文字数 6,977文字

        一

 そして決戦の日。
 抜けるような青空の下。名授(めいじゅ)申し合いの舞台となる大根おじじの屋敷は、異様な熱気に包まれていた。
 広々とした日本庭園には上雲津(かみくもつ)中の九十九(つくも)(がみ)がひしめき合い、中央にぽっかり開いたスペースを囲んでいる。庭内に収まらないものたちは、垣根の上や背丈のある九十九神の頭や肩に乗って開始を待ち、屋敷の中や屋根の上からも、多くの視線が庭へ注がれている。
 その庭の中央で、(じゅん)(ささ)は五、六メートルほどの距離を開け、対峙していた。
 不敵な笑みを浮かべ、悠然とたたずむ笹は黒パーカとカーゴパンツ姿。対する潤は白のカジュアルシャツにジーンズといったいでたちだ。試合の審判よろしく大根おじじが両者の間に立ち、その隣で空色和服姿のオンとナノコが熱っぽいまなざしを潤に向けている。
「それでは」
 大根おじじが厳かに口を開く。周囲の喧騒がやみ、静寂が緊張感へ変わっていく。オンとナノコは手をつなぎ、もう片方の手を心を落ち着かせるように各々の胸に置いた。
 潤は彼女たちの視線を感じつつ、深呼吸をした。
「とこしえなる上雲津のならわしに(のっと)り、これより綾乃瀬(あやのせ)(ささ)殿、古賀崎(こがさき)(じゅん)殿による名授申し合いを開始いたします。準備はよろしいですかな、おふた方?」
 うなずく潤と笹。ふたりの前には紅い敷布が掛かった平面台が置かれ、その上には生み名の対象物がすでに用意されている。
 潤はそれをひとつひとつ確認した。三点の対象物は姿見、ペルシャ絨毯、そして水槽に入れられた小さなシマヘビ。笹の前にも同様のものがそろっている。
「どの対象物から生み名をつけるかは、ご自由になさって結構ですじゃ。さて、先手はいかがいたしましょう?」
 笹が嘲笑で答える。
「えこひいきのヘタレ野郎、てめえが決めな。先も(あと)も関係ねえほど、実力差があるんだ。それをここにいる全員にわからしてやろうぜ」
 内心ムッとしたが、潤はそれをやり過ごした。挑発に乗っていたら、生み名を付ける際の集中力に影響が出かねない。潤は努めて冷静に、先攻を選択した。先に生み名を成功させて、少しでも笹にプレッシャーをかける算段だ。
「では古賀崎潤殿、名授申し合い、初手を」
 潤は少し迷ったが、まずは姿見を選んだ。昨日の自宅での修行で、生物への生み名は一度もしていなかったので、勝手がわからない。蛇は最後にすると決めた。
 潤はオンとナノコをちらりと窺った。目顔で励ましてくるふたり。〝頑張って〟と彼女たちの心の声を感じるし、〝わらわの愛する夫さまは無敵だぞ〟と、オンナノコの声も聞こえた気がした。潤は奮い立ち、姿見に目を向けた。
 潤の背丈と同じくらいの姿見だ。周縁には植物の蔓と蕾を模した飾りが精巧に施されている。
 潤はゆっくりとそれに両手をかざした。自分の緊張した顔が鏡面に映っている。
 さあ、やってやろう。
 おもむろに口を開いた。
「――この世に、ただひとつ、おまえだけの、愛の名を」
 無数の文字が思い浮かぶ。それらは幾通りもの組み合わせを経て、淘汰されていく。
「生まれてこい、九十九神」
 感性が名前のしっぽをつかむ。集中力で引き寄せる。探し当てた名が姿見と共鳴し、潤を刺激した。これだ。鏡にふさわしい名はこれしかない。
「おまえの名は――」
 理屈じゃない。根拠もない。強いて言うなら直感。だが潤は確信を持って声を上げた。
「〝鏡子は二十歳(はたち)と四か月〟!」
 観衆の九十九神たちがざわめいた。「なぜ二十歳?」「なぜ四か月?」「そもそも名前として変じゃね?」といった声が盛んに飛んで、変な空気になった。
 そんな中、潤の手の先に【愛】の光文字が出現した。大きさは指の先くらい。〝(まな)〟の具現化に、潤はひとまずほっとする。しかし問題は、それが生み名に確固たる力を与えてくれるか否かだ。
 淡く光る【愛】は、続けてふたつ現れ、雪のように鏡面に落ちた。姿見はいささか頼りない光に包まれ、輪郭を変化させる。
 潤は瞬きもせず、一心にそれに注目する。
 成功してくれ。胸中で強く祈った直後、姿見は新たな生を受け、九十九神としての形を存在させた。
「お初にお目にかかりやんす。キョウコワハタチトヨンカゲツでありんす」
 女性体の九十九神だった。背丈は元の姿見の半分ほど。一糸まとわぬ姿で、顔も身体も四肢も全身が鏡面だ。まるで精緻なクリスタル像。それでいて非常に肉感的な裸体が、陽光を反射してギラギラと輝き続ける。
「あふん、あちきの美貌は罪でありんす。皆に視姦されてもしかたないでありんす」
 惜しげもなく裸体をさらすキョウコワハタチトヨンカゲツ。潤は眩しさに目を細めつつ、彼女の神数(かみかず)を確認する。その頭上に浮かびあがった数字は……――【十六】。
「よしっ」と、潤は思わず拳を握った。観衆の九十九神から拍手や口笛が飛ぶ中、驚きと興奮とうれしさが脳内で弾けた。昨日の修行結果を大幅更新。潤にとって初の神数二桁の九十九神の誕生だった。
「本番に強い夫くん、超かっこいい!」
「やっぱり夫さんはヒーローなのです! わたくしたちの王子様なのです!」
 手を取り合って喜ぶオンとナノコ。想像以上の好結果に、潤の顔にも笑みがこぼれた。
 しかしそんな三人をよそに、
「――我、いだきし、こはき宿望(しゅくぼう)天照(あまて)(こと)()にて、〝(まな)〟のしるしとせむ」
 笹がさっそく生み名の試技に入った。潤の結果に動揺したそぶりもなく、冷静なまなざしを姿見に向け、そこに小さな掌をかざしている。
九十九(つくも)(ことわり)綿々と、(つち)にまざりて、かの生みし名に御霊(みたま)を降ろしたてまつらん」
 笹はゆっくりと息を吐き「汝の名は――」
 それから顔に喜悦の色をにじませた。
「〝御伽鏡(おとぎかがみ)〟」
 笹の手の下の空間に【愛】の字が生じた。その数は鶏卵サイズが十個ほど。安定した輝きを保持した光は、先程潤が出した【愛】より明るい。観衆から感嘆のため息がもれた。
 笹の【愛】は鏡面と溶け合い、姿見全体が光を放ちはじめた。みるみるうちにそれは光の塊となり、脈動する。しだいに光の塊は姿かたちを整え、やがて九十九神となった。
「おとぎの国からごきげんよう。九十九神、オトギカガミですわ」
 見た目は元の姿見とあまり変わらない。ただ周縁の飾りが寄せ集まって束となり、二本の足のように地を踏みしめている。大きな変化は鏡面の中だ。そこには豪奢なドレス姿の少女が映っていた。サファイアのような瞳に、煌めくブロンド。あどけない中に気品を備えた顔立ちは、姫と呼ぶにふさわしい。背景には草原にそびえる洋城。そして少女の肩の上には、半透明の翅を持つ小人妖精が浮かんでいた。
 まるで中世ヨーロッパを舞台にしたおとぎ話のワンシーンだ。
「この子はフィツ。みなさん、よろしくですわ」
 姫は妖精を紹介し、鏡の中から観衆に手を振った。その可憐さに客の九十九神たちも魅入られ、手を振りかえす。
 それを尻目に、潤は緊張気味にオトギカガミの神数を確認し――【十九】――唇を噛んだ。
「ざまあみろ、古賀崎潤」
 潤は悔しさをあらわに舌打ちをした。これで笹に勝つには、神数で二十を超えなくてはならなくなった。
 いや、大丈夫……いける。絶対負けねえ。
 胸中で自分に言い聞かせ、頬をぱんっと叩いた。落ち着け。集中しろ。
 気合を入れなおす。チャンスはあと二回。二回もあるのだ。昨日の実践練習のおかげか、潤の初手だって悪くなかった。というより著しい進歩だ。へこたれる必要はない。
 潤は心配顔のオンとナノコに笑顔で応え、
「次、やります」
 今度はおもむろに絨毯に手をかざした。それは二畳ほどのペルシャ絨毯だ。毛足はふわりと長く、赤を基調にしながら金色の幾何学模様が全体に織り込まれた華美なつくり。
 あるはず、見つけられるはず、最高の名を。
「――この世に、ただひとつ、おまえだけの、愛の名を」
 絨毯から浮かぶイメージに言葉を重ね、削ぎ、厳選していく。精神を集中し、感性を総動員させれば、意識の深層から合致する名前がゆらゆらと立ち昇ってくる。
 潤の額からひとすじの汗が零れ落ちた。
「生まれてこい、九十九神」
 選んだ名が、神秘の宝石のように輝きだす。
「おまえの名は……――〝ペルタン〟!」
 観衆がどよめいた。「まさか!?」「ペルシャ絨毯を略した!?」「え、それだけ!?」などと声が飛ぶ中、潤の手の先に【愛】の光文字が出現した。豆電球ほどの大きさと明るさの【愛】。その数は、笹の一回目の試技に勝るとも劣らない。
 勝てる。今度こそ勝てるぞ。これほどペルシャ絨毯にふさわしい名が他にあるか? いやない!
 潤は手応えを感じ、【愛】が溶けて発光をはじめた絨毯を注視した。
 パッタン、パッタン。
 不意に光の絨毯は、折り紙のように折られていった。透明な手につままれ、動かせられているかのように、絨毯は右から左から、上から下から丁寧に折られ、瞬く間に原型をなくした。
 パッタン、パッタン。
 さらに複雑に、幾重にも山折り谷折りされる絨毯。しだいにそれは新たな形をなし、全体を覆っていた光も収まった。九十九神の誕生だ。
「どもども、わてペルタンや」
 それは折り紙ではポピュラーな三角(さんかく)(かぶと)だった。元のペルシャ絨毯で折られた兜は、人間の子なら全身が収まるくらい大きい。兜の中央にはふたつの細い瞳が瞬きしている。
「わてのかぶり心地は最高でっせ。どや、ひとかぶり一万ぽっきりや」
「ぼったくりだな!」と、ヤジが飛ぶ観客席に向かって値段交渉をはじめるペルタン。潤は生唾を飲み込み、ペルタンの頭上に目を凝らした。
 神数――【十八】。
 潤は天を仰いだ。オンとナノコが「そんな……」と、顔を曇らせる。
 キョウコワハタチトヨンカゲツより神数は高い。が、笹のオトギカガミには及ばなかった。手応えがあったぶん、落胆が大きい。右肩上がりで神数の高い九十九神を生みだしてはいるのに、どうしても笹に届かない。
 試技は残り一回。潤の頭にはじめて敗北の文字がよぎり、身体がかすかに震えた。しっかりしろと、己の拳で胸を叩く潤。
 だがそんな潤に追い討ちを掛けるように、笹が鋭く言い放った。
「古賀崎潤、クズで無能で臆病な下衆野郎。てめえはなにもできない。なにも手に入れられない。自分が無力な負け犬だってこと、今ここで思い知るがいいぜ」
 笹は潤同様、二回目の試技にペルシャ絨毯を選択し、悠然と手をかざした。
「――我、いだきし、こはき宿望(しゅくぼう)天照(あまて)(こと)()にて、〝(まな)〟のしるしとせむ」
 普段とは裏腹な、まろやかで上品な口調。綺麗な声質と相まって、詩的に紡がれる言葉の旋律は清涼感を帯び、聞く者を魅了する。
九十九(つくも)(ことわり)綿々と、(つち)にまざりて、かの生みし名に御霊(みたま)を降ろしたてまつらん」
 笹は顔をほのかに上気させ、やがて陶然と笑った。
「汝の名は――〝火焔褥(かえんしとね)〟」
 笹の手の先から【愛】の字があふれた。その数は十を超え、光度は強くないが、拳大の【愛】がいくつかある。笹の【愛】は虚空で交錯しながら落ち、絨毯と溶け合った。
 潤はつい願ってしまう。失敗してくれ、九十九神が生まれないでくれ、と。
 しかしそんな勝手で、うしろ向きな願いなど、叶えられるはずもない。やがて潤をあざ笑うかのように、笹によって生を受けた九十九神が姿を現した。
「メラメラッボーッ!」
 それは炎に包まれた絨毯だ。元のペルシャ絨毯と形も大きさも変わらない。しかし全体にオレンジ色の炎が走り、そのまま魔法の絨毯のように浮遊した。
「たぎれたぎれたぎれー!――俺がカエンシトネだっ、メラメラッボーッ!」
 見た目にふさわしく、熱い印象を受ける声が名乗った。よく見ると、絨毯の上には三十センチほどの人型の炎が胡坐をかいて鎮座している。火炎の濃淡でぼんやりと顔まで描かれ、声はそこから聞こえてくる。
「情熱マグマでメラメラッボーッ! さあ皆、夕陽に向かって走れっ、なに夕陽がでてない!? ばっかもーん! 走り続けりゃいつかは夕陽! 付いてこいやメラメラッボーッ!」
 今にもどこかに飛んでいきそうな九十九神の神数を、潤は嫌な予感とともに確認した。
!?
 そして衝撃を受けた。
【三十一】。そこには潤が目を覆いたくなるほどの数値が、信じがたい神数が、残酷なくらいはっきりと明示されていた。
 嘘だろ……そんなの。
 あまりのショックに潤の足はふらついた。冷たい汗が背中を伝った。カエンシトネの炎が、潤に残っていた勝利への自信と渇望を無残に焼き払っていく。
「へっ、ど、どうだ古賀崎潤。古賀崎家のヤツなんかに、綾乃瀬家の僕は絶対負けねえんだ……」
 高度な生み名を成功させた笹は、さすがに心身ともに疲弊した様子だ。肩で息をしつつ、その場に膝をついた。しかし表情は満足気で「やった……やったぞ」と、喜びに打ち震えている。
 対照的に、潤は暗い顔で呆然としていた。自分はまだ神数が二十にも届いていない。それなのに残り一回の試技で、二十どころか三十一を超えなくてはならなくなった。いや笹のことだ。三回目の試技は、さらに高い神数の九十九神を生むかもしれない。
 じゃあ俺は三十五? 四十? 五十? もっと出さないと勝てないのか?
 途方もなくてめまいがした。オンやナノコに絶対に勝つと告げた自分の言葉が、白々しく思い出された。また彼女たちを裏切るのか? 傷つけ、悲しませるのか?
 俺は……俺は……オンナノコを…………――失う?
 とたんに息苦しくなり、激しい動悸に襲われた。喪失への不安と恐怖に全身が強張り、それに抗おうとすると膝が震えた。掌は汗でびっしょりだ。
 気をしっかり持て、まだ勝負は終わっていない、最後まで戦うんだ、絶対に勝つんだ――〝自分らしく〟。
 必死に気持ちを落ち着かせ、自らを鼓舞する。が、どうしようもなく焦燥が胸を焦がし、弱気がひたひたと忍び寄ってくる。手足の先が冷え、視界がかすみ、景色が遠のく感覚。周囲から自分だけが取り残されていくみたいでぞっとした。心の拠り所となっていた〝自分らしく〟もあっさりかき消され、(から)っぽになったみたいに力が抜けていった。
 そのとき、
「夫くん!」
「夫さん!」
 オンとナノコの声に、潤は我に帰った。かすんでいた視界にふたりの顔が映り、ようやく焦点が合う。いつの間にかオンとナノコは潤のそばで、両側からその身体を支えてくれていた。添えられたふたりの手の温もりが、潤にしみてくる。
「守り神さま、まだ申し合いの最中ですぞ。どちらかに肩入れするような真似は自重してくだされ」
 大根おじじがオンとナノコをたしなめる。しかしふたりは首を横に振った。潤を支えながらかばい立ち、強い意志を宿したまなざしを大根おじじに、いや、そこにある世界すべてに向けて、高らかに告げた。
「あたしは」「わたくしは」
「このひとの妻だから!」
 鮮烈に響き渡るふたりの宣言は、まるで宣戦布告だ。力強くも、悲壮感がにじむ。けれどふたりの気迫に圧倒され、場は水を打ったように静まり返った。そしてその静寂が、潤に自分を取り戻させてくれた。
 ああ、そっか……。
 オンとナノコを間近で感じ、思い出す。ひとりではない。そんな当たり前のことを。
 自分のそばには上雲津を守る少女がいる。迷いや弱さを秘めながらも、それ以上の強さと優しさを備えた守り神がいてくれる。
 オンとナノコ――オンナノコ。
 大切な友達で、そしてかけがえのない、言霊(ことだま)夫婦(めおと)の……妻。
〝夫さま、わらわたちの絆は、どんな困難にも負けないのだぞ〟
 どこからかオンナノコの声が聞こえた気がした。ああそうだとうなずいた潤は、そこではじめてわかった。気がついた。大切なものを全力で愛し、守るオンナノコ。そんな彼女みたいに自分は強くなりたいのだ、と。
 だから望んだのだ。目標となる彼女のそばにいて、自分を成長させていくことを。
 それが古賀崎潤が目指す〝自分らしく〟。その最初の一歩だ。
 潤はようやく〝自分らしく〟といううわべの言葉だけではなく、いずれ言霊の土台となるはずの、想いの伴った本当の〝自分らしく〟を求め、積み重ねはじめた。
 潤は奥歯を噛み締め、胸を張った。膝の震えが治まり、息苦しさはなくなっていた。金縛りのような緊張も薄れ、力がわいてくる。
 しゃきっとしろ。いつまでダサい姿をさらすつもりだ? このままじゃ守り神に笑われる……いや、こんな情けない夫を持った守り神が笑われてしまう。それだけは嫌だ。
 潤は気合いもろとも声を発した。
「――最後の生み名、はじめます!」
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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