プロローグ
文字数 1,925文字
プロローグ
夕暮れ時の小さな公園。リリリリ、と聞こえる虫の声。
秋色に染まったイチョウの木の下で、同い年くらいの、小さな男の子と女の子は立ちすくんでいた。砂場、すべり台、ジャングルジム、ブランコ、ベンチの置かれた公園には、今はふたりのほかに誰もいない。
「そろそろ行かないと」
男の子が言うと、女の子の細い肩が震えた。
「もう……もう別れの時間か」
空色の小袖 を着た女の子は、長い髪を指で弄りつつ唸った。切れ長の瞳は潤み、細い眉はハの字になっている。拳を固く握りしめ、悲しみに必死に耐えているみたいだ。
今にも泣きだしそうな女の子の様子に、男の子は鼻の奥がツンッとした。
一緒に遊んだ日々が脳裏をよぎる。裏山にセミやカブトムシを捕りにいったり、川で泳いだり、夏祭りには金魚すくいをした。花火を見た。かくれんぼ、木登り、ままごとだって楽しかった。
けれど、それももうできなくなる。
そんな実感がようやくわいてきて、男の子は胸が締めつけられた。
ずっと一緒に遊んでいたい。でも男の子はこれから町をあとにする。引越しをして、ここから遠い、まだ名も覚えていない町で暮らすのだ。
そのことを告げたときの、女の子の顔が思い浮かぶ。瞳を真ん丸に見開き、みるみる青ざめていった。まるで迷子みたいに心細そうだった。自分が悪者になったようで、膝が震えたのを覚えている。
「いつか……いつかまた会おうぜ。また一緒に遊べるって」
引越しが決まってから、女の子に繰り返し言ったその言葉は、本当は自分自身の寂しさを紛らすための強がりだった。今だってそうだ。でもそれを気取られるのは照れくさい。だから男の子はむりやり笑顔を作った。
「だから泣くな。おまえって、ホント泣き虫な」
「そ……そんなことないぞ」
女の子はぐすっと鼻をすすり、それから唇を尖らせた。
「わらわを……わらわを忘れたら承知しないぞ」
「おう、忘れるもんか」
「ほ、ほんと?」と、か細い声。
「本当だ」と、男の子は断言したが、女の子は不安げに見つめ返してくる。
「ひとは忘れっぽい生き物だからな……」
女の子ははぅっとため息をついたが、すぐに唇を引き結び、決意を秘めたまっすぐなまなざしを男の子に向けた。
「最後にひとつ頼みがあるぞっ」
力強い物言いに、男の子は少し気圧 された。
「な、なんだ? なんでも言ってみろ」
「わらわに名を付けておくれ」
「名?」
予想外の申し出に、男の子は面食らった。と同時に、そういえばと、思い当たる。自分は女の子を今まで〝おまえ〟としか呼んだことがなかった。名を知らなかった。
男の子は女の子を〝おまえ〟と呼び、女の子は男の子を〝そなた〟と呼ぶ。それが二人の間の自然で、今まではなぜか気にも留めなかったけれど、あらためて考えると少々おかしい。
女の子は小さな咳払いをしてから言った。
「名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショウしたいんだぞ」
女の子は胸に手を当て、瞳を伏せ、顔を真っ赤にした。「言った……言っちゃったぞ……ああ…………すごくはずかし~」と、あたふたしだす。
しかし女の子の話は、男の子にはさっぱり理解できなかった。
チギリ? キズナ?……コトワリ?……ケ……ケッショウ……セン?……なんの大会だ?
聞きなれない単語の羅列に、目をぱちくりさせた。しかし女の子が「ダメか?」と、再び表情を曇らせたのを見て、頭をぶんぶん振った。
「ダメじゃない。超かっけー名前を付けてやるよ」
あだ名みたいなものだろう。男の子は深く考えず請け負う。離れ離れになる友達からのたっての願いだ。自分にできることならなんだってしてあげたい。
女の子は安心したように、口元をほころばせた。夕風がそよぎ、女の子の髪を軽く踊らせる。ふわっと優しい匂いがした。
「忘れるでないぞ。いつかそなたがこの町に戻ったときは、わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ。この地ではわらわはそなたをひとりにさせない。なにがあってもすぐに駆けつける。ビュンッとな。ひとっ飛びだぞ」
うれしくて、心の奥がくすぐったくなる言葉だった。別れの悲しみが、約束された再会への待ち遠しさに変わるのを感じつつ、男の子は女の子の名を考えた。
そばに立つイチョウが葉をひとひら零し、ふたりの間に柔らかな軌跡を描く。虫の声が不意に止んだ。静寂が心地よく満ちた。そして、
「よし、決まった」
大好きな、でも今は別れなくてはならない女の子の名が決まった。
「おまえの名は……〝――――〟」
夕暮れ時の小さな公園。リリリリ、と聞こえる虫の声。
秋色に染まったイチョウの木の下で、同い年くらいの、小さな男の子と女の子は立ちすくんでいた。砂場、すべり台、ジャングルジム、ブランコ、ベンチの置かれた公園には、今はふたりのほかに誰もいない。
「そろそろ行かないと」
男の子が言うと、女の子の細い肩が震えた。
「もう……もう別れの時間か」
空色の
今にも泣きだしそうな女の子の様子に、男の子は鼻の奥がツンッとした。
一緒に遊んだ日々が脳裏をよぎる。裏山にセミやカブトムシを捕りにいったり、川で泳いだり、夏祭りには金魚すくいをした。花火を見た。かくれんぼ、木登り、ままごとだって楽しかった。
けれど、それももうできなくなる。
そんな実感がようやくわいてきて、男の子は胸が締めつけられた。
ずっと一緒に遊んでいたい。でも男の子はこれから町をあとにする。引越しをして、ここから遠い、まだ名も覚えていない町で暮らすのだ。
そのことを告げたときの、女の子の顔が思い浮かぶ。瞳を真ん丸に見開き、みるみる青ざめていった。まるで迷子みたいに心細そうだった。自分が悪者になったようで、膝が震えたのを覚えている。
「いつか……いつかまた会おうぜ。また一緒に遊べるって」
引越しが決まってから、女の子に繰り返し言ったその言葉は、本当は自分自身の寂しさを紛らすための強がりだった。今だってそうだ。でもそれを気取られるのは照れくさい。だから男の子はむりやり笑顔を作った。
「だから泣くな。おまえって、ホント泣き虫な」
「そ……そんなことないぞ」
女の子はぐすっと鼻をすすり、それから唇を尖らせた。
「わらわを……わらわを忘れたら承知しないぞ」
「おう、忘れるもんか」
「ほ、ほんと?」と、か細い声。
「本当だ」と、男の子は断言したが、女の子は不安げに見つめ返してくる。
「ひとは忘れっぽい生き物だからな……」
女の子ははぅっとため息をついたが、すぐに唇を引き結び、決意を秘めたまっすぐなまなざしを男の子に向けた。
「最後にひとつ頼みがあるぞっ」
力強い物言いに、男の子は少し
「な、なんだ? なんでも言ってみろ」
「わらわに名を付けておくれ」
「名?」
予想外の申し出に、男の子は面食らった。と同時に、そういえばと、思い当たる。自分は女の子を今まで〝おまえ〟としか呼んだことがなかった。名を知らなかった。
男の子は女の子を〝おまえ〟と呼び、女の子は男の子を〝そなた〟と呼ぶ。それが二人の間の自然で、今まではなぜか気にも留めなかったけれど、あらためて考えると少々おかしい。
女の子は小さな咳払いをしてから言った。
「名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショウしたいんだぞ」
女の子は胸に手を当て、瞳を伏せ、顔を真っ赤にした。「言った……言っちゃったぞ……ああ…………すごくはずかし~」と、あたふたしだす。
しかし女の子の話は、男の子にはさっぱり理解できなかった。
チギリ? キズナ?……コトワリ?……ケ……ケッショウ……セン?……なんの大会だ?
聞きなれない単語の羅列に、目をぱちくりさせた。しかし女の子が「ダメか?」と、再び表情を曇らせたのを見て、頭をぶんぶん振った。
「ダメじゃない。超かっけー名前を付けてやるよ」
あだ名みたいなものだろう。男の子は深く考えず請け負う。離れ離れになる友達からのたっての願いだ。自分にできることならなんだってしてあげたい。
女の子は安心したように、口元をほころばせた。夕風がそよぎ、女の子の髪を軽く踊らせる。ふわっと優しい匂いがした。
「忘れるでないぞ。いつかそなたがこの町に戻ったときは、わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ。この地ではわらわはそなたをひとりにさせない。なにがあってもすぐに駆けつける。ビュンッとな。ひとっ飛びだぞ」
うれしくて、心の奥がくすぐったくなる言葉だった。別れの悲しみが、約束された再会への待ち遠しさに変わるのを感じつつ、男の子は女の子の名を考えた。
そばに立つイチョウが葉をひとひら零し、ふたりの間に柔らかな軌跡を描く。虫の声が不意に止んだ。静寂が心地よく満ちた。そして、
「よし、決まった」
大好きな、でも今は別れなくてはならない女の子の名が決まった。
「おまえの名は……〝――――〟」