文字数 5,104文字

        一

 二両編成の電車がガタン、ゴトトンと規則正しい走行音を刻みつつ、新緑鮮やかな山間を進んでいく。空は青く、日差しは明るく、春風は鈍色(にびいろ)の電車と寄り添いながら、線路脇の草花を揺らす。
 うららかな陽気だ。それは乗客まばらな車内にも満ち、彼らを眠気に誘いながら穏やかなひとときを刻んでいく。ガタン、ゴトトン、ガタン、ゴトトン、と。
 そんな車内で、古賀(こが)(さき)(じゅん)は携帯ゲーム機で時間を潰していた。
 柔らかくもシャープな顔立ちを液晶画面に向け、さらさらヘアが窓からの風に乱れても気にしない。陽光を浴びた横顔には、少年から青年へ移ろう気配がにじみ、無地のシャツとジーンズが細身の身体に似合っている。
「ちょっと潤、そのキャラ、あんたが名前付けたの?」
 携帯ゲーム機のポーズボタンを押し、潤は顔を上げた。向かいの席の母千鶴(ちづる)が、赤ら顔で潤の手元を覗きこんでいた。
 細い顎。薄いルージュの唇。縁なしの眼鏡の奥には、好奇心旺盛な大きな瞳。髪はアップにまとめ上げている。ブラウスの胸元を大胆に開けているのは、酒に酔って暑いから。そのせいで大人の色香が漂う。酒臭さはそれ以上に漂っているが。
「ああ、俺が付けた」
 人気3Dアクションゲーム『ツバサ・ガーディアン』のプレイキャラに付けた名は〝百戦(ひゃくせん)錬磨(れんま)ジレンマ〟。
 テラテラ光る銀色和服を着流し、天使の翼で空中を駆るつわものだ。右手の長刀〝刀幻強(とうげんきょう)〟と、左手の自動式拳銃〝銃王夢塵(じゅうおうむじん)〟を操り、帝都灯境にうごめく魔物を駆逐する。ただし活動限界時間が百秒間しかなく、そこがプレイヤーにとってジレンマなのだ。だからこの名を付けた。
 ゲームオタクというほどゲームに執心してるわけではない潤だが、『ツバサ・ガーディアン』は別だ。爽快なゲーム性、プレイキャラの型破りな強さ、そしてなにより愛するヒロインを守るために〝男らしく〟過酷な戦いに身を投じる設定が気に入っていた。
 そんな百戦錬磨ジレンマに千鶴は眉をひそめた。
「笑かそうとした?」
「超いけてるだろ」
「あんたのネーミングセンスには絶望するわ」
 しみじみ言われて、潤はムッとした。百戦練磨ジレンマ。これを思いついたときは、自分の天才的発想に、思わず世界に勝った(?)と歓声を上げたほどだ。その歓声を……じゃなくて感性をバカにされたくはない。
「千鶴のセンスのほうがおかしいんだ」
 潤は実の母を名前で呼ぶ。物心ついたときからそうだ。古賀崎家の方針で、子供の早期自立を促すためだとかなんとか。
「ていうか、呑みすぎじゃないか?」
 千鶴が手にした缶ビールが、乗車してから四本目だということに気がついた。
「なあによお? 電車旅行の醍醐味でしょうが。潤も呑む? もう十三歳だし」
「まだ十三歳だ。教師が問題発言をするな」
 潤の小言を千鶴は笑ってやり過ごし、いきなりわが子の頭を乱暴になでた。
「ちょっ、なんだよ、気色悪いな」
 中学二年ともなれば親からのスキンシップは遠慮したい。気恥ずかしいし、いつまでも子ども扱いされているみたいで不満も覚える。だいいちこんなの絶対〝男らしく〟ない。
〝男らしく〟。
 それは六年前に亡くなった父――道孝(みちたか)の遺した言葉だ。
〝潤、千鶴を頼むな。おまえは男なんだから。大切なものを守れるくらい、男らしく強く生きていけ、な?〟
 すでに死期を悟っていたのだろう。道孝は病床で潤に何度もそう言った。ときに笑顔で、ときに涙を浮かべ、しだいに衰弱して声が弱っていく中でも、懸命に潤に語りかけた。大好きだった父の言葉は、ひとり息子の心に強烈に刻まれ、潤はそれ以降〝男らしく〟を自分テーマにした。
 とはいえ、〝男らしく〟とはなんなのか。具体的にどんな言動がふさわしいのか。潤はいまだよくわかっていない。ただ、自己主張が苦手で、周囲に流される傾向のある性格は〝男らしく〟からは遠い気がする。ここだけは直そうと思ってはいるのだが……。
 潤は頭をなでてくる千鶴を〝男らしく〟睨んだ。が、幼い頃はよく女子に間違われた顔立ちのせいで、迫力が微塵もない。しかたないので、手で千鶴の手を払った。
 千鶴は息子の憤りを気にした様子もない。
「照れんなよ~、ガキが」
 ビールをグビッと飲み干し、ぷはぁっと息をついてから言った。
「ああ~、楽しみだわ、新生活!」
 そう、新生活がふたりを待っている。
 潤と千鶴は、北関東の端の端にある山間の地、故郷上雲津(かみくもつ)町に七年ぶりに戻り、新たな生活をはじめるのだ。
 きっかけは上雲津町の唯一の中学校――市立上雲津中学校に正規教員の空きができ、東京の学習塾講師で生計を立てていた千鶴に、役場の知人から話が持ちかけられたことだった。それが四か月前のこと。上雲津にすでに親族はいなかったが、いずれ故郷に戻ろうと考えていた千鶴は即決した。「わたし、田舎で学校の先生やるわ!」と、いきなり宣言された潤は仰天したが、母ひとり子ひとりの古賀崎家、当然、潤も一緒に引っ越すことになった。
「潤は覚えてる? 上雲津に住んでた頃のこと」
「小学校に上がる前だしな。正直ほとんど…………ん~、うちの近くに公園があったような」
 不意に、その公園と思しき光景が頭をよぎった。遠く、褪せた、おぼろな景色。輪郭の途切れた記憶の断片。眠りから醒めた瞬間のような、曖昧で気怠く、ほのかにせつない体感。
 あれは夕陽の赤、枯れたイチョウの葉、乾いた土の地面、茶色のブランコ、砂埃、そして空色の……和服?
 かすんだ情景は、現実か想像かも判然としないまま。すぐに溶かした砂糖のように甘く消えていく。
「あっ、見て、潤。上雲津の町よ!」
 千鶴の声に、潤は我に帰った。窓外に目を動かすと、
「……田舎すぎじゃね?」
 そこには町より村の名がふさわしい光景が広がっていた。
 敷き詰められた田畑、点在するビニールハウスと一軒家、どこまでもまっすぐなアスファルトの道、それと交わる複数の砂利道、丈の長い草で覆われた野原、道端を流れる小川、大小の池、簡素な丸太の橋。
 人通りは少ない。犬と散歩を楽しむ女性や、空き地でサッカーに興じている子供たち、家の玄関先で井戸端会議中の年配の人らがちらほら。その脇を耕運機を載せた中型トラックが走っていく。雑木林が多く、そこに埋もれるように建つ送電鉄塔。遠くには、なだらかな稜線を持つ山並みがそびえ、青空と接している。
「この辺は町外れだからよ。駅前には商店街もあるし、映画館とか本屋さんとか、あ、ファミレスも去年できたって話よ」
「コンビニは?」
「あ~、ウチの近くの鈴木商店がそれっぽいかな。朝十一時から夕方五時の営業だけど」
 うん、それコンビニじゃないな。
 これからの生活が、微妙に不安になる潤。裏腹に千鶴は少女のように瞳を輝かせた。
「自然豊かで、町のひとたちは気さくで親切、の~んびりした日常。いいところよお、ここ。いい潤? 田舎バッシング、上雲津バッシングなんてしたら、ぶっとばしてやるんらから」
 千鶴の呂律が怪しくなったあたりで、電車は長い鉄橋に差し掛かった。鉄橋の真ん中三分の一ほどが下を流れる河川と交差している。川の両岸は緩やかな草地の斜面になっていて、それを登りきったところに、川と並行した土手道が伸びていた。
 電車は手前の土手道に近づいていく。潤の視線が土手道の一角に、ふと留まった。
 女の子?
 和装の女の子が佇み、電車を見上げていた。表情は窺い知れないが、その背格好から自分と同じ中学生くらいだと予想する。
 空色の着物……。
 女の子の和服の色に、潤の胸がなぜか波打ったとき、電車は彼女のいる土手道と交わった。女の子の長い黒髪が、着物の袖や裾とともに風になびく。筆を走らせたように、澄み切った空色が流れる。走る電車の中から見下ろす潤と、土手道から見上げる女の子。ふたりを取り巻く景色が遠のき、その距離が不意に縮まる錯覚。
 潤の目はカメラがシャッターを切るように、女の子を鮮明に写し取った。
!?
 その一瞬、潤は女の子と目が合った。墨色の綺麗な瞳だった。
 つぎの瞬間、女の子は笑顔を弾けさせた。可憐な花のような笑みだった。
 そして、潤は女の子のその笑顔を懐かしいと感じた。ハッと息を呑むほどに。
 電車は女の子を残して河川を渡る。川底の石が、ところどころ頭を覗かせる浅い川だ。川面は陽光を浴びてきらめき、それが伝染したように、潤の胸中にも記憶の光が瞬いた。
 なにかが光の中に浮かびそうになる。でもそれは像を結ぶまえにかき消え、もどかしさと郷愁を残した。
 が、その感傷に浸る間もなく、続いて女の子のとった行動に、潤は愕然とした。
「な!?
 女の子が河川に向かって跳躍した。それは尋常ではない高さと飛距離で、やすやすと現実感を突き破る代物だ。まるで空中に放たれた弾丸のごとき勢いで地面を離れ、空間を滑る少女。重力から解放された大ジャンプ。そのまま黒髪と着物をはためかせ、土手道から河川の中ほどまで一気に放物線を描く。飛距離は二十メートル近い。降り立った和服少女は水飛沫(みずしぶき)を上げ、陽光を乱反射させた。
 そして再び大跳躍。水鳥のように軽やかに飛びはね、一気に鉄橋の麓に着地すると、そこから線路に沿う道路を、電車を追って駆け出した。
「うそっ!?
 そのスピードも普通じゃなかった。なにせ電車との距離がほとんど開かない。両腕を羽のように広げ、頭の位置は上下せず、小鹿を思わせるしなやかなフォームで華麗に爆走する。
「こら、潤。なんて声出してんの。周りに迷惑でしょ」
 窓に張りつく潤の頭を、千鶴がコツンッと叩いた。「ち、千鶴、あれっ」と、潤は和服少女を指差す。
「イノシシでもいた? いるわよそれくらい」
 猪突猛進はしているが、イノシシには見えない。
「違う! あそこ、ほら、女の子が走ってる!」
「はあ? ジョギングしてる子なんてどこにでもいるでしょ」
「ジョギングじゃない! めちゃくちゃショッキングだ!」
「……」
 我が子が口走ったダジャレに引く千鶴。それに気づく余裕は、今の潤にはない。
「いいから見ろ! とにかく見ろ!」
 和服少女は先程よりもいくぶん電車から離されている。が、道路を走る軽自動車を追い抜くほどのスピードで、これでもかというくらい非現実的な異彩を放っている。なのに窓外を窺った千鶴はしばらくすると首をかしげ、潤の額に手を当てた。
「熱でもある? それとも酔っぱらったかしら?」
「酒なんて呑んでない!」
「だって女の子なんていないし。驚くようなものなんてなにもないわ。あんたゲームしてて現実とそういうの、ごっちゃになったんじゃないの? やだも~、怖っ。今どきの子供、怖っ」
 真顔の千鶴を見て、潤は言葉を失った。
 千鶴には見えてないのか!?
「しっかりしてよ、潤?」
 顔を覗き込んでくる千鶴の額を押し返し、再び窓の外に目を向けた。
「あ……れ?」
 ほんの一瞬目を離した隙に、和服少女はいなくなっていた。車外のどこにも見当たらない。最初からそんなものはなかったかのように、田園風景の目立つのどかな町並みだけがどこまでも広がっている。
 見間違い……か?
 目を瞬かせ、窓外を過ぎていく景色を注意深く確認する。超人的身体能力を持った和服少女なんてどこにもいない。というより、そんなものが現実にあるわけないのだ。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。吐く息とともに、しだいに今の体験が現実味を失って、潤の中から消えていく。慌てふためいていた自分がはずかしくなるくらいには、冷静さを取り戻した。
 ま、ありえない……よな。家一軒飛び越えるほどのジャンプをする女の子も、電車のスピードと張り合える女の子も。
「アホらし」と、口の中で呟いた。ただの見間違いだ。ちょっと疲れてるのかもしれない。
 引越しの慌ただしさや新生活への不安が心の負荷となり、おかしな幻覚を見たのかもしれない。潤は少し強引に結論づけた。
「潤?」
「悪い。なんでもなかった」
 そっけなく応え、座席に深々と座りなおす。そんな潤を、千鶴が缶ビール片手に心配げに見つめた。
「ジョギング、ショッキング…………あんたのダジャレセンスにも絶望しそーなんだけど」
 とりあえず無視した。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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