文字数 10,214文字

        一

 ふうむ、と大根おじじは難しい顔で唸り、自分の白いおでこをなでつけた。
 一昨日、(じゅん)とオンナノコの結婚披露宴が催された和式大広間。そのときの飾りや食膳はなく、広々とした室内には今、潤、オン、ナノコ、大根おじじ、そして(ささ)が座っている。
 上雲津(かみくもつ)町の西のはずれにある上隠山(かみかくれやま)。山林資源が豊富で林業が盛んな東の上去山(かみさりやま)とは対照的に、丘陵といった雰囲気のその小さな山の麓に、大根おじじの屋敷はひっそりと建っている。上雲津学校からは歩いて四十分ほど。九十九(つくも)(がみ)の集会にも使われる日本家屋は、幾重にも神通力が施されていて普通の人間には見えないし、近づくこともできない。
「なるほど……のお」
 話を聞いた大根おじじは、正座した笹を見つめた。笹は自信満々の表情だ。
綾乃瀬(あやのせ)家の初代当主殿でしたなあ、当時の守り神さまと言霊(ことだま)夫婦(めおと)であられたのは……そう、わしが幼少の頃、二百年近くも前……いやはやわしも年をとるわけですじゃ」
 先祖が言霊夫婦だったことが証明され、笹は満足気に小鼻を膨らませた。
「しかし……」と、首をかしげる大根おじじ。頭の大根の葉がかさこそと音を立てる。
「言霊夫婦の血筋は元来薄く、神通力が明確に受け継がれるのは実子まで。孫の代でその力はほぼ絶たれると聞き及びますが」
 つまり何代もあとの子孫、笹が能力を持っているのはイレギュラーなのだ。
 図書室男爵に()()をつけ、エイゴウチシキに転生させた綾乃瀬笹。
 名授(めいじゅ)でもないのに強力な力を持つ彼を、オンとナノコは看過できなかった。ふたりからの提案で、放課後、九十九神の村長(むらおさ)大根おじじの屋敷を訪れることになった。ちなみにエイゴウチシキは、笹の能力に関しても、オンとナノコをオンナノコに戻す方法についても知らなかった。
「おいおい、力がある理由なんて関係ないだろ。今、重要なのは、僕が古賀崎(こがさき)(じゅん)より名授の能力にはるかに優れてるということ。無能なくせに名授に選ばれたえこひいき野郎より、守り神のパートナーにふさわしいのは、この僕だ」
 笹がぎらついた目で潤を睨む。潤はそれに気づいていないふりをして押し黙った。
 居心地が悪い。なにも言い返せない。笹の言い分はもっともだった。彼が名授として優れているのは、エイゴウチシキの件で実証済みなのだから。
 しかも潤は、実際のところ名授になりたいと思っていない。オンナノコとの結婚を白紙に戻そうと考えている。今はオンとナノコをオンナノコに戻すことに専念し、それを先延ばしにしているだけだ。
 だから笹の申し出は、潤にとって好都合と言えなくもない。
 だが横でオンとナノコが「ふーんだっ。夫くんは才能あるんだから。あたし信じてるもん」とか「わたくしたちはすでに夫婦。夫さんの代わりはいないのです」と、懸命に訴える姿を目の当たりにすると、笹に同調することはできなかった。彼女たちを裏切り、傷つける真似はしたくない。
 でも……。
 潤は心で自問した。それは自分勝手なだけじゃないのか、と。
 オンとナノコを裏切る? 傷つけたくない? それは言い訳だ。本当は自分が悪く思われたくないだけ。彼女たちに嫌われたくないだけじゃないのか?
 そんな曖昧でほの暗い気持ちが、心中に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そのたびに胸が痛んだ。
 もしそうなら……。
 ほの暗い気持ちは重く、それがのしかかって潤をうつむかせる。
 これは完全にわがままだ。自分が大切なだけの、醜い自己本位。不誠実で利己的で中途半端で、そしてなにより〝男らしく〟ない。
 潤は膝に置いた手を固く握り締めた。今ここで自分の本心を言うべきなのだろうか。必死に自分の肩を持ってくれているオンとナノコの前で……。
 潤が逡巡する中、不意に笹が立ち上がった。そのまま(とこ)()へすたすたと歩いていく。
「綾乃瀬殿?」
 大根おじじの呼びかけに、笹は床の間の前で振り返った。
「僕がそこのできそこないより優秀だってことを、決定的に証明してやる。これを見ればきっと守り神も心変わりするさ」
 得意げに言って、潤を挑発的に一瞥する。本音を隠してるうしろめたさと、気持ちの迷いが相まって、潤はとっさに目をそらした。笹が鼻で笑う。
「言い返す度胸もないか、この臆病者。男らしさのひとかけらもねえな」
!!
〝男らしく〟を目指す潤にとって、その言葉は聞き捨てならなかった。はじめて笹に腹が立って睨み返す。その横ではオンとナノコが不愉快そうに口を尖らせている。
 しかし笹に気にしたそぶりはない。悠然と片膝をつくと、床の間に飾られたふたつの壷のひとつに両手をかざした。壷はどちらも高さ三十センチほど。口縁が広く、その下のくびれは緩やかだ。色は薄茶と黒で、ほのかな光沢。品のよさは甲乙つけがたい。笹が手をかざしているのは薄茶のほうだ。
「――我、いだきし、こはき宿望、天照(あまて)(こと)()にて、〝(まな)〟のしるしとせむ」
 いつもは粗暴な笹の声が、今は詩的に流れ、言葉のせせらぎとなる。
九十九(つくも)(ことわり)綿々と、(つち)にまざりて、かの生みし名に御霊(みたま)を降ろしたてまつらん」
 オンとナノコが「え?」と、息を呑む。大根おじじが細い目を見張った。
「〝()()〟をなさるおつもりか」
 生み名?
 潤は眉をひそめ、笹のほうは不敵に微笑んだ。
「汝の名は――〝水月姫(すいげつひめ)〟」
 笹のかざした手の下の空間に【愛】の光文字が現れた。具現化した〝(まな)〟だ。
 数個の【愛】は笹の声を、想いを糧とし、言葉を言霊にする。光は弱いが輝きは安定したまま、【愛】は壷の中へ落ちていった。
 壷自体がうっすらと発光しだす。にじみでた光は全体を覆い、その光の衣で壷の形を消して光の塊に変じた。光の塊は脈動し、やがて新たな輪郭を形成する。
「これは見事な」と、大根おじじが感嘆のため息ひとつ。
 壷のあった場所に現れたのは、背丈が大根おじじくらいの小さな女性だった。平安貴族を思わせる雅な十二(じゅうに)(ひとえ)をまとい、髪を結い上げた頭には宝冠。顔立ちは気品にあふれ、微笑はしとやかに、奥ゆかしく。
 そしてその右肩には、元の三分の一ほどになった壷が載っていた。女性の手が添えられた壷は傾き、中から清らかな水がとめどなくあふれている。しかしそれが女性の足元を濡らすことはない。ただ途中の空間で静かに消えていくだけだ。
「〝(まな)〟の慈悲に心よりの感謝を――スイゲツヒメと申します」
 女性は楚々とした口ぶりで名乗った。潤は目を丸くした。「どういうことだ?」
 笹が行なったのは継ぎ名による転生ではない。物である壷を九十九神にしてしまったのだ。
「生み名なのです」
 答えたのはナノコだ。動揺のせいか、声がわずかに上擦っている。
「継ぎ名と同じく、名授さんの能力のひとつ。〝(まな)〟の力を得て、森羅万象に名をつけることで九十九神の誕生を促す……。(ことわり)を超越するとも言われる能力です」
「あ、あたしの頭じゃよくわかんないけどさ。こんなの絶対変。おかしいよ。名授でもないのにありえないってば」と、オンが泣きそうな顔で言う。
 次々と名授の能力を見せつける笹。潤たちはただ困惑し、大根おじじは視線をななめ上に向けて思索にふける。
 そんな中、笹が意地悪く笑った。「さて、ホントのお楽しみはここからだな、臆病者の古賀崎潤ちゃんよ」
 笹は床の間に残った黒い壷を両手で持ち上げ、潤の前にやってくる。
「今度はてめえの番だ」
 ドスンッと潤の前に壷を置いた。「男らしく勝負しろよ」と、すでに勝ち誇ったように胸を張る。「それとも、弱虫の無能ちゃんは負けるのが怖くて逃げるか?」
 潤はカチンと来た。名授の自分に敵対心を燃やすのはわかるが、いいかげん笹の不遜な態度にはむかついていたし、〝男らしく〟と言われて引き下がれるわけがなかった。
 これはもう名授とか、守り神との結婚の件とは関係ない。男の意地をかけた勝負。すごすご逃げ帰ったら、ただの腰抜けだ。そんな姿、〝大切なものを守れるくらい、男らしく強く生きていけ〟と、言い遺した天国の父に見せるわけにはいかない。
「やってやるよ」
 潤の力強い声に、笹は冷笑で応じる。
「てめえの醜態を見れば、守り神も愛想を尽かすだろうよ」
「醜態? そんなものどうでもよくないか。かっこ悪くたって、恥をかいたっていい、ただ〝男らしく〟今やるべきことをやるだけだろ、笹」
 敢然と見返した潤に、笹はわずかにたじろぐように顎を引いた。が、すぐに舌打ちをして「だから呼び捨てにすんじゃねえ、えこひいきのモブ野郎が」と、吐き捨てる。
 絶対に負けねえ。
 潤はごくりと喉を鳴らし、眼前に置かれた壷に両手をかざした。
「夫くん」「夫さん」と、自分に寄り添ってくれるふたりの守り神。その表情は潤への信頼によって少しの曇りもなく――頑張るんだぞ、夫さま――一瞬、オンナノコの顔が重なり、励ましの声が聞こえた気がした。
 気合十分。潤は壷に神経を集中させた。
 壷を視界に焼きつける。意識に刻印する。その存在を肌で感じ、心で触れ、頭で理解して、生み名への糸口をひたすら探っていく。
 名前……この壺にふさわしく……九十九神へ生まれ変わるための名……この世の誕生を印す最初の一歩……。
 壺の姿かたちを心に溶かし、自分の感覚と攪拌(かくはん)させていくと無数の名が瞬きだす。すぐに消えるものもあれば、しばらくそこに留まったのち選択から外れる名もある。正解はどれだ? どの名をつかみ取ればいい?
 潤は笹のように祝詞(のりと)を紡ぐことにした。直感を研ぎ澄まし、事を成功へ導くには、こういう儀式が必要に思えた。とはいえ祝詞なんて言ったことがなく、意匠を凝らしたものなんて考えつかない。とっさに口をついて出たのは、
「――この世に、ただひとつ、おまえだけの、愛の名を」
 そんな単純な台詞だった。祝詞なんて大げさなものではない。誰からも愛される名をつけてあげたいという、潤の素直な気持ちの表れにすぎなかった。
 だがその明快な言葉は、不思議なほどその場にかぐわしく満ちた。剥きだしの想いだからこそ、それは信念となって力を得たのかもしれない。オンとナノコが感じ入るように自分たちの胸に手を置き、笹は気に障ったのか、眉毛をピクリと動かした。
「生まれてこい、九十九神」
 脳裏に浮かんだ名が目の前の壺と結びつき、潤は手ごたえを感じた。唯一無二の名が言葉に、いや言霊になる確信を抱く。
「おまえの名は――」
 潤以外の全員が固唾を呑む。その場の緊張が風船みたく限界まで膨れ上がる中、潤が高らかに告げた。
「――〝笑いの壷にハマって小一時間笑う〟!」
「…………」
 緊張の風船が割れたら、じつはそれ水風船で、頭から冷や水を浴びせられました……といった表情を、潤以外の全員がした。
 しかし潤は周囲の反応に気づかない。期待を込めて一心にかざした手の下を注目した。
「で、出たぞ、〝(まな)〟だっ」
 なんと壷と手の狭間に小さな、豆粒ほどの【愛】の光文字が現れていた。数はふたつだけ。しかも笹が生じさせた【愛】よりも輝きが弱く、たまに消えかけるほどだ。
 それでも、継ぎ名の際には出なかった【愛】に、潤は歓喜した。それが壷の中に落ちていくさまをじっと見守った。オンとナノコも気を取り直し、祈るように壷に目を凝らす。
 壷が発光しだす。薄い靄のような頼りない光だ。それが全体を覆うと壷の形が消え、光の塊に。やがてうごめきだした光の塊は、壺とはべつの像を結びだし、その輝きが消える頃には新たな九十九神を存在させた。
 ひょろっとした両手、両足……。体型は人に近いが、頭が異様に大きい。いや、頭に見えたのは、頭部に載せた壷で、顔自体は小さく横長だ。
「笑う門には福来たる。わし河童だから、服は着てないけどな。うっひょっひょっ、ワライノツボニハマッテコイチジカンワラウだひょん」
 現れた九十九神は、スイゲツヒメより頭ひとつ分大きい河童だった。
 水かきのある手足。亀のような甲羅。肌はてらてら、ぬめぬめした緑色。顔にはガチョウのような嘴があり、どんぐり眼と相まって愛嬌がある。ただよく知られる河童と違うのは、皿の代わりに黒い壷が、頭の上に載っかっていることだ。
「おや、べっぴんさん発見だひょん。おっぱい見せてひょん。揉ませてひょ~ん」
 スイゲツヒメを見てにやけるワライノツボニハマッテコイチジカンワラウ。スイゲツヒメの上品な笑みが引きつっている。
 新たに生まれた二体の九十九神。どちらも元は壷だが、姿はまるで違う。たたずまいの美しさでは、ワライノツボニハマッテコイチジカンワラウはスイゲツヒメに遠く及ばない。
 しかし潤にとっては自分が誕生させた九十九神だ。うれしさはひとしおで、充実感もある。潤は誇らしげな顔を笹に向けた。笹は潤が生み名を成功させるとは思っていなかったのだろう。ワライノツボニハマッテコイチジカンワラウを憎々しげに見つめた。
 いっぽう、ふたりの守り神は手を叩きあって喜んでいる。
「さっすが夫くん、超かっこいい。惚れ直しちゃった。ベタ惚れを超えた、神惚れだよ」
「夫さん、いっそ今晩、初夜を迎えませんか? わたくし我慢できそうもないのです」
 潤も安堵とともに相好を崩す。だが喜びにわく三人とは裏腹に、大根おじじは憂い顔で頭を振った。
「さて、いかがしたものか……」
 重々しい声に、潤、オン、ナノコは笑みを消した。大根おじじは細い目を瞬かせながらスイゲツヒメを指さした。
「ごらんなされ、()の者の神数(かみかず)を」
 九十九神の根源にして能力値でもある神数。潤は神数を意識しつつスイゲツヒメの頭上に目を凝らした。なにもない空間に、毛筆体の漢数字が見えてくる。
【十八】。それがスイゲツヒメの神数だ。
 つぎに大根おじじは、ワライノツボニハマッテコイチジカンワラウを指した。河童姿の九十九神は注目されてうれしいのか、舌を出してだらしなく笑う。そしてその上に掲示された神数は、
「い……一?」
 わずか【一】だった。オンが「そんな」と呟き、ナノコは「で、でも生み名を成功させたことに変わりはないのです」と、潤を擁護する。
 潤は奥歯を噛みしめた。ワライノツボニハマッテコイチジカンワラウの神数【一】。スイゲツヒメとの圧倒的な差。おそらくそれは名授としての潤の未熟さの証であり、大根おじじはそれを指摘したのだろう。
 自分でも意外なほど悔しい。そんな潤へのあてつけのように、笹がげらげら笑う。
「無能な名授に名を付けられた九十九神に同情するぜ。しかし【一】なんてすげえな。狙ってできるもんじゃないぞ。ある意味才能か、クズ野郎の」
「君、うっさいよ」と、オンが激高する。ナノコも「それ以上夫さんを侮辱したら許さないのです」と、普段は柔和なまなざしに怒気をにじませる。ふたりの守り神に凄まれ、さすがの笹もまずいと思ったのか、潤への揶揄をやめて大根おじじに顔を向けた。
「これでわかっただろ? 僕のほうが名授にふさわしいってことが。僕が名授になるべきだと、九十九神の(おさ)のあんたならわかるはずだ」
 大根おじじは、物憂げにため息をついた。
「潤殿は守り神さまが選ばれた御仁。よしんば今はまだ力不足でも、成長をお待ちするのが道理……ですが」
 オンとナノコが顔色を変える。
「ちょ、待って大根おじじ。〝ですが〟ってなにさ? あたしたちはもう言霊夫婦だからね。名授は夫くんだけ。そんな簡単なこと、考えるの苦手なあたしにだってわかるもん」
「わたくしたちが一緒にいたいのは夫さんだけなのです。かけがえのないお方なのです。一緒に生きたいのは夫さんだけ。それに勝るものなんてないのです」
 むきになって言い張るふたり。しかし大根おじじは、彼女たちの気勢をそぐように恭しく(こうべ)を垂れた。
「お気持ちは重々承知いたしておりますじゃ。ですが考えてはいただけませぬか? 守り神さまがおふたりとなった現状を。今が前代未聞の事態で、それがどれほど上雲津にとって不安定で、危ういものなのかを」
 潤はハッとした。
 ああ、そっか……そうだよな……。
 大根おじじがなにを言いたいのか、潤は察した。それは守り神と名授という立場なら当然考慮しなくてはいけないことだ。
「守り神さまの神数【九十九】という絶対的な力が、今は失われたのですじゃ。神数【五十】と【四十九】のおふたりが常日頃ともにおられようと、守り神としては不安定と言わざるを得ないのです」
 大根おじじは顔を上げ、オンとナノコを窺った。ふたりは不満あらわなふくれっ面だが、大根おじじの正論の前に、なにも言い返せない。
「【九十九】の守り神さまの庇護下にあった九十九神の中には、すでに不安を訴える者も少なくないのですじゃ。このままでは、いずれ不安は上雲津全体に広がり、必ずやこの地を波立たせるでしょう」
 大根おじじが潤を見る。
「潤殿、ご理解くだされ。このようなときだからこそ、わしらは優れた名授を求めなくてはならぬのです。守り神さまとともに、上雲津を守る力として」
 オンとナノコがそれを咎めた。
「そんな言い方……あんまりだよ」
「夫さんは……道具ではないのです」
 しかし潤自身は腹を立てることもなく、大根おじじの言い分に充分納得していた。守り神の異常事態だから、そのパートナーは少しでも能力の高い名授であってほしい。九十九堕使(つくもおとし)という、ひとや九十九神に害をなすものが存在するのだから当然だ。
 よって今、オンとナノコが選ぶべき名授は古賀崎潤ではなく、綾乃瀬笹なのだ。そこに個人的な感情が入りこむ余地は……おそらくない。上雲津を守護すること。守り神や名授にとってそれがすべてなのだから。
 でも……。
 潤は短くため息をつく。身体から力が抜けていた。
 なんだこれ?……なんでこんなに落胆してんだ、俺?
 オンナノコに夫婦解消を直接言えなくなるのは心残りだが、上雲津に平安を取り戻すことに比べたら些末なこと。ここで名授は……言霊夫婦は終了。明日からまた、普通の中学生の日常が戻ってくる。自分が望んでいたものも、そういうことだったはずだ。
 なのに潤の気分は暗く、沈んでいた。名授から解放されるのに、少しもうれしくないことにイラついていた。その理由を考えるのも億劫で、わからないまま放り出す。すべてがどうでもいい。疲れた。これ以上ここにいても意味はない。帰るか。
 そう思い、腰を浮かせたときだった。
「ヤダ!」
 オンが叫んだ。
「神数なんて関係ない! あたしが欲しいのは強い名授じゃない! 難しいことよくわかんないけど、これだけははっきりしてる! あたしが頑張るには夫くんが……潤が必要だってこと! それだけだもん! たったそれだけを望んじゃダメなの!?
 ナノコは大根おじじに詰め寄った。
「今までやってこられたのは夫さんが……潤がいてくれたからなのです! 七年間ひとりでさびしかったときも、この空の下に愛しいひとがいる、潤がいる! そう思えたから笑顔になれたのです! 好きなのです! 愛するひとがいてくれることが、こんなにも力になるなんてはじめて知ったのです! ですから……ですからわたくしは潤と離婚なんてしないです!」
「あたしだって潤と離婚しない!」
「絶対に!」と、ふたりの声がそろって響いた。
 ふたりの剣幕に潤は呆気にとられた。笹も驚いた様子で固まっている。
 オン……ナノコ……。
 ふたりの必死で頑なな横顔が、潤には一瞬オンナノコに見えた。
〝潤と再会できて、わらわは今、世界でいちばん、幸せだ〟
 不意に彼女の言葉を思い出した。肖像蛾との戦いのさなかに言ってくれたものだ。それが今、オンとナノコが吐露した心情とともに、潤の心を激しく揺さぶった。
 なんで……そこまで俺を……。
 ふたりがこんなにも自分を慕い、必要としているとは思わなかった。そのことを不思議に思いつつ、本当にここで終わっていいのか、彼女たちの想いに応えず投げ出していいのか? ……と、迷いが生じた。
 そんなとき、大根おじじが口を開いた。「守り神さま」
 慈愛に満ちたまなざしが、オンとナノコに注がれる。
「最後はおふたりが、お決めになればよろしいのですじゃ」
「大根おじじ?」と、首をかしげるオンとナノコに、大根おじじは優しく言う。
村長(むらおさ)などと偉そうにしてはおりますが、この老いぼれにできるのは、守り神さまの身を案じることくらい。ときに危険な戦いに身を投じる守り神さまのことを、わしは……いや上雲津の九十九神は皆、ただただ心配しておるだけなのですじゃ」
 顔をくしゃっとさせて笑う大根おじじ。
「守り神さまが潤殿を大好きなように、わしら上雲津の九十九神も、守り神さまのことが大好きなのですから」
 そんな大好きな守り神が、戦いで傷つく姿は見たくない。
 大根おじじが言ってるのはそういうことだ。そしてそれは潤だって同じ。脳裏をよぎったのは肖像蛾との戦いだ。
 潤がはじめて見たオンナノコの戦い。それは命のやりとりに近い過酷なものだった。彼女は怪我を負い、ピンチに陥りもした。この先もそんな危機が訪れるかもしれない。いや守り神である以上きっと訪れる。ふたりに分裂していることで、なおさらその可能性は高まるだろう。
 そうなったとき、オンナノコのそばにいる名授は強いほうがいいに決まっている。考えるまでもなく、答えは明白だ。
〝大切なものを守れるくらい、男らしく、強く生きていけ〟――。
 亡き父の言葉を胸中で呟き、大切なものを守るとはこういうことなんだ、と自身に言い聞かせた。
「オン、ナノコ」
 潤は腹を決めて立ち上がった。皆の視線が一斉に集まる。オンとナノコの顔は不安気だ。一瞬躊躇したが、潤は拳を握ってその迷いを振り切った。
 そう、これが、〝男らしく〟ふたりを守るための、いちばんの選択だ。
「――離婚してくれ」
 潤が告げた瞬間、オンとナノコは凍りついた。見開いた目は焦点が合わずに虚ろなガラス玉みたいになり、顔はみるみる青ざめていく。凍りついた心が、さらにひび割れていく音が聞こえてきそうだった。
「……じゅ……ん……」
 オンの声が震える。
「……冗談は……や、やめて……ほしいのです」
 ナノコは届く距離ではないのに、潤のほうへ弱々しく手を伸ばした。その痛々しい姿を視界から外して、潤は頭を横に振った。
「俺は名授をやめる。言霊夫婦を……守り神の夫をやめる」
 胸が張り裂けそうになったが、むりやり笑顔を浮かべた。
「なにを期待したか知らないが、守り神と結婚できる器じゃないしな、俺」
 自分の吐き出す言葉が耳障りだ。錆びついた刃となって自分を鈍く斬っていく。それでも潤は続けた。
「それにやっぱ、オンナノコとは友達で、幼なじみで。でもそれだけだ。恋愛感情とかそういうのは、悪いけど……――ない」
「潤、なにを……」
「……言ってるのですか、潤」
 ふたりのすがる目に耐えられず、潤は強い口調でもう一度言った。
「だから離婚だって言ってんだろ。ここでおしまい。もういいじゃないか」
 とたんにオンとナノコの表情はゆがみ、大粒の涙が頬を伝った。あふれる涙は細い顎の先で雫となり、畳にぽたぽた落ちる。ハの字になった眉。落ちた肩。そして、
「わああああ、あああ、あああ~っ」
 ふたりは大声でわんわん泣き出した。目元に両手を当て、涙をとめどなく流し、口を開けて泣き続ける。泣き声とともに「やだ! やだ~!」と叫び、幼児が駄々をこねるように頭を振り回す。激しい慟哭が叩きつけられる。
 ふたりの様子に潤は動転した。今までオンもナノコも、どこか守り神としての風格や余裕を自然とにじませていたのだが、今はそれがあとかたもなく消えていた。そんな、ただか弱い姿に唖然とし、足がよろめき、後方へあとずさった。泣き叫ぶオンとナノコから少しでも離れないと、その涙に溺れてしまう錯覚を覚えた。
 自分は間違っていない。オンとナノコを危機から少しでも遠ざけるため、彼女たちを守るため、最善の選択をしたはずだ。
 なのに、正体を失って泣き続けるふたりを見ていると、どうしようもない罪悪感が迫ってくる。頭の中がぐちゃぐちゃになり、気持ちが悪くなる。
 ここにいちゃ……いけない。
 ふたりから視線を引き剥がし、足早に障子戸へ向かった。急いでそれを開けると、廊下へ飛び出した。脇目も振らず玄関へ。
 オンとナノコに名を呼ばれた気がしたが、振り返ることすらできなかった。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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