文字数 6,006文字

        四

 神妙な顔で古賀崎(こがさき)家の庭に立つ(じゅん)は、小さなスツールの上の黒サングラスに両手をかざした。ごくりと喉を鳴らしてから、口を開く。
「この世に、ただひとつ、おまえだけの、愛の名を」
 隣では、オンがその手元を祈るように見つめている。
 名授(めいじゅ)申し合いを明日に控えた本日は土曜。千鶴(ちづる)は仕事があって上雲津(かみくもつ)学校へ出勤したが、生徒である潤にとっては休日だ。これは好都合と、今日一日、名授申し合いで勝つための修行にあてることにした。
 今はその真っ最中。手始めに千鶴の古いサングラスに生み名をつけることにした。
「生まれてこい、九十九(つくも)(がみ)。おまえの名は――」
 言葉の迷宮を、直感と感性を頼りに突き進む。五十音は構成と分解を繰り返し、()りすぐられて、迷宮の道しるべになる。そして導かれた先に、この世でただひとつの名前が静かに眠っていた。潤はそれを目覚めさせる。名前が決まった。
「――〝うわっ視界が真っ黒だ〟!」
 ヒット、これはヒットだ。サングラスにふさわしいサングラス的(?)な名だ。
 内心で自画自賛する潤。オンが笑顔と泣き顔の分岐点みたいな表情で固まってることには気づかない。
「出た。〝(まな)〟だ」
 潤の手の下の空間に、ぽおっと淡く光る【愛】の字がひとつ出現した。大きさは一円玉ほどだが、それを見たオンは気を取り直し、手を叩いて喜ぶ。だが潤は浮かない顔だ。
「一個だけか」
【愛】の光文字はサングラスに落ち、フレームに触れると瞬時に消えた。と同時に、サングラス全体が発光する。
「でもきっとイケてる九十九神が生まれるよ」
 オンに励まされた潤は、光に包まれて輪郭を失ったサングラスを見つめた。光の塊はやがてべつの形を成し、輝きを収束させつつ、新たな存在を誕生させた。
「魚?」
 二匹の小魚だった。黒く半透明な胴体はサングラスのレンズ部分を片方ずつ。フレームが尾びれと背びれになり、パッドが頭。形だけならマンボウに似てなくもないが、大きさは元のサングラスと変わらない。二匹は常にぴたっと寄り添ったまま空中浮遊する。そのまま潤の目の高さまで来ると、二匹同時に小鳥の(さえず)りを思わせる声で名乗った。
「ぎょぎょぎょ、ウワッシカイガマックロダですう」
 潤の生み名で誕生した新九十九神。ひれをふよふよ動かし「はじめましてですう」と、空中で頭を下げる姿がかわいらしい。
 しかしその神数(かみかず)を見た潤は、生まれたての九十九神に気づかれないよう、秘かにため息をついた。
 これじゃ勝てない。
 ウワッシカイガマックロダは二匹で一匹の存在なのだろう。寄り添う頭上に描かれた神数はひとつだけ。その値は【三】だった。
 大根おじじの屋敷で、(ささ)が誕生させたスイゲツヒメの神数は【十八】。笹にはすでにそれくらいの値を出す実力があるのだから、最低でも神数【二十】を上回る生み名を成功させなければ勝ち目はない。
 オンもウワッシカイガマックロダの神数に気づいたのだろう。難しい顔で唸った。
「そういえば聞いたことある。生み名で生まれた九十九神の神数って、名授のネーミングセンスにすっごく影響されるって。名授の感性に〝(まな)〟が共感するからとかなんとか。あたしの頭じゃよくわかんなかったけど」
「つまり俺、ネーミングセンスなかったんだな……。はじめて知った……」
「あ、いやいや、そんなことないってば。夫くんのは少し毒毒(どくどく)なだけ」
毒々(どくどく)しいのか!?
「間違った。独特なだけってこと」
 オンは「こんなキュートな九十九神を生める夫くんは、やっぱりすごいと思うな」と、ウワッシカイガマックロダを指先にじゃれつかせながら言った。
「それにさ、あたしは夫くんにつけてもらった(ちぎ)()。たまんないくらい大好きだもん」
 それは潤への気遣いではなく、本心に聞こえた。落ち込みかけた気分はそれによって救われ、潤は「よし」と気合を入れなおした。
「とことんやってやる」
 しかしその後、様々なものに生み名を試み九十九神を誕生させたが、神数が二桁に届くことは、ついになかった。

 自室のシーリングライトを消し、潤はベッドに倒れこんだ。布団に身を沈ませ深々と息をつく。
「疲れた……」
 生み名を考えることに集中力を切らさずにいたからだけではない。どうやら生み名の行為自体、名授の精神力と体力を消耗させるみたいで、一日中それを続けた潤は、最後は立っていられないほど、へとへとになった。
「こんなことで大丈夫なのか……」
 暗い天井を見つつ呟いた。
 今日一日で、生み名を試みた回数は三十回。誕生した九十九神は九人。成功率は三回に一回といったところで、神数の最高は【八】だった。
 思うような結果が出なかったことが歯痒く、悔しい。あとはもう明日の本番で笹を上回らなくてはならず、不安と焦燥がいやがうえにもわいてくる。
 でも負けられない。オンナノコのためにも自分のためにも勝ちたい。いや勝つんだ。
 潤は握った拳を突き上げた。
 上雲津町に引っ越してきてまだ五日。来る前はまさかこんな波乱含みの非日常が待っているとは夢にも思わなかった(ていうか思っていたら怖い……)。場所は違えど平凡な日々が続くと想像していたのに、今ではそんな日常が遠い。
 でも嫌ではなかった。戸惑いはあるが、覚悟を決めたことで、オンやナノコ、九十九神たちとの非日常を、これからの日常にしていきたい気持ちが強まっていた。大変なこともきっとあるだろうけど、楽しそうでわくわくする。そしてそのことが潤に力をくれる。
 こんな気持ちにしてくれたオンナノコを、俺は支えていきたい。
 潤は心で呟き、拳を下ろした。とにかく明日は全力で挑んで勝とう。あらためて決意し、目をつぶろうとしたときだった。コンコンとドアがノックされた。
「夫くん、まだ起きてる?」
 オンの声だ。潤が「ああ」と答えると、ドアが開き、オンが顔だけ覗かせた。
「ごめん、寝てた?」
「いや、それよりどうかしたか? あ、今電気を――」
「あ、いいのいいの、そのままそのまま」
 ベッドの上で上体を起こした潤を止め、オンは「にはは~」と、照れ笑いを浮かべながら、ドアの陰から飛び出した。廊下の電灯に照らされたその格好は、空色のパジャマ姿。全体に様々な音符柄が散りばめられている。
「ね、これどう? 今日チヅが買ってきてくれたんだ。オンだから音符がいっぱいのパジャマ。ふわっふわで、きっもちいいの」
 オンは両手を広げ、その場でくるっと回る。オンもナノコも普段は家でも外でも空色の和服を着ているので、パジャマ姿は新鮮だ。それに子供みたいに喜ぶオンが微笑ましい。
「ああ、似合ってると思う。か、かわいいな」
 女の子を褒め慣れていない潤は噛んでしまったが、オンはひたすらうれしそうだ。
「うんうん、かわいいよね、このパジャマ」
 あれ? 俺、パジャマを褒めたんだっけ?
「もちろんナノコのもあるんだ。ナノコのは、ひらひらフリルがいっぱいのネグリジェで、色っぽかわいいんだよ」
 潤はナノコのネグリジェ姿を想像した。空色もいいけどピンクも似合いそうだ。オンが音符柄ならナノコは菜の花柄なんかどうだ? それを全体に……いや胸のあたりにワンポイントであしらったほうが彼女の魅力をいっそう引き立てそうだ…………ていうか、俺、真剣に想像しすぎ。
 潤はコホンッと咳払いをしてから言った。
「明日勝って、早くナノコに戻ってきてもらわないとな」
 オンが「うん、そだね」と応じ、会話が途切れた。だがオンはその場を動こうとしない。視線を泳がせ、前髪を指で弄ったり、片方の腕をさすったり、部屋をきょろきょろ見回したり、にはは~と笑ったり。パジャマのお披露目以外にも用がありそうだ。
「オン、なんか用があるんじゃないのか?」
 潤が声をかけたのをきっかけに、オンは「えいっ」と、うしろ手でドアを閉めた。暗い室内。かろうじてオンの姿が見える。オンはタタッと駆け寄ってくると、ベッドにダイブした。潤の横で、素早く掛布団に身体を潜りこませる。
「え? ちょ、なんだ!?
 オンは潤の枕に顔を半分ほど埋めてはじらい、ポツリと呟いた。
「今夜は一緒に寝たい……です」
 ね、寝たい? え? 寝たいって、もしかして…………あれか? 大人の階段登っちゃう的なあれか?
 潤の考えを見透かしたのか、オンは枕の上で頭を振って「違うよぉ」と、否定した。
「ただそばで寝るだけ。ナノコがいなくてさびしいんだもん」
 声は尻すぼみになり、最後は囁きに近く「だから……エッチとかはなし、で」と、付け加えて、目をギュッとつむった。
 一心同体のナノコがそばにいないことが、思いのほか心細いのかもしれない。
 明るく元気なオンが、隣で身を縮ませる姿をまのあたりにし、潤の狼狽は嘘みたいに収まった。とても穏やかな気持ちで、彼女を安心させたいという庇護欲に近い感情が強まる。
 そっと目を開け「ダメ?」と、上目遣いで見つめてくるオンに潤は苦笑した。
「わかった、今日だけな」
「やった」
 無邪気に喜ぶオンの肩まで掛布団を上げてやって、潤は隣で仰向けになった。うん、とても安らかで、さっぱりした気持ちだ……――と思ったのも束の間、すぐにバクバクと鼓動が高鳴り、緊張で身体が強張っていった。やはりこんなシチュエーションで童貞中学生が平静でいられるわけがない。
 聞こえてくるオンの息遣い。鼻先をくすぐる髪のシャンプーの残り香。わずかに身じろいだら彼女の、たぶん腕のどこかに指が当たり、そのまま動かせなくなった。ごくりと喉を鳴らし、視線を隣に向ける。オンの顔がすぐ近くにあり、暗闇の中でも目が合ったことがわかった。ふたりそろって目をそらす。顔が熱い。暗くてよかったと思う。赤面してるのがばれないから。
 やばい……これ、寝れねーぞ。
 このままでは明日のために必要な休息がとれそうにないではないか。ああ、神はなぜこんな試練を俺に与えるのか……ていうか、すぐ横にその神がいるし! ――などと悶々としていたら、
「夫くん」
 オンが耳元で呟いた。再び視線を動かすと、オンはどこか遠い目をしていた。
「〝神とて、ひととて、想いたがわず、言霊(ことだま)(さきわ)う地に、(あい)の花を咲かせんとす〟」
「オン?」
「ん~とね、これ、先代守り神の口癖。先代は、先々代から教わったって言ってたから、上雲津の守り神に代々伝わってきた言葉かも」
〝神とて、ひととて、想いたがわず、言霊の幸う地に、愛の花を咲かせんとす〟
 オンはもう一度繰り返し「九十九神もひとも、信念を持って生きてれば、きっと幸せが訪れる――て感じかな?」と、その意味するところを口にした。
 潤が父や母の言葉に支えられたように、それは代々の守り神の心の指針となってきた大切な言霊なのだろう。名授を目指す潤にとっても、それは心に響くものだった。
「……俺にとっての信念って、もしかしたら……オンとナノコなのかもしれないな」
 深く考えずに言ってから、猛烈にはずかしくなった。
 なんだ今の。なに言っちゃってんの俺、臭すぎて引くわ。
 オンを窺うと、「うゎ……わぁ」と、こちらも照れくさそうに悶えている。
「も~、夫くんって、アレだよ、え~と……天然芝プレイボール」
「どこの甲子園だよ? それ言うならたぶん天然プレイボーイ。ていうかそうじゃなくて、俺が言いたかったのは、守り神を支えられるよう、信念を持って頑張るって意味で……」
 潤の言葉にオンは「うん、ありがと」と、はにかんだ。しかしすぐに憂い顔になる。
「でも夫くん、気を付けて。笹って、やっぱ変だよ。いくら先祖が言霊(ことだま)夫婦(めおと)だからって、あの力はありえない。なにか裏があるかもってナノコも言ってたし。だから――」
 オンは潤の首元に頭をくっつけた。
「夫くんのこと信じてるけど……でもちょっとだけ、明日が怖い」
 オンはかすかに震えていた。戦闘に関しては潤よりずっと強い守り神。なのにその姿が今は儚く、か弱く、七年前、林の中で、ひとり苦しみに耐えていたオンナノコと重なった。
 彼女を守りたい。その一心が潤の上体を起こし、オンの肩に手を置かせた。
「心配するな、オン。俺、頑張るから。きっとうまくいく」
 毅然とした態度に、オンは驚いた様子で潤を見上げたが、やがて安堵の笑みとともにうなずいた。そのまま潤がオンに覆いかぶさる格好で見つめあう。
 あれ? なんでこんな体勢に。
 そう思ったときには、動けなくなっていた。顔の近さに、いまさらながらに息を呑む。オンも同じなのか、息遣いが聞こえてこない。瞬きもせず、潤を見つめている。オンの瞳の中に潤がいて、潤の瞳の中にオンがいる。そのまま瞳の中のふたりと、今ここにいるふたりが入れ替わってしまうような不思議な感覚。
 潤はオンに見入り、オンは「夫くん」と囁いた。その唇に潤の意識が吸い込まれる。不可思議な引力が甘く漂う。そしてオンはすうっと、目をつむった。
 こ、これは。
 未知の予感に背を押される。火が出そうなほど身体が熱い。これ以上オンに触れたら、きっと火傷させてしまう。だがふたりの間の磁力には逆らえない。彼女の顔に自分の顔が自然と近づいていく。止められない。引き寄せられ、近づいて、近づいて……――そして。
「ドッキドキですう」
 触れ合う寸前、ウワッシカイガマックロダの声が聞こえ、潤は反射的にオンから顔を離した。オンもパチッと目を開け、ふたりで周囲に視線を巡らせる。
「あ、ああ……そうだった、おまえたちがいたこと忘れてた」
 ベッドの周りには、ウワッシカイガマックロダをはじめとし、九人の九十九神がそろっていた。本日、潤の生み名で誕生した者たちだ。住処となる場所が見つかるまで、彼らは古賀崎家で寝泊りすることになっていたのだ。
「ぎょぎょぎょ、気になさらず、ちゅっちゅっ、してくださいなのですう」
 ふたりの頭上ですいすい泳ぎだすウワッシカイガマックロダ。ほかの九十九神たちはベッドサイドから「わっくわく、わっくわく」と、好奇のまなざしを向けてくる。
 これで気にしなかったら変態だ。
 オンは「にはは」と、ぎこちなく笑いつつベッドから飛び降りた。「あ、あたし、やっぱり自分の部屋で寝るね。おやすみ!」
 オンは逃げるように潤の部屋をあとにし、潤は精も根も尽き果てベッドに倒れた。
 あまりの疲労にぐっすり眠れたことだけは幸いだった。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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