一
文字数 5,980文字
一
翌朝。登校する直前に、潤 とオンは古賀崎 家の玄関先でもめた。
一緒に学校へ行く、夫くんのそばにいたい、だってあたし妻だから、と言い張るオンとそれを拒否する潤。守り神との離婚を宣言した手前、たとえそれをオンが認めていなくても、彼女とともにいてはいけない気がした。それにここで曖昧な態度を取っていては、名授 申し合いに出る羽目になりかねない。厳しく接するべきだ。
潤はなるべく冷淡な態度を心掛けた。
「あのな、そういうのホント迷惑なんだ。俺はもう九十九 神 の世界とは無関係のただの中学生。学校生活を邪魔しないでくれ」
「迷惑?……え? 待って。邪魔ってなに? あたし邪魔? ね、そうなの!?」
オンはわなわなと震え、頬を膨らませた。ついに怒らせてしまったようだ。吊り目がちの瞳がさらに吊りあがって「う~」と、唸る。
気まずくなった潤は背を向け、そそくさと門から出ていこうとした。オンの怒声がその背に叩きつけられる。
「ひどい! 夫婦一緒にいてなにが悪いのさ! そんなのあたしの頭じゃわかんない! ううん、一生わかってなんかやるもんか! ふんだ! ふーんだ! 学校生活を邪魔するな? 夫婦生活を邪魔する学校生活のほうが邪魔なんだ!」
振り返らず、歩き続ける潤。背後で地面をタンッと踏む音と、風を切る気配がしたと思ったら、目の前にオンが飛び降りてきた。真っ赤な顔で潤を睨むが、その瞳は涙目だ。
「日本一のわからずや! 世界一の薄情者!」
うららかな朝に怒鳴り声を響かせ、オンは大きく飛び跳ね、一気に隣家の屋根へ着地した。そこで潤に向かって「べーっだ」と、あかんべーをする。
「宇宙一の甲斐性なし~!」
力いっぱい叫んだ罵声はやまびこに。オンは屋根から飛び降り、そのままどこかへ行ってしまった。まだかすかにやまびこの〝甲斐性なし~〟が、繰り返し聞こえてくる。
「中学生に甲斐性なんか求められても……」
潤は辛気臭い顔でため息をつき、それからひとり、重い足取りで歩き出した。
学校へ着いたはいいが、二年一組の教室前で潤は立ち止まった。室内に綾乃瀬 笹 がいると思うと、二の足を踏んでしまう。昨日の今日でどんな顔をして会えばいいのか。名授を辞めたのだから、もう彼から敵視されることはないとは思うが。ていうかそうであってほしい。
教室のドアの前でそんなことを考えていると、
「呑気に学校に来てんじゃねえよ、臆病者。目障りだから、家で修行でもしてろ。無駄なあがきだろうがな」
笹が背後に立っていた。潤の願望は裏切られ、相変わらず敵意丸出しの態度だ。
「さ、笹」
「呼び捨てすんなっ」
あたふたする潤に対し、笹はふてぶてしく笑う。
「名授申し合いは、上雲津 中の九十九神の前で行われるらしいからな。てめえはそこで大負けして、赤っ恥かいて、さらし者になるんだ。へっ、想像するだけでぞくぞくするぜ」
笹は名授申し合いをする気満々だ。そこで名授にふさわしい力を見せつけ、一気に上雲津の九十九神たちに、守り神との結婚を認めさせる算段なのだろう。
だが相手となるはずの潤は、名授申し合いなんてする気がない。
「悪いが俺はそんなの出ない。昨日言ったとおり守り神と離婚したんだから、もう関係ないだろ」
淡々と言って「それよりナノコどうしてる?」と、笹の家で過ごすことになったナノコを気にかけた。が、笹は侮蔑と嫌悪のまなざしで応えた。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ。ホント底なしの大バカだな」
「なんだよ? 俺はただナノコのことを心配して――」
「それが大バカだっつってんだ。名授申し合いに出ない、もう関係ないって言っときながら、守り神のことは心配する。頭おかしいんじゃねえの? てめえに守り神を心配する資格なんてねえんだよっ」
潤は言葉を失った。頭をガツンッと殴られた気分だ。笹の言うとおり。守り神との離婚を告げ、関係ないとまで言った自分に、ナノコを心配する資格なんてない。
守り神と言霊 夫婦 になるのは笹。いずれナノコだけではなくオンも……つまりオンナノコはこの先ずっと笹と暮らすことになる。自分は部外者だ。
潤が選択したのは、そういうこと。
そこではじめて、潤はさびしさを覚えた。胸が火傷したみたいにじりじりと熱く痛む。心に小さな穴が開き、そこからオンとナノコ――オンナノコの存在がぽろぽろ零れ落ちていく。代わりに喪失感が忍び寄る。
せっかくオンナノコと再会できたのに、今度は同じ町にいながら、心の距離はずっと遠く離れてしまう気がした。それどころか笹が名授になることで、〝オンナノコ〟という契り名も別のものになるのかもしれない。潤の知っているオンナノコが、潤の知らない名前の女の子になる。彼女と過ごす時間は、もう二度と訪れない。
……なんか……やだな。
唇を噛む潤を、笹が「どけよ、ヘタレ野郎」と、押しのける。ドアの取っ手に手をかけ、潤のほうを見ないまま告げた。
「てめえが名授申し合いに出ようが出まいが関係ねえ。腰抜け男のことなんかどうでもいい。二日後、俺が名授になって、守り神と結婚する。それだけだ」
笹は勢いよくドアを開けると、大股で室内に入っていった。笹のすぐあとに続いて入る気がせず、潤は廊下の壁に背をもたれさせ、うなだれた。
心配する資格はない。けれど頭に浮かぶのはオンとナノコであり、その向こうに見え隠れするオンナノコの姿だ。彼女は〝潤と再会できて、わらわは今、世界でいちばん、幸せだ〟と、先日の言葉を告げてくる。
「俺はオンナノコになにも言ってないんだよな……」
ぽつりと呟いたとき、
「よう、古賀崎」と、廊下を歩いてきた男子生徒から声をかけられた。
「……柴田か」
二年一組クラス委員長、柴田 篤生 だった。篤生は短く刈り上げた頭と浅黒い顔、均整の取れた体つきといい、いかにもスポーツマン風で、実際野球部のエースだ。潤のすぐ前の席の篤生は、昨日「わからないことがあったらなんでも訊いてくれ」と、まっさきに言ってくれたクラスメイトだった。
「古賀崎、今話してたの、綾乃瀬だろ? さっそく仲良くなったのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
どちらかというと仲は悪い。間違いなく嫌われている。
篤生とともに教室へ入り、自分たちの席に座る。潤は窓にいちばん近い列の最後方だ。前の席から篤生が身を乗り出してくる。「綾乃瀬ってほら、ああいう見た目だろ」
「見た目?」
篤生は、二列向こうの席の笹を横目で見つつ声を潜めた。
「こわもてっつうか、イノシシみたいにいかついだろ」
潤は首をかしげた。笹は線が細く、中性的な容姿だ。女装をしたら、すこぶる似合いそうなほど。気性はともかく、見た目の印象はイノシシというより小鹿とかがふさわしい。それともこのあたりのイノシシってあんな感じなのだろうか? そんなかわいいイノシシならぜひ見てみたいが。
「でもあいつはいいヤツだぞ。ここは皆、小一から同じクラスだから、お互いよく知ってるけど、綾乃瀬はすげえ頑張り屋。そんでもって親孝行。家計の足しにって、毎朝新聞配達してるらしいぞ。すごくね?」
「それは……すごいな」
意外な一面に驚きつつ、潤は笹に視線を向けた。涼しげな横顔と物静かなまなざしからは、潤に対する毒舌や気性の激しさは想像もできない。篤生の言う親孝行の勤労少年のほうがよほどしっくりくる。
「見た目は魔王みたいにこえーけど、仲良くやってくれよ、綾乃瀬とも」
笹の見た目に関しては違和感を覚えたが、篤生のクラス委員長らしい気遣いは好感が持てた。「そうだな」と応じると、篤生は満足気に会話を切り上げて前を向いた。
仲良く……か。
ためしにオンナノコと夫婦になった笹を思い浮かべ、それに笑顔で接する自分を想像してみた――。無理だった。ていうか、無性にむかついた。それが笹に対してなのか、自分に対してなのかわからない中、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
授業には身が入らなかった。教師の講義を聞いていても、小テストをしていても、頭の中はオンとナノコ、そしてオンナノコのことばかり。彼女たちの姿が、思考にぐちゃぐちゃに絡んで、こんがらがっていく。小テストは見事全滅だった。
守り神との離婚宣言が正しかったのか、自分はどうすればよかったのか、これからどうすればいいのか、まるでわからない。〝男らしく〟明確な答えを出したいのに、その糸口すら見いだせない。お手上げ状態で、ただ悶々として疲弊するだけだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ったとき、潤はぐったりしていた。
パン……買ってくるか。
東京の学校に通っていた頃から、昼食は購買部で済ませていた。千鶴は料理上手だが、毎日の弁当作りで負担を掛けたくないという、潤の配慮だった。昨日、篤生に聞いたところ、上雲津学校に購買部はないが、昼になると地元のパン屋が出張販売に来てくれるらしい。この先、利用することが多くなりそうだ。
「名授さま~」
声に気づいたのは、教室を出てまもなくだった。それが普通の人間には聞こえない九十九神のものだと感覚的にわかる。見ると、廊下の半開きの窓の向こうにその姿があった。
「陽気 箒 ?」
柔らかな日差しの中を、竹箒が飛んでいた。箒の穂のひと房を犬の尻尾のように振りつつ、校舎に近づいてくる。潤は周囲を気にしつつ、窓を全開にした。
「いやっほ~い、すぐに名授さまを見つけられるなんて、激ラッキーっす」
「どうしたんだ? なんでここに?」
窓の前でふわふわ滞空する陽気箒に、潤は小声で尋ねた。ほかの生徒たちには陽気箒が認識できないから、不審に思われないようにしなくてはならない。
「おいら、重要な任務を果たしに来たっす。そこいらのへっぽこ九十九神には務まらない大役っすよ、これ」
得意げに言って、箒の穂の中に隠してあった包みを、穂先で器用につまんだ。桃色ハートマークをあしらった風呂敷包みは四角くて、弁当箱くらいの大きさだが。
「腹ペコ名授さまに、お弁当のお届けっす」
実際に弁当箱だった。
「さあ受け取ってくださいまし。それで胃袋わしづかみにされちゃってくださいっす」
陽気箒は空中で身体をひるがえし、弁当箱を潤の前へ差し出した。潤は受け取りつつ、首をかしげた。
「なんで俺に弁当なんか」
「ナノコさまっす。ナノコさまの手作り弁当、すなわち愛妻弁当っすよ。か~っ、うらやましいっ。爆発しろリア充! ……おおっと、取り乱したっす。お許しを」
潤は驚いた。昨日の潤の離婚宣言で大泣きさせたナノコ。愛想を尽かされ、嫌われてもおかしくない。なのにこうしてわざわざ弁当を作ってくれるなんて、思ってもみなかった。
「ついさっき頼まれたっす。それから手紙……いや、新妻から旦那へのラブメッセージっすかね。ああ、それにしても新妻って響き、なんかエロいっす。股間にくるっす。うへっへ」
陽気箒は手のひらサイズの四つ折りの紙を取り出し、潤に渡した。潤はいささか緊張しつつ、それを開いた。
〝夫さんが笑顔になれますように ナノコ〟
丸みを帯びたかわいらしい、でも丁寧な字でそう書かれてあった。
ナノコ……。
昨日のナノコの泣き声を思い出し、胸が詰まった。彼女を傷つけ、笑顔を曇らせたのは自分だ。つらいのはナノコのほうだ。にもかかわらず、彼女は潤の笑顔を願ってくれる。潤をまだ〝夫さん〟と呼んでくれる。それが思いのほかうれしかった。自然と笑みがこぼれた。
「へへ、名授さまがギンギンになって喜んだって、ナノコさまに伝えるっす」
「いやそれダメだろっ」
陽気箒は「冗談っす」と、踊るようにくるくる回って陽気に笑った。そのとき頭上から、
「め、名授さま……ごほっごほっ」
べつの九十九神の声が、咳と羽音に混じって聞こえてきた。陽気箒が「この咳、そして虚弱そうな声は」と、箒の柄を傾ける。潤も視線を上げた。
ふらふらと下りてきたのは、ひとの子ほどの大きさのカラス……ではなく、黒い羽毛で覆われた人型の背格好と、カラスの頭部と羽を持つカラス男。右手には点滴袋を吊ったガートル架けを握っている。
「どうも、げほっごほごほ、今日も元気な虚弱カラスです」
「どこが元気なんすか」と、陽気箒につっこまれたのは、潤とオンナノコの結婚披露宴の最中、九十九 堕使 の出現を知らせにきた九十九神だ。
「疲労こんぱ~い」
「乾杯じゃないんすから」
体力が尽きたのか、虚弱カラスはへなへなと陽気箒の上に落ちた。
「大丈夫なのか?」と、心配する潤に、虚弱カラスは羽を振って応えた。
「心配ご無用。だって俺、虚弱ですから。それがアイデンティティ。ごほっ、ぐはっ……ああ、持病の捻挫がひどい――て、そんなことよりも」
虚弱カラスはガートル架けを握る右手ではなく、左手を「よっこらせ」と、持ち上げた。そこには白い紙袋がひとつ。大きさはナノコの弁当箱と同じくらいだが、はち切れそうなほど膨れ上がっている。
「名授さまに、これをお届けに」
虚弱カラスは、紙袋を潤へ渡した。紙袋はズシリと重い。
「虚弱カラスも俺に?」
「オンさまから届けてくれと頼まれましてね。おにぎりだそうで」
潤は驚いて、すぐに紙袋の中を覗きこんだ。ソフトボールほどの巨大おにぎりが四個、ラッピングされて詰まっている。作りたてなのだろうか、紙袋を通しても、おにぎりの温かさが手に伝わってきて、それが心にまで優しく届いてくる。
今朝、喧嘩別れしたのに、オンもまたナノコ同様、彼女自身のことより潤のことをこうして気遣ってくれる。この先どうすべきか答えが出せず、うじうじと思い悩んでいる自分とは大違いだと、潤は身に染みて感じた。
ふと、紙袋の中の紙きれに気がついた。取り出してみると、角ばった力強い筆跡でメッセージが書かれてあった。
〝日本一のわからずやで、世界一のはくじょー者で、宇宙一のかいしょーなしで……――あたし一の夫くんに愛情おにぎりだ!〟
なぜか脳裏に、ドヤ顔で胸を張ったオンナノコの姿が浮かんだ。
〝どうだ夫さま? わらわの愛情、思い知ったか〟
そんな悪戯っぽい声まで聞こえた気がして、潤は苦笑した。目頭が熱くなるのを感じつつ、手の中のオンとナノコからの弁当に目を落とす。
これはふたりの想い……。
「ちゃんと味わって食べないとな」
潤はふたつの弁当を胸に抱え込んだ。
翌朝。登校する直前に、
一緒に学校へ行く、夫くんのそばにいたい、だってあたし妻だから、と言い張るオンとそれを拒否する潤。守り神との離婚を宣言した手前、たとえそれをオンが認めていなくても、彼女とともにいてはいけない気がした。それにここで曖昧な態度を取っていては、
潤はなるべく冷淡な態度を心掛けた。
「あのな、そういうのホント迷惑なんだ。俺はもう
「迷惑?……え? 待って。邪魔ってなに? あたし邪魔? ね、そうなの!?」
オンはわなわなと震え、頬を膨らませた。ついに怒らせてしまったようだ。吊り目がちの瞳がさらに吊りあがって「う~」と、唸る。
気まずくなった潤は背を向け、そそくさと門から出ていこうとした。オンの怒声がその背に叩きつけられる。
「ひどい! 夫婦一緒にいてなにが悪いのさ! そんなのあたしの頭じゃわかんない! ううん、一生わかってなんかやるもんか! ふんだ! ふーんだ! 学校生活を邪魔するな? 夫婦生活を邪魔する学校生活のほうが邪魔なんだ!」
振り返らず、歩き続ける潤。背後で地面をタンッと踏む音と、風を切る気配がしたと思ったら、目の前にオンが飛び降りてきた。真っ赤な顔で潤を睨むが、その瞳は涙目だ。
「日本一のわからずや! 世界一の薄情者!」
うららかな朝に怒鳴り声を響かせ、オンは大きく飛び跳ね、一気に隣家の屋根へ着地した。そこで潤に向かって「べーっだ」と、あかんべーをする。
「宇宙一の甲斐性なし~!」
力いっぱい叫んだ罵声はやまびこに。オンは屋根から飛び降り、そのままどこかへ行ってしまった。まだかすかにやまびこの〝甲斐性なし~〟が、繰り返し聞こえてくる。
「中学生に甲斐性なんか求められても……」
潤は辛気臭い顔でため息をつき、それからひとり、重い足取りで歩き出した。
学校へ着いたはいいが、二年一組の教室前で潤は立ち止まった。室内に
教室のドアの前でそんなことを考えていると、
「呑気に学校に来てんじゃねえよ、臆病者。目障りだから、家で修行でもしてろ。無駄なあがきだろうがな」
笹が背後に立っていた。潤の願望は裏切られ、相変わらず敵意丸出しの態度だ。
「さ、笹」
「呼び捨てすんなっ」
あたふたする潤に対し、笹はふてぶてしく笑う。
「名授申し合いは、
笹は名授申し合いをする気満々だ。そこで名授にふさわしい力を見せつけ、一気に上雲津の九十九神たちに、守り神との結婚を認めさせる算段なのだろう。
だが相手となるはずの潤は、名授申し合いなんてする気がない。
「悪いが俺はそんなの出ない。昨日言ったとおり守り神と離婚したんだから、もう関係ないだろ」
淡々と言って「それよりナノコどうしてる?」と、笹の家で過ごすことになったナノコを気にかけた。が、笹は侮蔑と嫌悪のまなざしで応えた。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ。ホント底なしの大バカだな」
「なんだよ? 俺はただナノコのことを心配して――」
「それが大バカだっつってんだ。名授申し合いに出ない、もう関係ないって言っときながら、守り神のことは心配する。頭おかしいんじゃねえの? てめえに守り神を心配する資格なんてねえんだよっ」
潤は言葉を失った。頭をガツンッと殴られた気分だ。笹の言うとおり。守り神との離婚を告げ、関係ないとまで言った自分に、ナノコを心配する資格なんてない。
守り神と
潤が選択したのは、そういうこと。
そこではじめて、潤はさびしさを覚えた。胸が火傷したみたいにじりじりと熱く痛む。心に小さな穴が開き、そこからオンとナノコ――オンナノコの存在がぽろぽろ零れ落ちていく。代わりに喪失感が忍び寄る。
せっかくオンナノコと再会できたのに、今度は同じ町にいながら、心の距離はずっと遠く離れてしまう気がした。それどころか笹が名授になることで、〝オンナノコ〟という契り名も別のものになるのかもしれない。潤の知っているオンナノコが、潤の知らない名前の女の子になる。彼女と過ごす時間は、もう二度と訪れない。
……なんか……やだな。
唇を噛む潤を、笹が「どけよ、ヘタレ野郎」と、押しのける。ドアの取っ手に手をかけ、潤のほうを見ないまま告げた。
「てめえが名授申し合いに出ようが出まいが関係ねえ。腰抜け男のことなんかどうでもいい。二日後、俺が名授になって、守り神と結婚する。それだけだ」
笹は勢いよくドアを開けると、大股で室内に入っていった。笹のすぐあとに続いて入る気がせず、潤は廊下の壁に背をもたれさせ、うなだれた。
心配する資格はない。けれど頭に浮かぶのはオンとナノコであり、その向こうに見え隠れするオンナノコの姿だ。彼女は〝潤と再会できて、わらわは今、世界でいちばん、幸せだ〟と、先日の言葉を告げてくる。
「俺はオンナノコになにも言ってないんだよな……」
ぽつりと呟いたとき、
「よう、古賀崎」と、廊下を歩いてきた男子生徒から声をかけられた。
「……柴田か」
二年一組クラス委員長、
「古賀崎、今話してたの、綾乃瀬だろ? さっそく仲良くなったのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
どちらかというと仲は悪い。間違いなく嫌われている。
篤生とともに教室へ入り、自分たちの席に座る。潤は窓にいちばん近い列の最後方だ。前の席から篤生が身を乗り出してくる。「綾乃瀬ってほら、ああいう見た目だろ」
「見た目?」
篤生は、二列向こうの席の笹を横目で見つつ声を潜めた。
「こわもてっつうか、イノシシみたいにいかついだろ」
潤は首をかしげた。笹は線が細く、中性的な容姿だ。女装をしたら、すこぶる似合いそうなほど。気性はともかく、見た目の印象はイノシシというより小鹿とかがふさわしい。それともこのあたりのイノシシってあんな感じなのだろうか? そんなかわいいイノシシならぜひ見てみたいが。
「でもあいつはいいヤツだぞ。ここは皆、小一から同じクラスだから、お互いよく知ってるけど、綾乃瀬はすげえ頑張り屋。そんでもって親孝行。家計の足しにって、毎朝新聞配達してるらしいぞ。すごくね?」
「それは……すごいな」
意外な一面に驚きつつ、潤は笹に視線を向けた。涼しげな横顔と物静かなまなざしからは、潤に対する毒舌や気性の激しさは想像もできない。篤生の言う親孝行の勤労少年のほうがよほどしっくりくる。
「見た目は魔王みたいにこえーけど、仲良くやってくれよ、綾乃瀬とも」
笹の見た目に関しては違和感を覚えたが、篤生のクラス委員長らしい気遣いは好感が持てた。「そうだな」と応じると、篤生は満足気に会話を切り上げて前を向いた。
仲良く……か。
ためしにオンナノコと夫婦になった笹を思い浮かべ、それに笑顔で接する自分を想像してみた――。無理だった。ていうか、無性にむかついた。それが笹に対してなのか、自分に対してなのかわからない中、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
授業には身が入らなかった。教師の講義を聞いていても、小テストをしていても、頭の中はオンとナノコ、そしてオンナノコのことばかり。彼女たちの姿が、思考にぐちゃぐちゃに絡んで、こんがらがっていく。小テストは見事全滅だった。
守り神との離婚宣言が正しかったのか、自分はどうすればよかったのか、これからどうすればいいのか、まるでわからない。〝男らしく〟明確な答えを出したいのに、その糸口すら見いだせない。お手上げ状態で、ただ悶々として疲弊するだけだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ったとき、潤はぐったりしていた。
パン……買ってくるか。
東京の学校に通っていた頃から、昼食は購買部で済ませていた。千鶴は料理上手だが、毎日の弁当作りで負担を掛けたくないという、潤の配慮だった。昨日、篤生に聞いたところ、上雲津学校に購買部はないが、昼になると地元のパン屋が出張販売に来てくれるらしい。この先、利用することが多くなりそうだ。
「名授さま~」
声に気づいたのは、教室を出てまもなくだった。それが普通の人間には聞こえない九十九神のものだと感覚的にわかる。見ると、廊下の半開きの窓の向こうにその姿があった。
「
柔らかな日差しの中を、竹箒が飛んでいた。箒の穂のひと房を犬の尻尾のように振りつつ、校舎に近づいてくる。潤は周囲を気にしつつ、窓を全開にした。
「いやっほ~い、すぐに名授さまを見つけられるなんて、激ラッキーっす」
「どうしたんだ? なんでここに?」
窓の前でふわふわ滞空する陽気箒に、潤は小声で尋ねた。ほかの生徒たちには陽気箒が認識できないから、不審に思われないようにしなくてはならない。
「おいら、重要な任務を果たしに来たっす。そこいらのへっぽこ九十九神には務まらない大役っすよ、これ」
得意げに言って、箒の穂の中に隠してあった包みを、穂先で器用につまんだ。桃色ハートマークをあしらった風呂敷包みは四角くて、弁当箱くらいの大きさだが。
「腹ペコ名授さまに、お弁当のお届けっす」
実際に弁当箱だった。
「さあ受け取ってくださいまし。それで胃袋わしづかみにされちゃってくださいっす」
陽気箒は空中で身体をひるがえし、弁当箱を潤の前へ差し出した。潤は受け取りつつ、首をかしげた。
「なんで俺に弁当なんか」
「ナノコさまっす。ナノコさまの手作り弁当、すなわち愛妻弁当っすよ。か~っ、うらやましいっ。爆発しろリア充! ……おおっと、取り乱したっす。お許しを」
潤は驚いた。昨日の潤の離婚宣言で大泣きさせたナノコ。愛想を尽かされ、嫌われてもおかしくない。なのにこうしてわざわざ弁当を作ってくれるなんて、思ってもみなかった。
「ついさっき頼まれたっす。それから手紙……いや、新妻から旦那へのラブメッセージっすかね。ああ、それにしても新妻って響き、なんかエロいっす。股間にくるっす。うへっへ」
陽気箒は手のひらサイズの四つ折りの紙を取り出し、潤に渡した。潤はいささか緊張しつつ、それを開いた。
〝夫さんが笑顔になれますように ナノコ〟
丸みを帯びたかわいらしい、でも丁寧な字でそう書かれてあった。
ナノコ……。
昨日のナノコの泣き声を思い出し、胸が詰まった。彼女を傷つけ、笑顔を曇らせたのは自分だ。つらいのはナノコのほうだ。にもかかわらず、彼女は潤の笑顔を願ってくれる。潤をまだ〝夫さん〟と呼んでくれる。それが思いのほかうれしかった。自然と笑みがこぼれた。
「へへ、名授さまがギンギンになって喜んだって、ナノコさまに伝えるっす」
「いやそれダメだろっ」
陽気箒は「冗談っす」と、踊るようにくるくる回って陽気に笑った。そのとき頭上から、
「め、名授さま……ごほっごほっ」
べつの九十九神の声が、咳と羽音に混じって聞こえてきた。陽気箒が「この咳、そして虚弱そうな声は」と、箒の柄を傾ける。潤も視線を上げた。
ふらふらと下りてきたのは、ひとの子ほどの大きさのカラス……ではなく、黒い羽毛で覆われた人型の背格好と、カラスの頭部と羽を持つカラス男。右手には点滴袋を吊ったガートル架けを握っている。
「どうも、げほっごほごほ、今日も元気な虚弱カラスです」
「どこが元気なんすか」と、陽気箒につっこまれたのは、潤とオンナノコの結婚披露宴の最中、
「疲労こんぱ~い」
「乾杯じゃないんすから」
体力が尽きたのか、虚弱カラスはへなへなと陽気箒の上に落ちた。
「大丈夫なのか?」と、心配する潤に、虚弱カラスは羽を振って応えた。
「心配ご無用。だって俺、虚弱ですから。それがアイデンティティ。ごほっ、ぐはっ……ああ、持病の捻挫がひどい――て、そんなことよりも」
虚弱カラスはガートル架けを握る右手ではなく、左手を「よっこらせ」と、持ち上げた。そこには白い紙袋がひとつ。大きさはナノコの弁当箱と同じくらいだが、はち切れそうなほど膨れ上がっている。
「名授さまに、これをお届けに」
虚弱カラスは、紙袋を潤へ渡した。紙袋はズシリと重い。
「虚弱カラスも俺に?」
「オンさまから届けてくれと頼まれましてね。おにぎりだそうで」
潤は驚いて、すぐに紙袋の中を覗きこんだ。ソフトボールほどの巨大おにぎりが四個、ラッピングされて詰まっている。作りたてなのだろうか、紙袋を通しても、おにぎりの温かさが手に伝わってきて、それが心にまで優しく届いてくる。
今朝、喧嘩別れしたのに、オンもまたナノコ同様、彼女自身のことより潤のことをこうして気遣ってくれる。この先どうすべきか答えが出せず、うじうじと思い悩んでいる自分とは大違いだと、潤は身に染みて感じた。
ふと、紙袋の中の紙きれに気がついた。取り出してみると、角ばった力強い筆跡でメッセージが書かれてあった。
〝日本一のわからずやで、世界一のはくじょー者で、宇宙一のかいしょーなしで……――あたし一の夫くんに愛情おにぎりだ!〟
なぜか脳裏に、ドヤ顔で胸を張ったオンナノコの姿が浮かんだ。
〝どうだ夫さま? わらわの愛情、思い知ったか〟
そんな悪戯っぽい声まで聞こえた気がして、潤は苦笑した。目頭が熱くなるのを感じつつ、手の中のオンとナノコからの弁当に目を落とす。
これはふたりの想い……。
「ちゃんと味わって食べないとな」
潤はふたつの弁当を胸に抱え込んだ。