三
文字数 7,256文字
三
綾乃瀬 笹 の自宅は、住宅地の一角にある古びた一軒家だった。
潤 はその前に立ち、切妻 屋根の二階建て家屋を眺めた。玄関の表札が三分の一ほど欠けて、傾いている。モルタル壁の塗装はあちこち剥げ、窓の一部は、ガラスの代わりにビニールシート。屋根にはトタンで修繕したあとが目立ち、雨どいは壊れて、ぷらんっと垂れ下がっていた。
上雲津 に古い家は多いが、綾乃瀬家はその中でもだいぶくたびれた印象だ。
「あ……」
声が聞こえ、潤は顔を向けた。「ナノコ」
猫の額ほどの庭に、ナノコが立っていた。フリル和服の袖をたすきがけで結び、手に洗濯物用のカゴを抱えている。その後方、庭にしつらえた物干し竿に衣服が干され、春風にはためいていた。
「夫……さん?」
ナノコは幻でも見たような表情で目を瞬かせた。潤は離婚宣言をした手前ばつが悪く、ぎこちない笑みで応じる。不意にナノコはカゴを落とし、潤のほうへ駆け寄ってきた。
「夫さん!」
そのまま潤の胸に飛び込むナノコ。
「え、ちょっ……」
ナノコの大胆な行動に、潤は目を白黒させた。背中に両腕を回したナノコにギュッと抱きしめられ、自分の両手をどうしたらいいかわからず、とりあえず宙に浮かせた。鼓動が高鳴る中、ナノコが「もう一度ナノコと呼んでほしいのです」と、甘えてくる。
「……ナノコ」
「うれしい……本当に……本当に……。昨日のことがあったから、夫さんに二度と名前を呼ばれないんじゃないかと、不安で不安で……」
ここに来たことが……ナノコに会いに来たことが間違ってなかったと、潤は確信した。
放課後に綾乃瀬家に行こうと決めたのは、オンとナノコの作った弁当を食べ終えたときだった。潤は自分の決意をナノコに伝えたかった。
だから笹に頼んで、自宅に案内してもらおうと思っていたのだが。帰りのホームルーム後の清掃時間、潤は体育館担当のひとりになってしまった。他よりも手間と時間がかかる。なるべく急いで終わらせて教室に戻ったが、ほかの生徒はあらかた帰ったあとで、笹もすでにいなかった。
こんなことなら清掃前に笹に頼むべきだったと後悔したが、一緒の清掃班だった篤生 に訊いてみたら、笹の自宅場所をあっさり教えてくれた。小学校からクラスメイトだと、互いの家の場所くらいは知ってて当然らしい。
さっそく学校をあとにし、教えられたとおり上雲津二区の区民館の裏で、綾乃瀬家を見つけたというわけだ。
「あの……ナノコ、そろそろ離れたほうが」
綾乃瀬家の玄関先。ナノコに抱きつかれた潤は、彼女の身体の細さと甘い芳香にくらくらしていた。とくに押しつけられたふくよかな胸の感触が刺激的すぎる。なんだこの弾力は。未知の柔らかさだ。理性が確実に削られていく。
「ん~、もうちょっと」
「いや、でも…………当たってるし、胸が」
「はい、当ててるんです」
神なのに小悪魔か!?
全身が火照りだした潤にかまわず、ナノコは幸せそうに「夫さんが会いに来てくれましたぁ」と、頬ずりしてくる。いっこうに潤から離れる気配がない。
しかたない。潤は平静を装って、このまま話すことにした。
「……昨日は悪かった、謝る、ごめん」
顔を上げたナノコの表情は、緊張と不安で強張っていた。潤の真意を図りかねているのだろう。そんな彼女を安心させたくて、潤は少し早口で告げた。
「でもやっとわかった。俺、バカだから、だいぶ遅れたけどさ。なにが大切なのか。その大切なことのために、自分が本当はどうしたいのか。ようやく気づけたんだ」
ナノコが小さくうなずく。それにうながされ、潤は続けた。
「俺は今、オンとナノコたちと一緒にいたい。そばにいたい。七年間待っててくれたオンナノコの想いにきちんと向き合いたい。ずっと忘れてたくせに都合よすぎかもしれないけど、やっぱり俺にとってオンナノコは大切なんだ」
「夫さん……」
「だから俺、名授 申し合いに出る。それで絶対に勝つ。勝ってみせる。笹に守り神は渡さない」
とたんにナノコの瞳が潤んだ。頬を朱に染めながら、ナノコは潤を抱きしめていた腕を解き、自身の胸にそっと手を置いた。
「とても優しくて、頼もしい言葉……いえ、これは素敵な言霊 なのです」
涙をこぼしながらナノコは笑った。
「やっぱりわたくし、夫さんが好き。大好き。夫さんと夫婦になりたいのです」
潤は体温が二、三度上がった気がした。照れくさい。けれどナノコの笑顔を見られたことがたまらなくうれしかった。こんなときに返す気の利いた言葉が見つからないことだけが、唯一残念だけれど。
そんな潤の手を取って、ナノコは言った。
「名授申し合い。夫さんなら、きっと笹さんに勝てるのです」
守り神のお墨付きをもらい、潤は俄然やる気と自信がみなぎってきた。
「ありがとな、ナノコ」
ふと、その名授申し合いの相手、笹がどうしているのか気になった。玄関先での潤とナノコの話し声が聞こえていれば、すぐにでも飛び出してきそうなものだが。
「笹はいないのか?」
こそこそ隠れてナノコに会ったと思われたくはない。潤は己の決意を伝えるため堂々とナノコに会いに来たのだし、堂々と笹との名授申し合いに臨むつもりだ。
「いえ、笹さんはいるのです」
ナノコは潤の手を引いて「こちらなのです」と、庭に面した大きな掃き出し窓の前へ移動した。窓は開いていて、薄茶色に変色した白カーテンが片側で結わえられている。ナノコは家の中を指さし、声を潜めた。
「あそこなのです」
そこは八畳ほどの和室だ。敷かれた畳はあちこちささくれ立って、シミができている。壁際に置かれた小さなテレビと時代がかった木製の箪笥。炊飯器や電話機が畳に直に置いてあって、雑多な印象を受ける。奥の障子戸は穴だらけ。
そんな中、笹は中央に置かれた卓袱台の横で、仰向けになって眠っていた。
「洗濯物を取り込むのを忘れて、眠ってしまって。だからわたくしが少しお手伝いしていたところなのです」
気持ちよさそうに眠る笹は、ボーダー柄のシャツと七分丈のボトムス姿だ。シャツがはだけて腹が見えている。薄桃色の唇と長い睫が目を引くあどけない寝顔。スリムでなまめかしい白い腹。元々中性的な笹だが、無防備な姿が一瞬女子に見えて、潤はドキリとした。
犯罪的に美少年だよな、あいつ。
ついそんなことを思う潤の横で、ナノコが言う。
「笹さんから少し話を聞いたのです。わたくしとしては弱みでも握って、いろいろ画策できればと思っていたのですが。ふふふ」
腹黒そうな笑みを浮かべてから「冗談です」と、ペロッと舌を出した。
「でも興味深いことがいくつか。笹さんによると、先祖が言霊 夫婦 だった影響で、昔の綾乃瀬家は地主としてたいへん裕福な暮らしをしていたそうです」
そういえばと潤は思い出す。守り神は福をもたらし、言霊夫婦の家はその加護によって栄えると――。先日オンやナノコが千鶴 とそんな話をしていたはずだ。つまり綾乃瀬家もその恩恵にあずかっていたのだろう。
「でも言霊夫婦が代替わり、時が経つにつれ、当然その影響は薄れていきました。綾乃瀬家もまたご家業の失敗が重なり、土地を手離し、しだいに貧窮していったそうです。そしてそれは今も」
ナノコはあちこちガタがきている綾乃瀬家を見やり、複雑そうな表情を浮かべた。
「じつはその悪い流れを変える絶好の機会があったみたいです」
それは笹の曾祖母が若かりし頃の話だという。
「まだ十代だった笹さんのひいおばあさんが、当時の守り神と恋仲になったらしいのです」
「え? じゃあ言霊夫婦に?」
首を横に振るナノコ。
「そうなっていたら再び綾乃瀬家に福がもたらされ、今の笹さんの暮らしも楽になっていたかもしれないのです」
ひいおばあさんは結局守り神にフラれたそうですと、ナノコは付け加えた。
潤は、おや? と思った。潤の曾祖母が名授だったことは聞いている。守り神と恋仲だった笹の曾祖母と、言霊夫婦だった潤の曾祖父母。時期的な重なりに胸騒ぎがした。
「まさか……」
ナノコは上目づかいで「わたくしは夫さんひとすじなのですよ」と、強調する。
「え~と、つまりそのときの守り神は、笹のひいばあちゃんをふって、俺のひいばあちゃんと言霊夫婦になったってことか?」
ナノコはうなずき、言いにくそうに瞳を伏せた。
「笹さんのひいおばあさん、生前、周囲に盛んに吹聴 していたそうです。古賀崎 家の泥棒猫が、でかいおっぱいで守り神を誘惑して寝取ったんだ、と」
ほ~、俺のひいばあちゃん、巨乳だったか…………って、どうでもいいわ!
潤は天を仰いだ。
笹が自分に異常な敵愾心を燃やしていることに納得がいった。因縁があったのだ。綾乃瀬家と古賀崎家に。おそらく笹は、曾祖母から守り神を奪い、貧乏生活脱却の希望の芽を摘み取った古賀崎家に雪辱を果たしたいのだろう。そしてひ孫である自分が今度こそ言霊夫婦となって、暮らし向きを立て直したい。そう思ってるに違いない。
「そういうことか……」
ああ、ひいじいちゃん、ひいばあちゃん。あんたらのせいでひ孫は大変だ。
潤の渋面に、ナノコはしゅんとした。
「ごめんなさい。わたくし、余計なことを言ってしまったみたいなのです……」
「ん? いや違う違う、ナノコが気にすることはなにもない」
潤はうたた寝している笹を見つめた。幼い寝顔。普段の憎らしい態度が嘘みたいだ。
「あいつ、毎日新聞配達してるらしいな。同じ中学生なのに、生活のために働いて頑張ってる……。どうにかならないもんかな」
ナノコは「でも夫さん」と、まなざしに不安をのぞかせた。
「笹さんの事情に同情して、名授申し合いの勝利を譲ったりするのは――」
潤は片手を軽く上げて、ナノコの発言を遮った。「わかってる」
ナノコをまっすぐ見つめた。
「それとこれとは話が別だ。さっき言っただろ? 俺はオンナノコを笹に渡す気はない。適当な気持ちで言ったわけじゃないし、適当な気持ちで名授申し合いに臨むわけでもない。そんなことしたら、ナノコにもオンにも、それに相手の笹にも失礼だ」
「夫さん……」
「俺はただ、笹みたいに頑張ってる奴は絶対に手強いぞって、気を引き締めてただけだ。大丈夫。勝ちたい気持ちは笹に負けない。ナノコたちと一緒にいたいからな」
言ったそばから、かっこつけすぎかとはずかしくなり、潤は顔をそらした。ナノコは「夫さん」と、嬉しそうに腕をからませてくる。
「なでなで、してくれませんか?」
「なでなで?」
「あさってまでの別居期間を耐えられるように、夫さん成分を充填しとくのです。だから頭をなでなで」
どぎまぎする潤の手を取り、自分の頭に導くナノコ。
「お願いなのです」と、ナノコに請われ、潤はぎこちなく彼女の頭をなでた。ナノコの細く艶やかな髪の手触りがサラサラとして気持ちいい。
「し・あ・わ・せ」
上気した顔のナノコが、潤にしなだれかかってきたときだ。
「古賀……崎……?」
笹の声が聞こえ、潤は綾乃瀬家の室内に目を動かした。いつのまにか笹は上体を起こし、こちらに顔を向けている。
いちゃついてんじゃねえ――などと怒声が飛んできそうで、潤はナノコからさりげなく身を離した。だが笹はとろんとした瞳で、潤とナノコを見つめるばかりだ。口はだらしなく半開きで、首を左にこっくり、右にこっくり傾け「ふわ~ぁ」と、欠伸をする。
「悪い、笹。勝手に家に押しかけて」
「あぅ……ん」
気だるげに、妙に色っぽい声をもらした。寝ぼけてるのだろうか。笹はぼんやりと視線をさまよわせ、ぽりぽりと腹をかき、それから「おはようございましゅ」と、ぺこっと頭を下げた。
うん、完全に寝ぼけてる。
潤がそう思った矢先、笹はビクッと身体を震わせ、目を見開いた。焦点が潤に合うと、そのまま鋭い視線で射抜いてくる。
「こ、古賀崎……潤……!?」
顔色を変え、すぐに立ち上がった。勢いあまってふらつき、箪笥に手をついたら、その振動で上に置いてあった小型の置時計が落ちてきた。頭にゴツッと命中し、身悶える笹。
「や、やりやがったな、古賀崎潤」
やってない、なんもやってない。
「なんでここにいんだ、てめえ!? さては名授申し合いに勝つ自信がねえからって、寝込みを襲いにきやがったか!? 卑怯! 度し難い卑怯野郎!!」
「いやいやいや、俺は名授申し合いに出ることを伝えにだな」
しかし笹は聞く耳を持たない。自分の身体をあちこち確認するようにまさぐっている。
「変なことしてやがったら許さねえ。末代まで呪ってやる」
「するわけないだろ。まあ、寝顔とへそは見たな。腹出して寝てるから、おまえ」
正直に言ったら、笹の顔は沸騰しそうな勢いで真っ赤になった。百面相のように表情をくるくる変えて、最後は憤怒の形相に。わなわなと震えながら、怨嗟の声を炸裂させる。
「名授申し合いの日を首を洗って待ってろよ卑怯者! 出歩けないほどの屈辱的な敗北を味わわせてやる! せいぜい覚悟しとけ下衆 野郎! てめえは上雲津に語り継がれる恥さらしになるんだ!!」
笹は「守り神から離れて今すぐ消えろ!」と、最後にひときわ大きく怒鳴ると、部屋の奥の障子戸を乱暴に開けた。その拍子に立てつけの悪い戸が外れ、慌ててはめなおす。
「くそっ……くそ~っ」
ようやく戸を直し終えた笹は、細い肩を怒らせつつ奥に引っ込んでしまった。
弁当の礼をナノコに言って、綾乃瀬家をあとにした。すでに西の空は夕陽に染まり、流れる雲も茜色に染まっている。
農作業を終えた老夫婦が、田畑のあぜ道で一服している。自転車に乗った子供たちが農道を競うように走り、手をつないだ母と子は『むすんでひらいて』を歌いながら家路を辿る。スクーターで家々を巡るのは、夕刊の新聞配達員。どこからか夕餉の匂いが漂う。
そんな中、潤は名授申し合いのことを考えつつ、自宅へ向かっていた。
名授申し合いは、潤と笹で互いに生み名を試み、神数 の高い九十九 神 を誕生させた者が勝ちとなるルールだ。
意気込みは大いにある。が、昨日の大根おじじの屋敷での件で、名授としての未熟さは自覚している。現時点では笹のほうが上だ。それは明らかだ。
でも悲観はしていない。本番はあさって。まだ時間はある。その間に自分を鍛え、向上させればいい。問題はその修行方法だ。どうしたら名授の力を上げ、生み名を高い神数に結びつけることができるのか?
しきりに頭を捻りながら歩く。その足が不意に止まった。すでに古賀崎家の近く。三日前に御髪 地蔵 に襲われ、オンナノコに助けられた公園の前だった。
「オン?」
公園出入り口の門柱に背をもたれ、いつもの和服姿のオンが腕組みをして立っていた。ツンッと口を尖らせ、そっぽを向いたむくれ顔は不機嫌丸出しだ。明らかに今朝の喧嘩が尾を引いている。
帰宅したらオンに謝るつもりだった潤だが、予定より早くその機会が訪れたようだ。
「あのさ、オン。今朝のことだけど、俺、ひどいこと言った。謝るよ。ホントごめん」
腕組みを解いて横目でこちらを窺うオン。だが潤と目が合うと、すぐにそらした。潤はオンの横顔に語りかける。
「それと昨日の離婚宣言のことも。俺、こうしなきゃいけないって勝手に決めつけて、自分の気持ちも、オンナノコの気持ちも全然考えてなかった」
バカだよな、と自嘲してから、真剣な表情で続けた。
「でももうそんなことしない。大事なのは自分がどうしたいかだし、オンやナノコに自分がなにをしたいかだと思うんだ。正直、結婚とか夫婦とかはまだピンと来なかったりもするけど。でも俺は……古賀崎潤は――」
オンの心に届けと、潤はきっぱりと告げた。
「これからは〝自分らしく〟、オンやナノコと付き合っていきたい。守り神のパートナーになりたい」
オンは電撃に撃たれたみたいに身震いした。目を真ん丸に見開き、飛び跳ねるように潤の眼前に駆け寄ってくる。胸の前でキュッと両拳を握り、喜ぶのを我慢した表情で、潤の顔を覗き込んできた。
「夫くん……本当? 今の本当の本当のホント?」
「ああ、だから名授申し合いに出て笹に勝つ。約束する」
それを聞いたオンは一拍置いてから、飛び上がってガッツポーズをした。
「やったー!」と、歓喜の声を上げ、それから潤の手を取ると、その周囲をくるくる回りだした。
「夫くん、やばい……これやばすぎ、うれしすぎて、あたし爆発しそー」
瞳を潤ませつつも、小さな太陽を思わせる明るく華やいだ笑顔を見せた。
その笑顔に、潤は見惚れた。自分の言葉で彼女が笑ってくれたことが心底うれしく、なんだか誇らしかった。言葉の力ってすごい。いや、きっとそこに込めた想いが言葉に力を与え、オンの胸に届いたんだ。
潤は思う。もしそれを言霊と言うのなら、ほんの少しは自分も成長してるのかもしれない、と。
「というわけでオン、いろいろひどいこと言ったけど、許してくれるか?」
潤があらたまって訊くと、オンはぱちぱちっと瞬きをし「んん、なんのこと?」と、あさっての方を見てとぼけた。
「許すとか許さないとかって、あたしにはさっぱりだよ」
オンは、にはは~と笑い、それから潤の鼻の頭を指で軽くつついた。
「あたしはね、夫くん。ただここに、宇宙一大好きな夫くんを迎えに来ただけだもん」
オンに言われた〝宇宙一の甲斐性なし〟の汚名返上ができて、潤はほっとした。
「あ……」
声が聞こえ、潤は顔を向けた。「ナノコ」
猫の額ほどの庭に、ナノコが立っていた。フリル和服の袖をたすきがけで結び、手に洗濯物用のカゴを抱えている。その後方、庭にしつらえた物干し竿に衣服が干され、春風にはためいていた。
「夫……さん?」
ナノコは幻でも見たような表情で目を瞬かせた。潤は離婚宣言をした手前ばつが悪く、ぎこちない笑みで応じる。不意にナノコはカゴを落とし、潤のほうへ駆け寄ってきた。
「夫さん!」
そのまま潤の胸に飛び込むナノコ。
「え、ちょっ……」
ナノコの大胆な行動に、潤は目を白黒させた。背中に両腕を回したナノコにギュッと抱きしめられ、自分の両手をどうしたらいいかわからず、とりあえず宙に浮かせた。鼓動が高鳴る中、ナノコが「もう一度ナノコと呼んでほしいのです」と、甘えてくる。
「……ナノコ」
「うれしい……本当に……本当に……。昨日のことがあったから、夫さんに二度と名前を呼ばれないんじゃないかと、不安で不安で……」
ここに来たことが……ナノコに会いに来たことが間違ってなかったと、潤は確信した。
放課後に綾乃瀬家に行こうと決めたのは、オンとナノコの作った弁当を食べ終えたときだった。潤は自分の決意をナノコに伝えたかった。
だから笹に頼んで、自宅に案内してもらおうと思っていたのだが。帰りのホームルーム後の清掃時間、潤は体育館担当のひとりになってしまった。他よりも手間と時間がかかる。なるべく急いで終わらせて教室に戻ったが、ほかの生徒はあらかた帰ったあとで、笹もすでにいなかった。
こんなことなら清掃前に笹に頼むべきだったと後悔したが、一緒の清掃班だった
さっそく学校をあとにし、教えられたとおり上雲津二区の区民館の裏で、綾乃瀬家を見つけたというわけだ。
「あの……ナノコ、そろそろ離れたほうが」
綾乃瀬家の玄関先。ナノコに抱きつかれた潤は、彼女の身体の細さと甘い芳香にくらくらしていた。とくに押しつけられたふくよかな胸の感触が刺激的すぎる。なんだこの弾力は。未知の柔らかさだ。理性が確実に削られていく。
「ん~、もうちょっと」
「いや、でも…………当たってるし、胸が」
「はい、当ててるんです」
神なのに小悪魔か!?
全身が火照りだした潤にかまわず、ナノコは幸せそうに「夫さんが会いに来てくれましたぁ」と、頬ずりしてくる。いっこうに潤から離れる気配がない。
しかたない。潤は平静を装って、このまま話すことにした。
「……昨日は悪かった、謝る、ごめん」
顔を上げたナノコの表情は、緊張と不安で強張っていた。潤の真意を図りかねているのだろう。そんな彼女を安心させたくて、潤は少し早口で告げた。
「でもやっとわかった。俺、バカだから、だいぶ遅れたけどさ。なにが大切なのか。その大切なことのために、自分が本当はどうしたいのか。ようやく気づけたんだ」
ナノコが小さくうなずく。それにうながされ、潤は続けた。
「俺は今、オンとナノコたちと一緒にいたい。そばにいたい。七年間待っててくれたオンナノコの想いにきちんと向き合いたい。ずっと忘れてたくせに都合よすぎかもしれないけど、やっぱり俺にとってオンナノコは大切なんだ」
「夫さん……」
「だから俺、
とたんにナノコの瞳が潤んだ。頬を朱に染めながら、ナノコは潤を抱きしめていた腕を解き、自身の胸にそっと手を置いた。
「とても優しくて、頼もしい言葉……いえ、これは素敵な
涙をこぼしながらナノコは笑った。
「やっぱりわたくし、夫さんが好き。大好き。夫さんと夫婦になりたいのです」
潤は体温が二、三度上がった気がした。照れくさい。けれどナノコの笑顔を見られたことがたまらなくうれしかった。こんなときに返す気の利いた言葉が見つからないことだけが、唯一残念だけれど。
そんな潤の手を取って、ナノコは言った。
「名授申し合い。夫さんなら、きっと笹さんに勝てるのです」
守り神のお墨付きをもらい、潤は俄然やる気と自信がみなぎってきた。
「ありがとな、ナノコ」
ふと、その名授申し合いの相手、笹がどうしているのか気になった。玄関先での潤とナノコの話し声が聞こえていれば、すぐにでも飛び出してきそうなものだが。
「笹はいないのか?」
こそこそ隠れてナノコに会ったと思われたくはない。潤は己の決意を伝えるため堂々とナノコに会いに来たのだし、堂々と笹との名授申し合いに臨むつもりだ。
「いえ、笹さんはいるのです」
ナノコは潤の手を引いて「こちらなのです」と、庭に面した大きな掃き出し窓の前へ移動した。窓は開いていて、薄茶色に変色した白カーテンが片側で結わえられている。ナノコは家の中を指さし、声を潜めた。
「あそこなのです」
そこは八畳ほどの和室だ。敷かれた畳はあちこちささくれ立って、シミができている。壁際に置かれた小さなテレビと時代がかった木製の箪笥。炊飯器や電話機が畳に直に置いてあって、雑多な印象を受ける。奥の障子戸は穴だらけ。
そんな中、笹は中央に置かれた卓袱台の横で、仰向けになって眠っていた。
「洗濯物を取り込むのを忘れて、眠ってしまって。だからわたくしが少しお手伝いしていたところなのです」
気持ちよさそうに眠る笹は、ボーダー柄のシャツと七分丈のボトムス姿だ。シャツがはだけて腹が見えている。薄桃色の唇と長い睫が目を引くあどけない寝顔。スリムでなまめかしい白い腹。元々中性的な笹だが、無防備な姿が一瞬女子に見えて、潤はドキリとした。
犯罪的に美少年だよな、あいつ。
ついそんなことを思う潤の横で、ナノコが言う。
「笹さんから少し話を聞いたのです。わたくしとしては弱みでも握って、いろいろ画策できればと思っていたのですが。ふふふ」
腹黒そうな笑みを浮かべてから「冗談です」と、ペロッと舌を出した。
「でも興味深いことがいくつか。笹さんによると、先祖が
そういえばと潤は思い出す。守り神は福をもたらし、言霊夫婦の家はその加護によって栄えると――。先日オンやナノコが
「でも言霊夫婦が代替わり、時が経つにつれ、当然その影響は薄れていきました。綾乃瀬家もまたご家業の失敗が重なり、土地を手離し、しだいに貧窮していったそうです。そしてそれは今も」
ナノコはあちこちガタがきている綾乃瀬家を見やり、複雑そうな表情を浮かべた。
「じつはその悪い流れを変える絶好の機会があったみたいです」
それは笹の曾祖母が若かりし頃の話だという。
「まだ十代だった笹さんのひいおばあさんが、当時の守り神と恋仲になったらしいのです」
「え? じゃあ言霊夫婦に?」
首を横に振るナノコ。
「そうなっていたら再び綾乃瀬家に福がもたらされ、今の笹さんの暮らしも楽になっていたかもしれないのです」
ひいおばあさんは結局守り神にフラれたそうですと、ナノコは付け加えた。
潤は、おや? と思った。潤の曾祖母が名授だったことは聞いている。守り神と恋仲だった笹の曾祖母と、言霊夫婦だった潤の曾祖父母。時期的な重なりに胸騒ぎがした。
「まさか……」
ナノコは上目づかいで「わたくしは夫さんひとすじなのですよ」と、強調する。
「え~と、つまりそのときの守り神は、笹のひいばあちゃんをふって、俺のひいばあちゃんと言霊夫婦になったってことか?」
ナノコはうなずき、言いにくそうに瞳を伏せた。
「笹さんのひいおばあさん、生前、周囲に盛んに
ほ~、俺のひいばあちゃん、巨乳だったか…………って、どうでもいいわ!
潤は天を仰いだ。
笹が自分に異常な敵愾心を燃やしていることに納得がいった。因縁があったのだ。綾乃瀬家と古賀崎家に。おそらく笹は、曾祖母から守り神を奪い、貧乏生活脱却の希望の芽を摘み取った古賀崎家に雪辱を果たしたいのだろう。そしてひ孫である自分が今度こそ言霊夫婦となって、暮らし向きを立て直したい。そう思ってるに違いない。
「そういうことか……」
ああ、ひいじいちゃん、ひいばあちゃん。あんたらのせいでひ孫は大変だ。
潤の渋面に、ナノコはしゅんとした。
「ごめんなさい。わたくし、余計なことを言ってしまったみたいなのです……」
「ん? いや違う違う、ナノコが気にすることはなにもない」
潤はうたた寝している笹を見つめた。幼い寝顔。普段の憎らしい態度が嘘みたいだ。
「あいつ、毎日新聞配達してるらしいな。同じ中学生なのに、生活のために働いて頑張ってる……。どうにかならないもんかな」
ナノコは「でも夫さん」と、まなざしに不安をのぞかせた。
「笹さんの事情に同情して、名授申し合いの勝利を譲ったりするのは――」
潤は片手を軽く上げて、ナノコの発言を遮った。「わかってる」
ナノコをまっすぐ見つめた。
「それとこれとは話が別だ。さっき言っただろ? 俺はオンナノコを笹に渡す気はない。適当な気持ちで言ったわけじゃないし、適当な気持ちで名授申し合いに臨むわけでもない。そんなことしたら、ナノコにもオンにも、それに相手の笹にも失礼だ」
「夫さん……」
「俺はただ、笹みたいに頑張ってる奴は絶対に手強いぞって、気を引き締めてただけだ。大丈夫。勝ちたい気持ちは笹に負けない。ナノコたちと一緒にいたいからな」
言ったそばから、かっこつけすぎかとはずかしくなり、潤は顔をそらした。ナノコは「夫さん」と、嬉しそうに腕をからませてくる。
「なでなで、してくれませんか?」
「なでなで?」
「あさってまでの別居期間を耐えられるように、夫さん成分を充填しとくのです。だから頭をなでなで」
どぎまぎする潤の手を取り、自分の頭に導くナノコ。
「お願いなのです」と、ナノコに請われ、潤はぎこちなく彼女の頭をなでた。ナノコの細く艶やかな髪の手触りがサラサラとして気持ちいい。
「し・あ・わ・せ」
上気した顔のナノコが、潤にしなだれかかってきたときだ。
「古賀……崎……?」
笹の声が聞こえ、潤は綾乃瀬家の室内に目を動かした。いつのまにか笹は上体を起こし、こちらに顔を向けている。
いちゃついてんじゃねえ――などと怒声が飛んできそうで、潤はナノコからさりげなく身を離した。だが笹はとろんとした瞳で、潤とナノコを見つめるばかりだ。口はだらしなく半開きで、首を左にこっくり、右にこっくり傾け「ふわ~ぁ」と、欠伸をする。
「悪い、笹。勝手に家に押しかけて」
「あぅ……ん」
気だるげに、妙に色っぽい声をもらした。寝ぼけてるのだろうか。笹はぼんやりと視線をさまよわせ、ぽりぽりと腹をかき、それから「おはようございましゅ」と、ぺこっと頭を下げた。
うん、完全に寝ぼけてる。
潤がそう思った矢先、笹はビクッと身体を震わせ、目を見開いた。焦点が潤に合うと、そのまま鋭い視線で射抜いてくる。
「こ、古賀崎……潤……!?」
顔色を変え、すぐに立ち上がった。勢いあまってふらつき、箪笥に手をついたら、その振動で上に置いてあった小型の置時計が落ちてきた。頭にゴツッと命中し、身悶える笹。
「や、やりやがったな、古賀崎潤」
やってない、なんもやってない。
「なんでここにいんだ、てめえ!? さては名授申し合いに勝つ自信がねえからって、寝込みを襲いにきやがったか!? 卑怯! 度し難い卑怯野郎!!」
「いやいやいや、俺は名授申し合いに出ることを伝えにだな」
しかし笹は聞く耳を持たない。自分の身体をあちこち確認するようにまさぐっている。
「変なことしてやがったら許さねえ。末代まで呪ってやる」
「するわけないだろ。まあ、寝顔とへそは見たな。腹出して寝てるから、おまえ」
正直に言ったら、笹の顔は沸騰しそうな勢いで真っ赤になった。百面相のように表情をくるくる変えて、最後は憤怒の形相に。わなわなと震えながら、怨嗟の声を炸裂させる。
「名授申し合いの日を首を洗って待ってろよ卑怯者! 出歩けないほどの屈辱的な敗北を味わわせてやる! せいぜい覚悟しとけ
笹は「守り神から離れて今すぐ消えろ!」と、最後にひときわ大きく怒鳴ると、部屋の奥の障子戸を乱暴に開けた。その拍子に立てつけの悪い戸が外れ、慌ててはめなおす。
「くそっ……くそ~っ」
ようやく戸を直し終えた笹は、細い肩を怒らせつつ奥に引っ込んでしまった。
弁当の礼をナノコに言って、綾乃瀬家をあとにした。すでに西の空は夕陽に染まり、流れる雲も茜色に染まっている。
農作業を終えた老夫婦が、田畑のあぜ道で一服している。自転車に乗った子供たちが農道を競うように走り、手をつないだ母と子は『むすんでひらいて』を歌いながら家路を辿る。スクーターで家々を巡るのは、夕刊の新聞配達員。どこからか夕餉の匂いが漂う。
そんな中、潤は名授申し合いのことを考えつつ、自宅へ向かっていた。
名授申し合いは、潤と笹で互いに生み名を試み、
意気込みは大いにある。が、昨日の大根おじじの屋敷での件で、名授としての未熟さは自覚している。現時点では笹のほうが上だ。それは明らかだ。
でも悲観はしていない。本番はあさって。まだ時間はある。その間に自分を鍛え、向上させればいい。問題はその修行方法だ。どうしたら名授の力を上げ、生み名を高い神数に結びつけることができるのか?
しきりに頭を捻りながら歩く。その足が不意に止まった。すでに古賀崎家の近く。三日前に
「オン?」
公園出入り口の門柱に背をもたれ、いつもの和服姿のオンが腕組みをして立っていた。ツンッと口を尖らせ、そっぽを向いたむくれ顔は不機嫌丸出しだ。明らかに今朝の喧嘩が尾を引いている。
帰宅したらオンに謝るつもりだった潤だが、予定より早くその機会が訪れたようだ。
「あのさ、オン。今朝のことだけど、俺、ひどいこと言った。謝るよ。ホントごめん」
腕組みを解いて横目でこちらを窺うオン。だが潤と目が合うと、すぐにそらした。潤はオンの横顔に語りかける。
「それと昨日の離婚宣言のことも。俺、こうしなきゃいけないって勝手に決めつけて、自分の気持ちも、オンナノコの気持ちも全然考えてなかった」
バカだよな、と自嘲してから、真剣な表情で続けた。
「でももうそんなことしない。大事なのは自分がどうしたいかだし、オンやナノコに自分がなにをしたいかだと思うんだ。正直、結婚とか夫婦とかはまだピンと来なかったりもするけど。でも俺は……古賀崎潤は――」
オンの心に届けと、潤はきっぱりと告げた。
「これからは〝自分らしく〟、オンやナノコと付き合っていきたい。守り神のパートナーになりたい」
オンは電撃に撃たれたみたいに身震いした。目を真ん丸に見開き、飛び跳ねるように潤の眼前に駆け寄ってくる。胸の前でキュッと両拳を握り、喜ぶのを我慢した表情で、潤の顔を覗き込んできた。
「夫くん……本当? 今の本当の本当のホント?」
「ああ、だから名授申し合いに出て笹に勝つ。約束する」
それを聞いたオンは一拍置いてから、飛び上がってガッツポーズをした。
「やったー!」と、歓喜の声を上げ、それから潤の手を取ると、その周囲をくるくる回りだした。
「夫くん、やばい……これやばすぎ、うれしすぎて、あたし爆発しそー」
瞳を潤ませつつも、小さな太陽を思わせる明るく華やいだ笑顔を見せた。
その笑顔に、潤は見惚れた。自分の言葉で彼女が笑ってくれたことが心底うれしく、なんだか誇らしかった。言葉の力ってすごい。いや、きっとそこに込めた想いが言葉に力を与え、オンの胸に届いたんだ。
潤は思う。もしそれを言霊と言うのなら、ほんの少しは自分も成長してるのかもしれない、と。
「というわけでオン、いろいろひどいこと言ったけど、許してくれるか?」
潤があらたまって訊くと、オンはぱちぱちっと瞬きをし「んん、なんのこと?」と、あさっての方を見てとぼけた。
「許すとか許さないとかって、あたしにはさっぱりだよ」
オンは、にはは~と笑い、それから潤の鼻の頭を指で軽くつついた。
「あたしはね、夫くん。ただここに、宇宙一大好きな夫くんを迎えに来ただけだもん」
オンに言われた〝宇宙一の甲斐性なし〟の汚名返上ができて、潤はほっとした。