文字数 6,847文字

        二

 自宅から歩いてきた通学路は、しばらくすると田畑に囲まれたまっすぐな一本道になった。アスファルト舗装されたそこは、かろうじて車が二台通れるほどの幅だが車が来ることはめったにない。野良猫が横切るくらいだ。
 ここを道なりに行けば上雲津(かみくもつ)学校に着く。本格的な登校時間にはまだ早いが、すでにランドセルを背負った小学生や、中学校の詰襟制服男子、ブレザーとチェック柄スカートの女子たちがちらほら歩いている。
 (じゅん)は周りを気にしつつ、声を潜めた。
図書室(としょしつ)男爵(だんしゃく)?」
 潤も中等部の学生服を着て歩いている。上雲津に引っ越してきてから三日目。オンとナノコをオンナノコに戻すことに集中したいところだが、潤は中学生だ。学校にも行かなくてはならない。というわけで今日から登校することになった。
「うん。九十九(つくも)(がみ)の図書室男爵ね。芋じゃないほうの男爵。超物知りで有名なんだ。その点では大根おじじもかなわないし、大根おじじと違って、小言とか言わないジェントルマン」
 潤の右で半袖和服姿のオンが言えば、
「図書室男爵さんなら、わたくしたちを元に戻す方法を知っているかもなのです」
 左では、フリル和服のナノコがたおやかに微笑む。
 青空の下、朝陽を浴びるふたりは朝露に濡れた花のように瑞々しい。
 そんな彼女たちにはさまれ、両手に花状態の潤は、微妙に落ち着かない。美少女ふたりとの登校に悪い気はしないが、慣れないせいか居心地が悪い。彼女たちの姿が潤以外には見えず、好奇の視線を向けられる心配がないのは救いだが。ただふたりの声も常人には聞こえないので、会話には注意が必要だ。下手すると、歩きながら独り言を続ける危ない中学生に見られてしまう。
「そっか。図書室男爵に会いに、上雲津学校の図書室に行くってことだな?」
 潤が小声で訊くと、オンとナノコはうなずいた。「そこが図書室男爵の住処(すみか)だから」
 用があるから自分たちも学校へ行く――家を出る際、ふたりからそう言われて不思議に思ったが、そんな理由があったのだ。
「それとですね、チズさんに、夫さんと一緒に学校へ行ってと頼まれたのです」と、ナノコが付け加えた。
千鶴(ちづる)に? なんで?」
 オンが千鶴の口調を真似て答える。
「新しい学校生活にびびる我が子の様子をあとで詳しく聞かせてちょーだい。今夜の酒の肴にするから。わっはっはっ」
「あのアル中教師。一生二日酔いが治らない呪いにかかればいいのに」
 千鶴も今日から中等部の国語教諭として赴任する。今朝は珍しくスーツを着て、潤よりも先に家を出た。
 潤の憎まれ口にナノコはくすっと笑ってから、あらたまった様子で口を開いた。
「今、大根おじじさんを筆頭に、ほかの九十九神さんたちも、わたくしたちを元に戻す方法を探してくれているのです。でも前例がないことなので、すぐにとはいかないかもしれません。知識の宝庫と言われる図書室男爵さんが、なにか知ってるとよいのですが」
 思案顔で瞳を伏せるナノコに、潤は謝った。
「悪い、俺のせいで」
 アクシデントとはいえ、潤の言葉がオンナノコを分裂させたことは事実だ。
「俺が、名授(めいじゅ)言霊(ことだま)の力ってのを、ちゃんと発揮できればいいんだけどな」
 言霊によって分裂が起きたのだから、元に戻すいちばんの手段も言霊だろう。でも潤には己の言葉に愛をこめ、そこに〝(まな)〟を宿らせ、言霊にすることができない。そもそも名授になるつもりがないのだから当然なのかもしれないが。
 不甲斐なさに顔を曇らせる潤に、オンとナノコが首を振る。
「夫くん、気に病んじゃダメだよ。そういうの禁止」
「そうですよ。あのとき肖像蛾の邪霧(じゃきり)を祓えたのは夫さんのおかげなのです。わたくしたちは感謝してるのです」
「それにぶっちゃけ、ひとり状態でもふたり状態でも、あたしたち上雲津を守れるしね」
「ええ、だからわたくしたち、今の姿にとくに不便なんて――」
 ナノコは不意に立ち止まり、やがてもじもじしだした。
「で、でも不便と言いますか……いささか気になることがないこともないような……」
 ナノコの言おうとしていることがわかったのか、オンは急に頬を赤らめた。
「あ~、いや、うん、あれね。アレのアレで、アレすることで……」と、くせっ気の髪の先を指でいじったりする。ふたりともなんだか歯切れが悪い。
 そんなふたりの態度のわけを、潤は察した。分裂の件で苦情のひとつも言いたいのに、きっと自分に気を遣って言えないでいるのだ。遠慮しているに違いない、と。
 俺はふたりに責められて当然だ。なにを言われても、〝男らしく〟受けとめよう。潤はそう思い、ふたりを促した。
「言いたいことがあるならなんでも言ってくれ。遠慮するな。さあ、ほら、オンもナノコも」
「は、はい。では…………夫婦エッチのことですっ」
「ぶふぉっ」
 思わず噴いた。
 夫婦エッチってなんだよ? エッチってあのエッチか? てか、なんでエッチ?
 目を白黒させる潤の前で、ナノコが「夫さん、意外に大胆さんなのです、んも~」と、身をよじらせ、隣のオンは両手をうちわ代わりに真っ赤な顔を仰いでいる。
「夫さんとのエッチのとき、どうすればいいのかと。だって今、ふたりなのですよ、妻が」
 オンがはずかしそうにナノコの背後に隠れて呟く。
「あたしは、どんなときも三人一緒がいいな」
「ナノコ。あなた、今いちばん大胆発言をしたのです。それ世間ではなんと言うか知ってるのですか? サンピ――」
「待て、ふたりともちょっと待て!」
 爽快な朝にまるでふさわしくない話題を、潤は慌てて遮った。
「そ、そういうのは……まあ、なんていうか……とりあえず置いといて、今はふたりの姿を元のオンナノコに戻すことに集中したいんだ、俺は」
 オンナノコに結婚解消を伝える前に、オンとナノコとエッチ、というか、一線を越えることがあってはならない。そんなことをしたら〝男らしく〟ないどころか、ひととして最低だ。夫婦になるつもりがないのだから、そこはけじめをつけなくては。
「不便はないって言うけど、やっぱりこれって異常事態だろ? 俺は、ふたりを早くオンナノコに戻してあげたい」
 潤の言葉にオンとナノコは顔を見合わせ、やがて同時にうなずいた。
「夫くんの言うとおりだね」
「ええ、まずはわたくしたちが本来の姿に戻ることが先でした」
 ふたりともわかってくれたようだ。
「それに、はじめては一対一で正常位……じゃなくて正常な行為がいいのです」
 ナノコの発言をあえて聞き流し「よし学校行くぞ」と、潤は努めて明るい声で言って、再び通学路を歩き出す。オンとナノコは屈託ない表情で返事をし、潤の両隣で歩調を合わせた。
 妙な視線を感じたのはそのときだった。潤は特別敏感なほうではない。でもその気配は得体の知れない感情を多分に含み、やけに重々しくて潤の胸を詰まらせた。同時に肌が粟立つ。
 なんだ?
 潤は目を動かした。謎の気配の引力を受けたかのように、視点は田園風景の向こうの杉林へ留まった。
 鬱蒼とした木立の一角、ひときわ高い杉の木のてっぺんに、それはじっと佇んでいた。
 ひとの形をしているが、一瞬、ぼろぼろのこうもり傘のように見えたのは、あちこち裂き破れた黒マントを羽織っているからだ。それを風になびかせつつ、本体は姿勢を乱すことなく、青空を背景に漆黒の異物として存在感を発揮している。すっぽり被ったフードのせいで顔は見えない。ただ逆光が影の濃厚さを際立たせ、その黒い気配が遠くからでも忍び寄ってくる。とうてい人間があんな場所に立つことなんてできないから、九十九神だろう。
 容貌は確認できないのに、樹上の影の視線が執拗に身体に絡んでくる。明らかにこっちを見ている。はっきりとそう感じる。それは服の下に入り込み、潤の内面を探ろうとするかのように皮膚を這いずりだす。そんな感覚に身の毛がよだったとき、
「夫くん、歩くの遅ーい」
 オンの声が聞こえ、前方へ目を移した。数歩先にオンとナノコの笑顔があり、思いがけずほっとした。不快な感覚が消えている。
「あ、ああ、悪い」
 足早にふたりに追いつき、もう一度杉林を横目で見る。樹上の影はすでに見当たらず、潤はまばゆい陽光に目を細めただけだった。

 休み時間に落ち合う約束をし、潤は上雲津学校中等部校舎の昇降口で、オンとナノコと別れた。ふたりは図書室男爵のいる図書室へ向かい、転校初日の潤は担任教諭に会うために職員室を訪れた。
 一学年一クラスずつの中等部。潤の編入する二年クラスの担任は、朝間(あさま)(こずえ)という若い女性だった。
「ん~、東京オーラ半端ないねえ。それにやっぱり古賀崎(こがさき)先生に似てるう」
 梢は語尾を伸ばし気味の口調で言って、職員室後方の席に座っている千鶴と潤を見比べた。声が聞こえたのか、千鶴は苦笑を浮かべ、それを見た潤は口をへの字に曲げた。
 ……きっついな。
 学校で教師の母親と会うことがこんなにも気恥ずかしいとは思わなかった。ちょっとこれからの学校生活が憂鬱になる。そんな潤をよそに、梢は人懐っこい笑顔で周りの教師に「ねえ、そう思いません? 目元とか、ほらあ。遺伝子感じませんかあ?」と同意を求めていたが、潤の仏頂面を見て、しまったという表情を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。こういうこと言われるのイヤだった? 先生、無神経だったねえ?」
 梢は頭をぽりぽりと掻き、取り繕うみたいに「とにかく、楽しく学んで、素敵な学校生活にしようね、潤くん」と、潤の肩を叩いた。
「はあ……よろしくお願いします」
 教師というより女子大生といった感じの梢は、気さくであっけらかんとした性格らしい。
 梢から教科書や生徒手帳をもらい、学校生活の注意事項を聞いていると予鈴が鳴った。
「じゃあ潤くん、我がクラスに初出陣ですよお」
 緊張をあおる言い方に、潤はゴクリと喉を鳴らす。それでなくても、クラスメイトとの初対面は、転校生にとって今後を左右する重大イベントだ。やはり第一印象はいいものにしたいと、肩に力が入る。
 二年教室は二階にある。梢とともに廊下を歩き、階段を上り、また廊下を歩く。空き教室が多いのは、昔に比べ生徒が減ったからだろう。それでも校内は掃除が行き届いて綺麗だし、日当たりもいい。暗い感じは少しもなく、どことなく親しみやすい雰囲気がある。
〝2年1組〟のプレートがかかったスライドドアの前に着くと、室内から生徒たちのおしゃべりが盛んに聞こえてきた。
「じゃあ、先生が先行って潤くんのこと伝えるから。先生が、どうぞーって言ったら入ってくるのよ。あ、ドアは開けっ放しにしとくから。いい感じで来てねえ」
 打ち合わせをして、梢はひとりで教室へ入っていった。室内から「梢先生、おはよっ」と、挨拶が次々聞こえてくる。梢も「おはよう、あ、帆鳥(ほとり)ちゃん髪切ったねえ、かわいいねえ」などと、気軽に応じている。
 なんかいいな、と潤は思う。東京で通っていた中学も悪くはなかったが、ここまで教師と生徒がフランクではなかった。楽しい学校生活への期待が高まる。と同時に、あれほど良好な関係ができあがってるクラスに、転校生の自分が受け入れてもらえるのかと、いささか不安を覚えた。
 室内では梢が転校生が来たことを告げている。潤は生徒たちの反応に耳を澄ました。男か女かと質問が飛ぶ。梢が転校生は男子だと伝えると、ため息と歓声が入り混じった。イケメンだといいね、と女子が言った。イケメンではない潤は入りづらくなる。
「皆、惚れないでよ~。ではでは、古賀崎・トーキョー・潤くん、どうぞー!」
 さらにハードルを上げられた気がする。ミドルネームがトーキョーの意味もわからない。だが逃げるわけにもいかず、潤は一度深呼吸をしてから教室に入った。
「あ、超普通」と、誰かが言って、へこんだ。教壇に上がって梢の横へ行き、そこで潤は正面を向いた。
 広さは東京の学校と変わらない。うしろのロッカー、学級文庫の本棚、壁に貼られた大きな時間割表や月間目標なども珍しくない。ただそこにいる生徒の数は明らかに少なかった。二十人もいない。これで二年生は全員だ。男女の比率は半々。教室の中央に寄せて席が配置され、外側が一列分空いている。
「じゃあ、自己紹介よろしく~」
 梢にうながされ、潤はうなずいた。さあ、第一印象は大事だぞ。爽やかにフレンドリーに、そして〝男らしく〟堂々と。
 クラスメイトの注目を浴びる緊張感の中、潤はおもむろに口を開いた。
「と、東京から転校してきた――」
「古賀崎潤」
「へ?」
 潤の名を告げたのは本人ではなく、クラスメイトのひとり。真ん中の列の前から三番目の席に座っていた生徒だった。
「なるほど、てめえが悪名高い古賀崎のくそガキか……。けっ、予想以上のアホ面だぜ」
 いきなり無礼な物言いだが、その声は少女のように高く通りがいい。だが立ち上がったのは、詰襟制服を着た生徒だった。潤の知らない顔だ。
 男子にしては小柄なほうで、線が細い。栗色がかった髪はオンよりも短く、頬の線が柔らかい童顔で、肌の白さが目を引く。女子に間違われてもおかしくない中性的な容姿だ。が、今は攻撃的に吊り上った眉と、敵意を光らせた双眸、不快感に歪んだ唇が、なんとも剣呑な雰囲気を放っている。そしてその険のあるまなざしと敵対心は、明らかに潤に向けられたものだった。
 潤は狼狽した。初対面で、くそガキだのアホ面などと罵倒されるとは思ってもなく、驚きのあまり怒りさえわいてこない。これが田舎の歓迎なら、田舎って怖すぎる。
 ほかの生徒たちが何事かと息を詰める中、梢がやんわりと童顔男子をたしなめた。
「そういう言い方は良くないと思いますよ~。これからクラスメイトになるんですからね。ていうか、ふたりは、お知り合い?」
「僕はてめえが大っ嫌いだ、見てるだけで虫唾(むしず)が走る、頭から爪先まで、すべてがキモいんだよ」
 童顔男子は梢にかまわず、潤に向かって挑発的に拳を突き出した。
「覚えておけ、このインチキえこひいき野郎。てめえはすぐに、この僕――綾乃瀬(あやのせ)(ささ)の足元にひれ伏すんだ。ぶざまに這いつくばらせ、小便ちびらせてやる。無能な下衆(げす)野郎の居場所なんて、この上雲津にはねえんだからな」
 童顔男子、笹の宣言に教室が騒然となった。潤は今まで受けたことのない敵意、拒絶に気圧(けお)され、言葉を失っていた。その代り梢が「え~と……あ、そっかあ、これはあれだね? 勉強のライバル宣言だあ」と、かなり都合のいい解釈で、場を収めようとした。
 そのときだ。
「夫く~んっ! 夫く~んっ!」
 潤を呼ぶ声と、廊下を走ってくる足音が聞こえてきた。オンだ。ショックを受けていた潤は、その声でいくぶん落ち着きを取り戻すことができた。なにかあったのだろうか。潤を呼ぶオンの声は、ひどく慌てている。
「夫くんっ!」
 開けっ放しだった教室のドアの向こう、血相を変えたオンが姿を見せた。もちろん梢やクラスメイトは無反応だ。守り神であるオンを、常人が認識することはできない。しかし気のせいか。潤の視界の端に映っていた綾乃瀬笹。その笹だけが、一瞬オンへ顔を向けたように思えた。
「一大事だよ!」
 オンは潤に駆け寄り、その手を取った。「夫くん来て! 図書室男爵が大変なんだ!」
 そのまま力強く引っ張られる。潤は転びそうになりながら教壇から降ろされた。
「ちょ、待て、いったいなんだよ、こら、あんま引っ張んな、痛いって」
 守り神のたくましい腕力を発揮するオンに引っ張られ、前のめりでドアの前まで連れていかれる。そこでクラスメイトたちの怪訝な顔に気づいた。当然だ。皆にはオンが見えていない。いきなりふらついたり、独り言を発したり、身体をくの字に曲げたり、腰を引いて手足をばたつかせたりといった、不自然な動作で教室から出ていこうとしてる潤しか視界に映っていないのだ。
「じゅ、潤くん、創作ダンスしながらどこ行くのお?」
 梢に訊かれたときには、すでに潤は身体半分教室の外だった。オンは一心不乱といった様子で、潤を引っ張る手を緩めようとしない。ダメだこりゃ、逆らえん。
「あ、これは、その……トイレ! トイレです! 緊張で腹が!」
 潤が教室から出たとたん、室内でどっと笑いが起こった。「なに今の?」「下痢ダンスじゃね?」「転校生は下痢ダンサー」などという声も耳に届き、潤は心が折れそうになった。
 俺の第一印象、下痢ダンサー……。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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