうやら炎の円盤が空中で旋回し、肖像蛾の背後を突いて炸裂したようだ。最初からオンナノコはそれを狙ったのかもしれない。
 オンナノコはもうもうと立ち込める煙の中に勢いよく跳躍した。その姿が煙に消えると同時に鈍い音が鳴り、飛び出た肖像蛾が床に叩きつけられた。肖像蛾を覆う邪霧の色が紺から黄緑色に変わっている。
「目を覚ませ!」
 這いつくばった肖像蛾目掛け、オンナノコが飛び降りてくる。着物の袖をひるがえらせ腕を振り、そのまま拳を肖像蛾に打ちつけた。肖像蛾の翅から鱗粉が飛び散り、胴体がひしゃげる。そして邪霧は黄緑からクリーム色へ変化した。
「ふむ、もう一息だぞ」
 肖像蛾の脇に降り立ったオンナノコが、再び腕を振り上げる。しかしそのとき、不意に横から現れた影がオンナノコを襲った。
「なっ!?
 オンナノコは影の体当たりをまともに喰らい、昇降口の壁際まで吹き飛んだ。彼女の細身の身体がドサッと床に落ちる。
「オンナノコ!」
「だ、大丈夫……だぞ」
 オンナノコは応じたものの、立ち上がることができない。頭だけを起こして見つめる先には、
「もう一体……いたか」
 新たな肖像蛾が空中で翅を広げていた。姿かたちはベートーヴェン肖像蛾と同一。しかし翅に描かれた肖像画は、こちらも有名作曲家、アマデウス・モーツァルトだ。全身にまとう邪霧の色は群青。触覚の上の神数は【三十一】。いまだ床でもがいているベートーヴェン肖像蛾の【二十三】と合わせても、オンナノコには及ばない。
 だがオンナノコは立ち上がったとたん顔をゆがめ、膝をついた。今の不意打ちで痛めたのか、治りきっていなかった怪我の影響か。顔色が悪く、息も荒い。
 そんなオンナノコに、モーツァルト肖像蛾がストロー状の口を飛ばした。鞭のごとくしなった口がオンナノコの首に巻きつく。「かはっ」と、息を吐くオンナノコ。肌がよじれるほど、肖像蛾の口が首に食い込んでいる。
 潤の心臓が早鐘を打った。オンナノコの危機に居ても立ってもいられなくなる。
 行くぞ! 〝男らしく〟!
 とっさに頭上の陽気箒の柄をつかむと駆け出した。
「ちょ、名授(めいじゅ)さま!? おいら武器じゃないっすよっ! しがない箒っす~!」
 陽気箒の声は頭に入ってこない。向かう相手はモーツァルト肖像蛾。潤はただオンナノコを、大事な友達を助けたい一心だった。
「オンナノコを離せ!」
 力任せに振るった陽気箒は肖像蛾の翅にヒットした。「いった~」と悲鳴を上げたのは陽気箒のほうだが。それでもモーツァルト肖像蛾はたじろぎ、ストロー口の拘束が緩んだ。
「感謝するぞ、夫さま!」
 オンナノコはその隙を突き、ストロー口を首から外した。と同時に、しっかりとそれをつかみなおして、ぐいっと引きつける。モーツァルト肖像蛾は空中でバランスを崩し、さらに引っ張られて、力強く放り投げられた。そのままフェンスに激突し、邪霧が群青から水色に変わる。
「まったく……手間をかけさせおって」
 床に落ちてもがくモーツァルト肖像蛾。それを睨みつけるオンナノコ。その足がふらついたのを見て、潤はすぐに駆け寄って彼女の腕を支えた。
「夫さま」と、潤の肩にもたれたオンナノコが甘えるように言う。
「あのね、夫さま、名を……わらわの名を呼んでほしい」
「名を?」
「強く、揺るぎない感情を込めた声には〝(まな)〟が宿って、言霊(ことだま)になる。その中でもひときわ〝(まな)〟を生じさせるのが愛情だと言われてるぞ」
「愛情?」
「うむ。わらわ、夫さまの愛が……欲しい」
 オンナノコは赤面しつつ、子猫みたいに潤の腕に頬を軽く擦りつけた。
「名授の言霊はね、守り神を癒し、神通力を高める。それこそ夫婦の絆の力だぞ。そしてわらわたちの絆と言えば、やっぱり夫さまがわらわに授けてくれた契り名だ。だから、ね?……ダメ?」
「え? あ、いや、ダメってわけじゃ……」
 オンナノコに協力したくて付いてきた。彼女の力になれるならなんだってしたいとも思う。しかし強く、揺るぎない感情――しかも愛情を求められ、潤は内心戸惑った。
 オンナノコの名を呼ぶことはもちろんできる。でもそこに愛情をこめられるのか?
 幼い頃、大の仲良しだったオンナノコ。ふたりで夢中になって遊んだ日々も、今は思い出した。だから七年ぶりの再会は素直にうれしいし、オンナノコを大切に想う気持ちだってある。でもそれは友達としてだ。オンナノコが言う愛とはたぶん違う。夫婦の絆じゃない。言霊(ことだま)夫婦(めおと)と言われて急に愛情がわくわけでもない。そんなの嘘くさい。だいいち愛ってなんなんだ? よくわからない。
 でもそれだと戦うオンナノコの力になれない。
 逡巡していると、オンナノコが微笑みかけてきた。そのまなざしは相手を抱擁するように深く、おおらかで、優しい。
「夫さま、先にわらわの想いを、もらってほしい」
 オンナノコは自らの胸に手を置き、潤の耳元に口を寄せた。その際、オンナノコの吐息が頬に触れ、ほのかに甘い芳香が、潤の鼻腔をくすぐった。
「――潤と再会できて、わらわは今、世界でいちばん、幸せだ」
!?
 潤の身体に電流が走った。それは心地よい歓喜の痺れ。心の痺れ。琴線(きんせん)に触れ、言葉と心がまぐわい、恍惚に満たされる。
 なんて気持ちいいんだ……。
 言葉の一音一音、呼ばれた自分の名、彼女の声、そのすべてが潤の中で結びつき、瑞々しくあふれ、たしかな力となって刻印された。
 これが〝(まな)〟が宿った言葉――言霊?
 好意を向けられる快感。自分が必要とされる充実感。それらが勇気を生み、希望となって、未来への推進力をみなぎらせる。
 ああ、この力……。今度はオンナノコにあげたい。彼女にも感じてもらいたい。
 潤は今なら、オンナノコを呼ぶ声に〝(まな)〟を宿らせ、言霊にできる気がした。根拠はない。愛情とか夫婦の絆とかは、正直ピンとこない。
 でも……。潤は心で呟いた。
 友達を心配し、力になりたいと心から願う気持ちはある。それは七年間の空白を埋めるほどの〝強く、揺るぎない感情〟。今はそれで充分だ。きっと愛情に匹敵する。匹敵させてみせる。
 潤はゆっくり息を吸う。心を湖面のように静め、その清冽な水でオンナノコの名前を清めていく。頭の中を彼女でいっぱいにした。
 オンナノコ。上雲津の守り神。
 オンナノコ。一緒にいるだけで楽しかった親友。
 オンナノコ。自分と再会できて幸せだと言ってくれた――女の子。
 今、おまえの名を呼ぼう。
 熱っぽい視線のオンナノコにうなずき、息を吸い、そして潤は口を開いた。素直に、真摯に、想いを音に。
「……オン――っ!?
 だが紡ごうとしたその声――オンナノコの名前は半分も呼べずに断たれた。腹部を突然襲った激しい圧迫感と痛みに喉が詰まり、息が止まったからだ。しかも視界が下から上に大きくぶれ、気づいたときには、自分の身体が空中へ持ち上げられていた。
「夫さま!」
 オンナノコの姿は今はもう五、六メートル下だ。驚く潤の目には、自分の腹部に幾重にも巻きつき、ギュギュっと音を立てて縛り上げてくる肖像蛾のストロー口が映った。
 ベートーヴェン!?
 潤を吊り上げたのは、先程まで床に這いつくばっていたベートーヴェン肖像蛾だった。
「わらわとしたことが、迂闊!」
 オンナノコが顔色を変え「離せ! 夫さまを今すぐ離さんか!」と、ベートーヴェン肖像蛾に飛びかかろうとする。が、駆け出したオンナノコの足はもつれ、脱力したかのようにへなへなと倒れてしまった。
「あ……れ? な、なにこれ?……わらわ……わらわの身体が……変だぞ……」
 狼狽し、自分の両手を眼前にかざすオンナノコ。その全身の輪郭がぶれた映像みたいに二重となり、激しく揺れ動き、一瞬もとに戻っても、すぐにまた分離する。
「これ……は? わらわ……いったい!?
「オンナノコ!?
 オンナノコを見下ろす潤はべつの異変にも気づいた。オンナノコの頭上の神数がおかしい。【九十九】と示していたそれが、十の位も一の位も矢継ぎ早に数の増減を繰り返し、見る間に変化の速度が上がって数字の視認ができなくなった。
 なにが起きてんだ!?
 自身のことより、呆然自失で膝をついているオンナノコが心配だ。今すぐそばに行きたい。潤はベートーヴェン肖像蛾の拘束から逃れようと必死にもがく。だが引っ張っても、殴っても、ストロー口の緊縛は少しも緩まない。
「ま、守り神さま!?
 陽気箒の声に、潤は再び視線を下ろした。陽気箒がおろおろとオンナノコの頭上を飛び回っている。
 なんだあれは?
 潤は眉をひそめた。オンナノコを無数の光……いや、数多(あまた)の光によって創られた空間文字――【愛】が取り囲んでいた。
 その無数の【愛】を描く光は、肖像蛾が集めていた生気よりもさらに純然たる白さで、昼間の陽光がくすんで見えるほどに明るい。神々しく、まるで邪を祓う聖なる光。それらすべてが無数の【愛】の字を形作り、とどまることなく量を増やしていく。
 浮遊する大量の【愛】の字。大きさは大小さまざまだ。それらがオンナノコの周囲の空間を埋めつくし、しだいに彼女の身体さえも覆っていく。
「これは……これは〝(まな)!?
 驚愕の声を上げたオンナノコは瞬く間に【愛】の字に包まれ、呑み込まれ、【愛】のまばゆい光と同化し、その形をなくした。
「オンナノコ!」
 卵型の光の塊となったオンナノコ。潤の呼びかけにも応えない。
 直後、その光の塊は、ぶおんっと低く鳴動すると同時、ふたつに分離した。左右に分かれた二個の光は屋上の床でボールのように弾み、空中で一度静止。内部でなにかが暴れるみたいに、ぐぐっと変形しつつ、再びゆっくりと降下をはじめた。
 やがて床に降り立ったふたつの光の塊は、どちらもひとの形になっていた。急速に光度が弱まり、容姿が明確になっていくふたり。どちらも和服を着た少女だ。しかし――。
 オンナノコ……じゃない?
 オンナノコとは別人の出現に、潤は目を疑った。陽気箒が「ひええ~、いったいぜんたいどこの誰っすか? 守り神さまはどこっすか~!?」と、箒の穂先でクエスチョンマークを作りながら、右往左往する。
 現れたふたりは、オンナノコと同じくらいの年恰好をした少女だった。
 ひとりはくせっ毛のショートヘア。小さな顔に収まった大きな瞳は、目じりが少し上がっていて活発な印象だ。愛らしい唇は桃色で顎は細く、身体もほっそり。健康そうな肌のつや。着ている和服の色はオンナノコと同じ空色だが、仕立ては風変わりで、袖や裾がずいぶん短い。すらりとした足が膝上まで覗いているほどだ。
 そしてその頭の上に示された神数は【五十】だった。
「ありゃりゃ、なにこれ? これがあたし? あたしがこれ? え~と、え~と、考えるんだ考えるんだ…………って、やっぱ無理! あたしの頭じゃ、わっかんない! あ~ん、いったいなんなのさ!?
 頭を抱えるショートヘア少女。口調は違うが、声質はオンナノコに似ている。
 そんな彼女の背後に迫るモーツァルト肖像蛾に気づき、潤は反射的に叫んだ。
「危ない!」
 鱗粉の舞う翅を羽ばたかせ、少女との距離を詰めるモーツァルト肖像蛾。突き出したストロー口の先端は槍のように鋭利で、陽光が不穏に反射する。
 しかし潤の声が聞こえなかったのか、ショートヘア少女は振り返らない。ただ頭を抱えていた両手を下ろし、なんの力みもなく、その場で軽やかにジャンプした。
 ひらり。花びらが風に舞うように。
 少女は空中で身体を捻り、強烈な回し蹴りを肖像蛾に喰らわした。肖像蛾は吹き飛ばされ、またもやフェンスに激突。フェンスがゆがむほどの衝撃に、肖像蛾の鱗粉は盛大に飛び散り、同時に水色の邪霧は金属が割れるような音とともに消失した。気を失ったのか、倒れた肖像蛾はそのまま動かない。
「あたしにいったいなにが起きちゃったんだ? も~、頭ん中、ぐるぐる~!」
 着地したショートヘア少女は、戦闘なんてなかったかのようにただひたすら頭を捻っている。その声に答えたのは、もうひとりの少女だ。
「わたくしもこの状況には驚きました…………でもそれよりも自分のたわわなおっぱいにびっくりです。うれしいですけど」
 やはり声質がオンナノコにそっくりな少女は、長い黒髪を右サイドだけひと房垂らし、残りをうしろでひとつにしばっている。
 星をまぶした瞳は目じりがやや下がって、穏和な雰囲気。右目の下には泣きぼくろ。頬から顎にかけての滑らかなラインに、未成熟な艶っぽさが漂う。細身だが、当人が言うように、着物の上からでも胸のふくよかさは一目瞭然。その和服はやはり空色で、袖や裾の長さはこちらは一般的。しかしいたるところにフリルの飾りが施され、ドレスみたいな趣がある。その頭上の神数は【四十九】だ。
「お尻もなんだか大きくなったみたいで、う~ん、これはあまりうれしくないです……――と、こんなことを言ってる場合ではありませんね。あちらの肖像蛾さんも懲らしめないとです」
 泣きぼくろ少女はしとやかに言うと、左手をすうっと掲げた。
上雲津(かみくもつ)守護之(まもりの)霊妙(れいみょう)――」
 厳かな祝詞(のりと)に呼応し、少女の左手の先に【神】の字魔法陣が出現する。
「――(すい)(はらえ)
【神】の字が弾けると、少女の指先から水流が噴き上がった。水流は重力を無視し、水滴ひとつ落とすことなく空中を走り、直線と曲線を描いていく。あっという間にそれは一張(ひとはり)の弓の形をなし、最後に水の矢をつがえると、少女の手に収まった。
 悠然と水流の弓矢を構える少女。ぎりぎりと弦を引き絞っていく。
「わたくしたちの大切な方を、いいかげん離してくださいね」
 おっとりと言いつつ、少女は水流の矢を放った。矢は残像が生じる速度で飛び、一直線にベートーヴェン肖像蛾の腹部に命中。キィンッと邪霧の消失音を響かせ、肖像蛾が纏っていた邪なものは霧散した。ベートーヴェン肖像蛾はその場にくずおれ、潤を空中で拘束していたストロー口が、はらりとほどける。
「名授さま、お手を」
 横から飛んできた陽気箒の柄をとっさにつかみ、潤は落下を回避した。そのままゆっくり着地し、陽気箒とともにふたりの少女と対峙する。
 空色和服姿のふたりは、自身の身体を見下ろしたり、触ったり、互いの姿を興味深げに眺めたり、しまいには顔を見合わせ、小首をかしげた。
 ショートヘア少女が「これってさ」と、困惑顔で切り出す。
「もしかすると、夫くんの言霊が……こう、なんていうか、バーンと炸裂しちゃった的な?」
 夫くん?
 泣きぼくろ少女が鷹揚にうなずく。
「わたくしもそう考えていたところなのです。(ことわり)を変えるほどの名授さんの言霊……。つまりは、わたくしたちへの愛の深さが起こした…………奇跡! そう、奇跡なのです。ああ~、夫さんにそれほど愛されているなんて、し・あ・わ・せ」
 夫さん?
 呆然と立ち尽くす潤に、ふたりの少女が意気揚々と駆け寄ってくる。
 このふたり……。
 間近で見るふたりの相貌や物腰に、潤はオンナノコの面影を感じて戸惑った。
 なんだこの感覚?
 好意をあらわにした表情と、オンナノコと同じ墨色の瞳、親愛のまなざし。それらを向けられた潤には、ふたりの姿がオンナノコと重なって見える。感じるのだ。先程までいたオンナノコの息遣いを。
 見えているのに見えていない。見えていないのに見えている。そんなだまし絵を眺めているみたいな妙な違和感。曖昧なもどかしさを抱く中、泣きぼくろ少女が穏やかな声で話しかけてきた。
「ねえ、夫さん。夫さんは先程、肖像蛾さんに邪魔されて、わたくしたちの……というより、守り神の契り名を、最後まで言い切れませんでしたよね?」
 肖像蛾に宙吊りにされたときのことを思いだし、潤は首肯した。
 ショートヘア少女が「そうそう、あのときたしか……」と、ななめ上を見ながら言う。
「夫くんは、オンナノコの〝オン〟しか言えなかったんじゃない? ね? だよね?」
「あ、ああ、そうだったかも」
 なぜか、にはは、とうれしそうに笑うショートヘア少女の隣で、泣きぼくろ少女が「それなのです」と、納得顔。
「契り名は言い切れませんでしたが、あのときの夫さんの言葉……〝(まな)〟のたくさん詰まった言霊の力が、不慮の事故によってわたくしたちに強烈な影響を与えたのだと思うのです。そう、存在を創りかえるほどの」
 そう言われても、潤にはちんぷんかんぷんだ。ただ自分がとんでもないことをしでかしたように思え、ごくりと喉が鳴った。そんな潤の頭上で、陽気箒が口を挟んだ。
「ちょいとお三方、おいらには小難しいことはさっぱりっす。聞いてると脳味噌に埃が被るっす。さすがの陽気箒もてめえの頭の中は掃けないっすからね」
「……」
「今の笑うところっす。まあいいや。とにもかくにも、知りたいのはふたつ。守り神さまがどうなっちまったのか。それとラブリーな姉ちゃんたちが何者なのかってことっす」
 ふたりの少女は顔を見合わせ、すぐにクスクスと笑った。まるで仲のいい姉妹だ。
「それ、ふたつじゃないよ」
「ええ、ひとつなのです。だってわたくしたちは――」
 ふたりそろって悪戯っぽい表情で、同時に言った。
「上雲津の守り神」
 その答えを心のどこかで予期していたのか、潤は不思議なくらい驚かなかった。それよりも、このだいそれた異変の原因が自分にあることを確信し、青ざめた。おずおずとふたりを指さす。「おまえら、やっぱオンナノコ?」
 ふたりの少女は、ともに瞳を細め、自分の胸にそっと手を置いた。それはオンナノコがよくやる仕草だ。
「そうさ、夫くん」
「そうなのです、夫さん」
 ショートヘア少女が潤の右手を、泣きぼくろ少女が潤の左手をそっと取ると、ふたりはオンナノコの声で告げた。
「あたしは――オン」
「わたくしは――ナノコ」
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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