文字数 3,472文字

        一

 太陽を背に逆光を浴びたダテンダカツは、青空の中で異彩を放っていた。まるで空中にこびりついた黒い汚泥だ。巨体を侵す暗黒の邪霧(じゃきり)は全身から炎のように立ちのぼり、ダテンダカツの片翼がはためくたびに周囲に広がり、しかしすぐにまたその巨体へ回帰する。それを繰り返しながらダテンダカツは飛んでいく。
 すでに地面ははるか下。大根おじじの屋敷も見えなくなった上空で、ミライドラゴンに乗った(じゅん)と、陽気(ようき)(ほうき)に跨ったオンとナノコは、ダテンダカツに迫りつつあった。
「夫くん、いかずちに気をつけて!」
 ダテンダカツの頭が振り返ったのを見て、オンが警告した。すぐに陽気箒とミライドラゴンが左右に分かれると、直後、その中央をダテンダカツが吐いたいかずちが走った。
「夫さん、わたくしたちの名を呼んでほしいのです!」
 オンとナノコが陽気箒の()の上にすっくと立つ。潤は肖像蛾と戦った際のオンナノコの発言を思い出した。
名授(めいじゅ)言霊(ことだま)はね、守り神を癒し、神通力を高める。それこそ夫婦の絆の力だぞ〟
 名授と守り神にとって、契り名は絆そのもの。しかもここ数日でその絆は深まっているはずだ。潤はそう信じて守り神の名を呼んだ。
「オン!」そして「ナノコ!」と。
 声が空間を貫きふたりに届く。その不可視の軌跡を顕在させるように、【愛】の光文字が空中に出現した。数は数十個。掌サイズにも満たない【愛】だが、それは潤とオンとナノコをつなぎ、やがてすべて彼女たちに吸収されて消えた。と同時にふたりの身体が淡く発光する。
「んぁっ……」
 オンとナノコは身悶えし、とろけた表情で悩ましげに吐息をついた。
「夫くんの言霊すごい……力がガンガンわいてくる」
「とても気持ちよくて、温もりに満ちて、全身がポカポカするのです」
 ぐっと拳を握って、うなずきあうふたり。
「ガツンッといっちゃうよ!」
 オンがダテンダカツに向かって跳躍した。ダテンダカツは素早く後方を向き、オンを目掛けていかずちを放つ。
上雲津(かみくもつ)守護之(まもりの)霊妙(れいみょう)――(ひょう)(はらえ)!」
 ナノコが突き出した左手の先、そこに描かれた【神】の字魔法陣が弾けると、いかずちの前に、無数の氷の(つぶて)が出現した。いかずちはそれと交錯し、爆発音を響かせて蒸気をもうもうと生じさせる。その厚い蒸気の壁がダテンダカツの視界を遮り、動きを鈍らせた。
 つぎの瞬間、蒸気の中から飛び出したオンが黒竜の顔に拳を打ち込んだ。強烈な突きは鼻先にめり込み、その衝撃にダテンダカツは一回転。オンは後方へ大きくひるがえり、再び陽気箒に着地した。
 オンとナノコの息の合った連携に感嘆しつつ、潤はダテンダカツの邪霧の変化に気がついた。
 色が変わった!
 いまだ濃厚だが、先程までの漆黒ではない。宵の空を思わせる紫紺。オンの攻撃が効いた証だ。
 それを見たオンとナノコが一気呵成に攻めようと身構える。だがふたりが行動に移る寸前、ダテンダカツが咆哮を上げた。耳をつんざくそれは、まるで雷鳴だ。轟音はオンとナノコを躊躇させ、潤に鳥肌を立たせた。彼らを乗せた陽気箒とミライドラゴンは明らかに怯み、わずかにバランスを崩す。
 そんな中、ダテンダカツの邪霧が激しく蠢いた。大きくうねり、膨張し、体表を不規則に流れ、渦巻き、ダテンダカツばかりでなく、周囲まで侵食していく。
 おぞましい気配に、潤はごくりと唾を呑み込んだ。見つめる先で、ダテンダカツの巨躯が紫紺に燃え盛る。そしてそこから飛び火するように、邪霧の一部がダテンダカツの左右に分離した。汚泥をすくい、隣にぼとりと落したように。
 分離した邪霧の塊は、すぐにダテンダカツと同じほどに巨大化し、粘土がこねられるように変成していく。
 頭、角、胴、手、足、翼、尾……。見覚えのある形が、そこに現れた。
「ダ、ダテンダカツが!?
 潤は驚きの声を上げた。そこにはダテンダカツが三体。オリジナルはそのままに、両脇に邪霧から創造された紫紺一色のダテンダカツが生まれていた。形、大きさはオリジナルと同一だ。ただ本質が邪霧だからか、時折ゆらりと輪郭が崩れ、すぐにまたダテンダカツの形に戻る。その不安定さが、かえって不気味だ。
 潤たちが唖然とする中、三体のダテンダカツが一斉に動いた。オリジナルとレプリカ一体が、オンとナノコへ襲い掛かり、もう一体のレプリカが、潤とミライドラゴンへ向けて口を大きく開けた。
「ミライドラゴン! 右だ!」
 潤が指示し、ミライドラゴンは急旋回。バリバリッと、いかずちが轟いたのはその直後だ。間一髪それを回避し、安堵したのも束の間、続けざまに第二、第三のいかずちが飛んできた。
「うう、ミライゴンドラ、じゃなくてミライドラゴンはちょっとピンチなのダ」
 ミライドラゴンはジグザグ飛行し、懸命にいかずちを避けつつ、レプリカから距離を取ろうとする。が、敵も片翼を羽ばたかせ、潤たちの背後を執拗についてくる。
「夫くん!」
「わたくしたちもすぐそちらに!」
 オンとナノコの声に、潤は振り返る。だが一目でふたりに余裕がないことを悟った。
 二体のダテンダカツ相手だと、さすがの守り神も防戦一方だ。陽気箒の曲芸飛行とふたりのコンビネーションで持ちこたえてはいる。だが二体のいかずちと突進攻撃は、確実に彼女たちを追い詰めつつあるし、おまけにふたりは潤のほうを気にするあまり、戦いに集中できていない。これでは共倒れになりかねない。
「心配するな! こっちはなんとかする!」
 ゴンドラ胴体の縁から身を乗り出し、潤が叫んだときだ。
「!」
 眼前をいかずちが走った。目が眩んで体勢が崩れる。いかずち回避のためミライドラゴンが急降下したのも影響し、潤の両足はゴンドラ胴体を離れ、上半身が外へ飛び出した。
 まずい!?
 ゴンドラ胴体の縁をつかもうと伸ばした手は空振りし、さらに身体が傾く。横倒しになった視界に、こちらに迫ってくるレプリカダテンダカツが映った。
「名授さま!」
 焦るミライドラゴン。そこにレプリカがいかずちを放ち、潤に意識を向けていたミライドラゴンは回避できなかった。いかずちはミライドラゴンの左の翼を直撃し、その衝撃に身体が回転した。
「うわっ!?
 それが決定打となり、潤は空中へ放り出された。背中を下に、上空を見上げた格好のまま落下する。目に見えるのは、必死に体勢を立て直し、レプリカの襲撃をかわそうとするミライドラゴンと、
「夫くん!」「夫さん!」
 そこより離れた上空で悲鳴を上げる、オンとナノコの姿だった。
 どんどん距離が開いていく。けれど潤には彼女たちがはっきり見えた。瞳を見開き、青ざめている。ふたりを乗せた陽気箒がこちらへ来ようとするが、二体のダテンダカツに阻まれてしまう。
 オンがなにかをわめく。潤にはもう聞き取れない。ナノコが叫ぶ。横からレプリカの尻尾が迫っていることに気づいていない。
「よけろ! ふたりとも逃げろーっ!」
 潤の声は届かず、オンとナノコがレプリカの尻尾に巻き捕らえられる。丸い肉塊をつなげた尻尾にふたりの身体は締め上げられ、痛みに顔がゆがんだ。
「オンッ! ナノコッー!!
 無残な状況を目にしながら、潤にはどうすることもできない。ただ落下する。己の死の恐怖と、オンとナノコの危機に喉が裂けるほど叫び続ける。言葉にならない声をただひたすらに。しだいに意識が引きちぎられ、涙と唾を垂れ流して無力を呪う。落ちていく。なすすべなく落ちていく。
 誰も守れない。なにもできない。
 怒りと恐怖と絶望が刃となって、心を八つ裂きにしていく。いや古賀崎潤という無意味な存在自体がばらばらになりつつあるのかもしれない。喪失感に呑み込まれ、意識が噛み砕かれ、虚無となって吐き出される。自分が自分でなくなっていく感覚におののきながら、八つ裂きになった心のかけらが最後に思う。
 もう一度名を呼びたかった。〝オンナノコ〟、と。
 オンとナノコははるか遠い。もう見ることは叶わない。失う。なにも得られず、大切なものはなにもかも失ってしまう。〝自分らしく〟できることがなにひとつないままに。
 ああ……あああ……。もう声も出ない。
 耳元で風が唸る。すべてが終わってしまう。落ちていく。落ちていく。死の淵へ。
 潤はなにもできない。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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