文字数 4,970文字

        三

 オンに連れて来られたのは、中等部一階にある図書室だった。すでに各クラスでホームルームがはじまっているせいか、教師や生徒の姿はない。
 一般教室の三倍ほどはある広い室内に書架が並び、中央には長机が数脚ある。書架には文芸書や事典が種類別に収納され、奥につれて大型の美術資料集や郷土史が目立つ。
 古い紙の匂いと若干のかび臭さ。静謐な空気感。本を取る際に使うのか、脚立や踏み台が置かれた室内の最奥はほの暗く、書架の陰にもなったその床に図書室(としょしつ)男爵(だんしゃく)は横たわっていた。
「寿命……なんだ」
 沈痛なオンの言葉に、(じゅん)は息を呑んだ。教室に飛び込んできたオンの様子に、ただ事ではないとは感じていた。が、そこまで深刻なことだとは思わなかった。
 潤は立ったまま、図書室男爵を見下ろした。
 背丈は成人男性と同じくらい。手足は無数の本の連なりでできており、焦げ茶色の胴体は木目が渋い本棚だ。本棚胴体にもびっしりと本が収まっているが、そのほとんどが古びて変色している。頭部は百科事典を思わせる分厚い書物。それが正面に向けて開かれ、紙面には丸い鼻眼鏡と、垂れた口髭が描かれている。
「夫さん……」
 ナノコは図書室男爵の傍らに座り、その手を握っていた。
九十九(つくも)(がみ)も年を取るのです。その寿命はひとよりはるかに長いのですが、こうして死は等しく訪れ、九十九神も消えていくのです」
 不意に図書室男爵が低く唸った。「悔いは……ない」
 図書室男爵の口ひげが揺れ、か細く、しわがれた声がもれる。
「ノブレス……オブリージュ――貴族の義務に尽くし……爵位に恥じぬ人生を……まっとうできたのだ」
 ひゅうっと息を吐き、苦しげに咳き込む図書室男爵。本棚胴体の本がカサカサ動き、そこから埃が舞った。潤はたまらず声を上げた。
「助ける方法はないのか?」
 面識のない九十九神の死。だが潤の胸は張り裂けそうになった。六年前の父の死が脳裏をよぎり、あの哀しみが、心を喰いちぎられる痛みがよみがえった。臨終に立ち会うのはそのとき以来。思いのほか激しく動揺してしまう。
 オンはけれど、頭を横に振った。
「あたしだってどうにかしたい。つらいよ。けど夫くん、これは寿命だから。助けることはできないんだ。でも……でもね」
 オンは潤んだ目で、潤を見つめた。「夫くんがいれば転生できるかもなんだ」
「転生?」
 眉をひそめた潤に、ナノコが答える。
「寿命が尽きる前に、名授さんに〝()()〟をつけてもらえれば、〝(まな)〟の力によって九十九神は、新たな九十九神に転生できるのです」
 その場合、旧九十九神の性質と記憶が受け継がれるという。図書室男爵は亡くなるが、その経験と意識を宿した新九十九神が生まれるのだ。
「俺が図書室男爵に新しい名を……その継ぎ名ってのをつければいいのか?」
「はい。図書室男爵さんの来世への架け橋となる素敵な名をお願いしたいのです。きっと夫さんの言霊の力が、死を超えて図書室男爵さんの魂を導くのです」
 潤は不安を覚えた。自分にできるのか? オンナノコをオンとナノコに分裂させ、元に戻すことができないでいるこの俺に。
 正直、自信が持てない。だが図書室男爵の手足を構成している書物が一冊、また一冊と、徐々に形を崩して塵となっていくのを見て腹を決めた。ためらっている場合ではない。やらなければ、図書室男爵は転生できずに永遠の死を迎えてしまう。
 潤は図書室男爵のそばにしゃがみ、ナノコに倣って男爵の手を握った。
「夫さんの感じるままに。素直な想いが〝(まな)〟と呼応し、言霊(ことだま)になると思うのです」
 潤の緊張をほぐすようにナノコは笑いかけ、オンは「あたしらの夫くんなら大丈夫。リラックス、リラ~ックス」と、潤の肩を両手でポンポンっと叩いてくれた。
 潤はうなずき、集中するために目を閉じる。名を考える。
 継ぎ名……来世への架け橋となる名? 皆目(かいもく)見当がつかない。それでも必死に名を探す。頭に浮かぶ五十音。それらを幾通りも組み合わせ、自分の直感を信じてそこに響きあう名を模索していく。砂の中から一粒の砂金を見出すように。
 だが大量の砂が思考の指先から零れていくばかりで、直感の輝きと結びつくものが現れない。これでもない。あれでもない。閃かず、思考が空回る。ああ、早くしないと図書室男爵が死んでしまう。
 考えろ。感じろ。図書室男爵を転生させたい。その想いを届かせろ。
 図書室男爵が苦悶する。短い悲鳴を上げると、潤が握っていた図書室男爵の手が散り散りになった。潤は息を呑み、焦燥がピークに達したときだった。
!?
 追い詰められて奇跡が起きたのか。脳内にひしめき、直感を窒息させていた無数の名が一瞬で絞り込まれた。マジシャンが客の選んだカードを引き当てた瞬間にも似た、明快で確信に満ちた選択だ。
 本と関係の深い九十九神の名……――うん、これしかない!
 その名は潤の中で自己主張し、膨張し、ついには頭から口にストンッと落ちて言葉になった。潤はかっと目を見開き、迷うことなく言い放つ。
「〝ホンマにホンキやホンジュラス〟!」
 潤の声は生き生きと響いた。言葉はラテンのリズムで踊り、愛の讃歌を奏で、新たな名を言祝(ことほ)ぐ教会の鐘が鳴った。潤は自分の声が厳かな力を得た気がした。それが継ぎ名の成功の証だと信じて疑わず、一世一代の大仕事を成し遂げた充実感に打ち震えた。が、
「……」
 その場の空気は固まっていた。凍りつき、冷え冷えとしていた。
 オンは変なものを食べたような顔をしているし、ナノコは引きつった笑顔で絶句。そして肝心の図書室男爵は、
「さらば、わが人生っ」
 全身が痙攣していた。胴体の本棚に収まっている本も塵となっていく。とても転生するようには見えず、潤はうろたえた。あんなにも素晴らしい名を付けたのに。
「な、なんでだよ? 継ぎ名をつけたら転生するんじゃないのか?」
 オンとナノコが言いにくそうに目を泳がせる。
「突然の関西弁に戸惑ったのかも」
「そして〝ホンジュラス〟……図書室男爵さん、行ったことあるのでしょうか?」
「ない!」と、悲鳴を上げる男爵。
 ようやく潤も継ぎ名の失敗を悟り、血の気が引いた。成功を信じていただけにショックが大きいが、今はそれどころではない。
「別の名……今すぐ別の継ぎ名をつけるから」
 身体を崩壊させていく図書室男爵に焦りつつ、潤はもう一度継ぎ名を考えようとした。
「邪魔だ、くそ野郎!」
 不意に背後で声がした。粗野な口ぶりだが、玉を転がすような声質。振り返ると、そこには小柄で童顔、しかし鋭いまなざしの男子生徒が立っていた。先程教室で、なぜか潤を揶揄し、敵視していた綾乃瀬(あやのせ)(ささ)だ。
「無能のクズは引っ込んでろ」
 笹は驚く潤を乱暴に押しのけ、図書室男爵の傍らにひざまずいた。
「夫くん、この子誰?」
「わたくしたちが見えているようですが?」
 笹の登場にオンとナノコも面食らっている。潤もわけがわからない。九十九神は常人には見えないはずなのに、笹は切迫した表情を図書室男爵に向け、両手をかざしている。
 なんで笹が?……どうして笹に九十九神が見えてんだ?
 呆気にとられる潤たちの前で、笹は大きく息を吸った。潤に対して攻撃的だった瞳に、落ち着き払った怜悧な光が灯る。長い睫を揺らした瞬きは、なにかの儀式のようにゆっくり二回。その横顔に無垢なる美しさが差す。
「――我、いだきし、こはき宿望、天照(あまて)(こと)()にて〝(まな)〟のしるしとせむ」
 祝詞のように、笹は言葉を紡いだ。誰に聞かせるでもなく、しかしこの場のすべてに贈る真摯な調べ。それは静寂な図書室に、透明な音の波紋となって響き渡る。
九十九(つくも)(ことわり)綿々と、(つち)にまざりて、かの継ぎし名に御霊(みたま)を降ろしたてまつらん」
 笹はいったん言葉を切り、息を吸った。そよ風みたいな音がした。その間ほんの二、三秒。しかしそれは大いなる一瞬となり、時の流れに刻まれる。
(なんじ)の名は――」
 笹の瞳に、意志の発露がきらめく。
「〝永劫(えいごう)知識(ちしき)〟」
 その瞬間、かざした笹の手から、純白の【愛】の立体文字がぽろぽろと零れ落ちた。それはオンナノコが分裂した際、彼女を覆った光の空間文字と同一だ。森羅万象に影響を与える神気――〝(まな)〟。笹が生み出したものはずいぶん小ぶりで、数も十に満たない。けれど健気な美しさを放っている。
【愛】の光文字は男爵の身体に触れると瞬時に溶け、ほのかな光の粒となって染み渡っていく。その輝きは儚い。しかしすべての【愛】の字が図書室男爵と同化すると、それが血肉となったかのように、男爵の全身が発光をはじめた。
 それを見たオンがポツリと呟く。
「継ぎ名が……成功したっぽい」
 ナノコがうなずく。「転生するのです」
 図書室男爵の頭部の書物がめくれだした。風にあおられたみたいに勢いよく。それが一瞬ピタリと止まると、そのページには黒色明朝体【永】の字が。再びページがめくられ、つぎに止まったところには【劫】。続いて【知】、【識】と繰り返し、五度目に静止すると、そこには凛々しい眉と利発そうな瞳。そして大きなカイゼル髭が描かれていた。
 と同時に、本棚胴体の蔵書が一斉に飛び出した。古びた無数の本はすぐに空中で消失。入れ替わりに新たな本が本棚胴体内に出現し、隙間なく収まった。それはすべて新品みたいに美麗な書籍だ。気がつけば男爵の手足も新品本の束に変化していた。すでにその全身を覆っていた光は消え、潤たちの前には男爵にそっくりな、しかし全身から英気をほとばしらせた九十九神が横たわっている。
 これが転生?
 潤がまじまじと見つめる中、元図書室男爵がむっくりと起き上がった。若々しいまなざしで皆を見渡し、それから恭しく(こうべ)を垂れた。紙とインクの匂いがする。
「図書室男爵改め、エイゴウチシキでございます」
 ああ、転生は成功したんだ……。
 潤は安堵のあまりその場にぺたりと腰をついた。笹はそんな潤に侮蔑の視線を向け「みっともねえな、愚鈍野郎」と、嘲笑する。オンとナノコが明らかにムッとした表情を浮かべたが、笹はかまわず潤を罵った。
「クズで能無しのてめえでも今のでわかったろ? 自分がどれだけ役立たずで必要ねえかを。てめえなんかより僕のほうが何百倍も――」
「ありがとうな、笹」
 潤は素直に礼を言った。目の前で命が潰えず、新たな命に継承されたことが心底うれしかった。己の無力さ、不甲斐なさなんて二の次だ。もし図書室男爵があのまま消えていたらと思うと、ぞっとする。どれほどの悲しみと罪悪感に苛まれたかわからない。
 だからそれを救ってくれた笹には、感謝してもし足りなかった。
 しかし礼を言ったことが気に障ったのか、笹は童顔をゆがめて潤を睨みつけた。「馴れ馴れしく名前を呼んでんじゃねえっ」
「あ、ああ、悪い」
 名前を呼んだのは、〝笹〟という名のほうが苗字より印象に残っていたからで他意はない。ていうか、苗字なんだったっけ?
 頭を捻る潤に、笹は声を荒げた。
「吐き気がするな。てめえみてえなえこひいき野郎と話してると」
「えこひいき?」
 たしか教室でも笹は潤のことをそう言っていた。しかし潤には心当たりがない。怪訝顔で首をかしげる潤に笹はさらに憤慨し、親の仇を見るような形相で言い放った。
上雲津(かみくもつ)名授(めいじゅ)古賀崎(こがさき)(じゅん)! てめえに宣戦布告だ!」
 名授のことまでも知っている笹に、潤はもちろんオンとナノコも目を丸くし、エイゴウチシキは興味深げに髭をひくひく動かした。
「僕は言霊(ことだま)夫婦(めおと)の子孫――綾乃瀬(あやのせ)(ささ)!」
 言霊夫婦の……子孫!?
「てめえみてえなうすのろ無力野郎は必要ねえ! てめえと守り神を離婚させ、僕が守り神と再婚する!」
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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