二
文字数 3,500文字
二
間もなく電車は上雲津 駅に到着した。
おととしようやく自動になったという改札を抜け、千鶴 と潤 は駅前のバス停に立った。ここから市営バスに乗って、七年前まで住んでいた家へ向かう。ふたりは再びそこで暮らすことになる。
上雲津駅前はロータリーになっていて、周りには二階建てのデパート、図書館、ファミレス、ハンバーガーショップ、書店、フラワーショップなどがあった。ロータリーの先には四車線の車道と、そこから少し逸れて『かみくもつ商店街』という看板を掲げた通りが伸びている。バス停から見る限り、食料品店や雑貨屋、小さな映画館も確認でき、人通りも結構ある。ここだけ見れば、たしかに〝町〟といった雰囲気だ。
「この駅前、昔と比べるとずいぶんにぎやかになったわね」
バスを待ちつつ、千鶴は感慨深げに言った。
潤は「あぁ」と生返事をした。目の前の光景を見てはいるが、頭はべつのことを考えている。いや考えてるというより、あることが脳裏にこびりついて閉口してると言ったほうが正しい。
あの和服少女のことだ。あれは見間違いということで納得したはずなのに、執拗に彼女の姿がよみがえる。心に引っ掛かり、胸を騒がせ、ときに締めつける。
あの笑顔……。
墨色の瞳をきらめかせ、歓喜を爆発させた笑顔がとても懐かしく思えてしかたなかった。と同時に、以前上雲津に暮らしていた頃の、幼い自分の目線から見た景色がぼんやりと浮かびかけ、けれど過ぎた年月の重さに沈んでいく。その繰り返し。もどかしくてしかたない。
どこかで会ったことがあるような……。
すぐに頭を横に振った。
真面目に考えてどうする? あれはただの見間違いだ。目の錯覚だ。あるいは幻覚の類。あんな異常な身体能力を持った人間が、実際にいるわけがない。いたら世界的大事件だ。
あらためてそう結論づけ、何気なく遠くに視線を向けた。ロータリーから伸びる四車線の車道――駅前通りを、車が行き交っている。都会とは違って、走行する自動車ものんびりしているように見えた。
「……ん?」
その光景に一点、違和感を覚え、潤は目を凝らした。数百メートル先だ。最初は大型のバイクかと思ったが、それよりひとまわり大きく、高さもある。シルエットもおかしい。丸い車輪は見当たらず、代わりに四本の棒のようなものが、物体の下部でせわしく動いている。それは全体をわずかに上下運動させつつ、車を次々追い越しては駅前へ向かってきていた。
なんだ?
正体が判別できず、妙な不自然さだけが増す中、潤はそれを目で追い続ける。駅前通りから『かみくもつ商店街』の前を横切ったあたりで、ようやくその姿が明確になった。
馬!?
馬だった。しかもただの馬ではない。木彫りだ。滑らかな木目や彫り跡が茶褐色の全身を覆う立体彫りの木馬。顔の造作やたてがみの質感、しっぽなどは思いのほか精緻に彫られ、筋肉の凹凸にはみなぎる躍動感。四本の脚には球体関節が施され、実際の馬と遜色なく動き、通りを滑走している。カツンッ、カツンッと蹄の音を高らかに。
さらに――。
猫もいる!?
木馬の背に猫が乗っていた。猫は木彫りではなく、ふさふさの毛をたくわえた生身の灰色猫だ。大きさは普通の成猫と変わりない。だがしっぽはふたまたにわかれている。しかもその猫、木馬の背に二本足で立って、片手で手綱を引くという猫とは思えない離れ業。ちょっと猫背なのは当然か。よく見れば、頭にミニサイズの烏帽子 をかぶっている。その烏帽子と長いひげ、顎から垂れたひとふさの白い毛が、灰色猫に翁 のような風格を与えていた。
嘘……だろ。
潤は唖然として、うめいた。目をこすって何度も見直してみる。でもその異様な現象は消えない。猫翁 も木馬も現実や常識を軽々と侵食し、支配したかのような存在感だ。それがこっちへやってくる。猫翁が木馬を走らせ、近づいてくる。
圧倒的な非日常を前に、潤の足はあとずさった。傍らの千鶴にドンッとぶつかり、千鶴が「なによお、痛いじゃない」と、口を尖らせる。
「や、やばい……馬だ、猫だ」
「どっちよ?」
猫翁を乗せた木馬は走行車両の間を走り抜け、信号で停車中のワゴン車を颯爽と飛び越え、ついに駅前ロータリーに入ってきた。カツンッ、カツンッ、カツンッ、カツンッと。
「ていうか、猫はともかく、さすがにこんな町中を馬は走らないわよ。あ、バカにしたな? 田舎バッシングか、おい?」
「千鶴、よく見ろ。馬は木馬でその手綱を猫が――」
そこでのんきに構えた千鶴に気づき、潤は言いかけた言葉を呑み込んだ。その様子からして、千鶴が目前の異常に気付いていないことは明白だ。
ああ、まただ、と潤は混乱する。
和服の女の子のときと同じだ。千鶴には、猫翁も走る木馬も見えていない。
潤は駅前の歩行者を確認した。パニックになってもおかしくないのに、誰も動揺したそぶりさえ見せていない。というより木馬に注目すらしていない。気づいている様子がない。木馬が目の前を通っても、すれ違っても皆、無反応だ。
なんだってんだ? 見えてるのは、俺ひとりなのか?
血の気が引いた。これはつまり、自分の精神に異常をきたしたと考えるのが妥当。おかしいのは猫翁を乗せて疾走する木馬ではなく、自分の頭なのだ。
俺の頭、バカになった!?
木馬はロータリーを横断し、駅舎に向かって潤の目前に迫りつつあった。近くで見れば、リアルな存在感が否応なく伝わってくる。とても幻覚とは思えず、それゆえ、自分の精神がかなり重症なのだと痛感せずにはいられない。わきあがる恐怖感は猫翁と木馬へのものなのか、それともおかしくなった自分に対してのものなのか。わからないまま膝が震えだす。
つぎの瞬間、
「にゃっにゃっにゃっー、今日はめでたい披露宴だにゃー」
猫翁が鳴いた。いやしゃべった。呆然とする潤が見つめる先で、猫翁は口をもごもご動かし、人の言葉を響かせる。
「みにゃの者ー、宴に遅れるでにゃいぞー」
老人を思わせるしわがれ声。それを機嫌よさげに言い放ち、猫翁は木馬の手綱をピシッとひとうち。木馬はいななき加速すると、潤の横をあっという間に通り過ぎていった。
「今宵はたらふく飲めるにゃー。飲めや、歌えや、踊らにゃ損損。さあさあ、みにゃの者―、大根おじじの屋敷に今すぐ集合だにゃー」
直後、木馬が跳び上がった。まるで透明な坂を駆け上がるような跳躍だ。木馬は造作もなく駅舎の屋根に着地し、さらに身を躍らせて、そのまま駅向こうへ姿を消した。
「……」
潤は口をポカンッと開けて、駅舎の屋根を見つめた。心も体も驚愕で固まっている。息をするのも忘れ、数秒経ってから、苦しさに咳き込んだ。じとっと汗をかいている。鼓動の音がやけに響く。脳が理解を拒み、今見た光景を記憶の引き出しに収めようとしない。それとともに意識もそこかしこに散らばり、しっちゃかめっちゃかだ。
俺の頭、重症どころか超重症だ。
「マジ、やばい……」
小さくつぶやくと、千鶴が「ん? なに?……ていうか、あんた顔色悪いわね」と、心配の色を浮かべた。潤はとっさに「なんでもない」と、ごまかした。震える手をジーンズのポケットにつっこんで隠し、同じく震えている両足の腿をポケットの中でつねって、しゃんとさせた。
しっかりしねえと。猫を乗せた木馬が走り、その猫は人語を話していた――なんて言えるわけがない。話したら引越し早々病院行きだ。
「ち、千鶴の酒臭さに、こっちが酔いそうなだけだ。ホント、くっさ」
鼻をつまんでそっぽを向くと、千鶴は「くさいとは何事よ。これが大人の、か・お・り」と、潤の頭を羽交い絞めにして息を吹きかけてきた。
「やめろバカ、くっつくな」
本当に酒臭い。しかしその強烈な匂いのおかげか、気持ちは心なしか落ち着いてきた。人語を話す猫も、それを乗せて走る木馬も少しずつ現実味を失っていく。
いやもともと現実だなんて思っちゃいない。思ってはいけない。あれは幻覚。そして幻覚なんてきっと一時的なもの。たとえば一晩ぐっすり寝たら、二度と見ることはない。その程度のもの。ああ、絶対そうに決まっている。頼むからそうであってくれ。
心中で自分に言い聞かせつつ、潤は千鶴を引き離そうともがいた。そのとき、
「――あ、見て、やっと来たわね、バス」
ようやく、クリーム色のバスがゆるゆると駅前ロータリーに姿を見せた。
間もなく電車は
おととしようやく自動になったという改札を抜け、
上雲津駅前はロータリーになっていて、周りには二階建てのデパート、図書館、ファミレス、ハンバーガーショップ、書店、フラワーショップなどがあった。ロータリーの先には四車線の車道と、そこから少し逸れて『かみくもつ商店街』という看板を掲げた通りが伸びている。バス停から見る限り、食料品店や雑貨屋、小さな映画館も確認でき、人通りも結構ある。ここだけ見れば、たしかに〝町〟といった雰囲気だ。
「この駅前、昔と比べるとずいぶんにぎやかになったわね」
バスを待ちつつ、千鶴は感慨深げに言った。
潤は「あぁ」と生返事をした。目の前の光景を見てはいるが、頭はべつのことを考えている。いや考えてるというより、あることが脳裏にこびりついて閉口してると言ったほうが正しい。
あの和服少女のことだ。あれは見間違いということで納得したはずなのに、執拗に彼女の姿がよみがえる。心に引っ掛かり、胸を騒がせ、ときに締めつける。
あの笑顔……。
墨色の瞳をきらめかせ、歓喜を爆発させた笑顔がとても懐かしく思えてしかたなかった。と同時に、以前上雲津に暮らしていた頃の、幼い自分の目線から見た景色がぼんやりと浮かびかけ、けれど過ぎた年月の重さに沈んでいく。その繰り返し。もどかしくてしかたない。
どこかで会ったことがあるような……。
すぐに頭を横に振った。
真面目に考えてどうする? あれはただの見間違いだ。目の錯覚だ。あるいは幻覚の類。あんな異常な身体能力を持った人間が、実際にいるわけがない。いたら世界的大事件だ。
あらためてそう結論づけ、何気なく遠くに視線を向けた。ロータリーから伸びる四車線の車道――駅前通りを、車が行き交っている。都会とは違って、走行する自動車ものんびりしているように見えた。
「……ん?」
その光景に一点、違和感を覚え、潤は目を凝らした。数百メートル先だ。最初は大型のバイクかと思ったが、それよりひとまわり大きく、高さもある。シルエットもおかしい。丸い車輪は見当たらず、代わりに四本の棒のようなものが、物体の下部でせわしく動いている。それは全体をわずかに上下運動させつつ、車を次々追い越しては駅前へ向かってきていた。
なんだ?
正体が判別できず、妙な不自然さだけが増す中、潤はそれを目で追い続ける。駅前通りから『かみくもつ商店街』の前を横切ったあたりで、ようやくその姿が明確になった。
馬!?
馬だった。しかもただの馬ではない。木彫りだ。滑らかな木目や彫り跡が茶褐色の全身を覆う立体彫りの木馬。顔の造作やたてがみの質感、しっぽなどは思いのほか精緻に彫られ、筋肉の凹凸にはみなぎる躍動感。四本の脚には球体関節が施され、実際の馬と遜色なく動き、通りを滑走している。カツンッ、カツンッと蹄の音を高らかに。
さらに――。
猫もいる!?
木馬の背に猫が乗っていた。猫は木彫りではなく、ふさふさの毛をたくわえた生身の灰色猫だ。大きさは普通の成猫と変わりない。だがしっぽはふたまたにわかれている。しかもその猫、木馬の背に二本足で立って、片手で手綱を引くという猫とは思えない離れ業。ちょっと猫背なのは当然か。よく見れば、頭にミニサイズの
嘘……だろ。
潤は唖然として、うめいた。目をこすって何度も見直してみる。でもその異様な現象は消えない。
圧倒的な非日常を前に、潤の足はあとずさった。傍らの千鶴にドンッとぶつかり、千鶴が「なによお、痛いじゃない」と、口を尖らせる。
「や、やばい……馬だ、猫だ」
「どっちよ?」
猫翁を乗せた木馬は走行車両の間を走り抜け、信号で停車中のワゴン車を颯爽と飛び越え、ついに駅前ロータリーに入ってきた。カツンッ、カツンッ、カツンッ、カツンッと。
「ていうか、猫はともかく、さすがにこんな町中を馬は走らないわよ。あ、バカにしたな? 田舎バッシングか、おい?」
「千鶴、よく見ろ。馬は木馬でその手綱を猫が――」
そこでのんきに構えた千鶴に気づき、潤は言いかけた言葉を呑み込んだ。その様子からして、千鶴が目前の異常に気付いていないことは明白だ。
ああ、まただ、と潤は混乱する。
和服の女の子のときと同じだ。千鶴には、猫翁も走る木馬も見えていない。
潤は駅前の歩行者を確認した。パニックになってもおかしくないのに、誰も動揺したそぶりさえ見せていない。というより木馬に注目すらしていない。気づいている様子がない。木馬が目の前を通っても、すれ違っても皆、無反応だ。
なんだってんだ? 見えてるのは、俺ひとりなのか?
血の気が引いた。これはつまり、自分の精神に異常をきたしたと考えるのが妥当。おかしいのは猫翁を乗せて疾走する木馬ではなく、自分の頭なのだ。
俺の頭、バカになった!?
木馬はロータリーを横断し、駅舎に向かって潤の目前に迫りつつあった。近くで見れば、リアルな存在感が否応なく伝わってくる。とても幻覚とは思えず、それゆえ、自分の精神がかなり重症なのだと痛感せずにはいられない。わきあがる恐怖感は猫翁と木馬へのものなのか、それともおかしくなった自分に対してのものなのか。わからないまま膝が震えだす。
つぎの瞬間、
「にゃっにゃっにゃっー、今日はめでたい披露宴だにゃー」
猫翁が鳴いた。いやしゃべった。呆然とする潤が見つめる先で、猫翁は口をもごもご動かし、人の言葉を響かせる。
「みにゃの者ー、宴に遅れるでにゃいぞー」
老人を思わせるしわがれ声。それを機嫌よさげに言い放ち、猫翁は木馬の手綱をピシッとひとうち。木馬はいななき加速すると、潤の横をあっという間に通り過ぎていった。
「今宵はたらふく飲めるにゃー。飲めや、歌えや、踊らにゃ損損。さあさあ、みにゃの者―、大根おじじの屋敷に今すぐ集合だにゃー」
直後、木馬が跳び上がった。まるで透明な坂を駆け上がるような跳躍だ。木馬は造作もなく駅舎の屋根に着地し、さらに身を躍らせて、そのまま駅向こうへ姿を消した。
「……」
潤は口をポカンッと開けて、駅舎の屋根を見つめた。心も体も驚愕で固まっている。息をするのも忘れ、数秒経ってから、苦しさに咳き込んだ。じとっと汗をかいている。鼓動の音がやけに響く。脳が理解を拒み、今見た光景を記憶の引き出しに収めようとしない。それとともに意識もそこかしこに散らばり、しっちゃかめっちゃかだ。
俺の頭、重症どころか超重症だ。
「マジ、やばい……」
小さくつぶやくと、千鶴が「ん? なに?……ていうか、あんた顔色悪いわね」と、心配の色を浮かべた。潤はとっさに「なんでもない」と、ごまかした。震える手をジーンズのポケットにつっこんで隠し、同じく震えている両足の腿をポケットの中でつねって、しゃんとさせた。
しっかりしねえと。猫を乗せた木馬が走り、その猫は人語を話していた――なんて言えるわけがない。話したら引越し早々病院行きだ。
「ち、千鶴の酒臭さに、こっちが酔いそうなだけだ。ホント、くっさ」
鼻をつまんでそっぽを向くと、千鶴は「くさいとは何事よ。これが大人の、か・お・り」と、潤の頭を羽交い絞めにして息を吹きかけてきた。
「やめろバカ、くっつくな」
本当に酒臭い。しかしその強烈な匂いのおかげか、気持ちは心なしか落ち着いてきた。人語を話す猫も、それを乗せて走る木馬も少しずつ現実味を失っていく。
いやもともと現実だなんて思っちゃいない。思ってはいけない。あれは幻覚。そして幻覚なんてきっと一時的なもの。たとえば一晩ぐっすり寝たら、二度と見ることはない。その程度のもの。ああ、絶対そうに決まっている。頼むからそうであってくれ。
心中で自分に言い聞かせつつ、潤は千鶴を引き離そうともがいた。そのとき、
「――あ、見て、やっと来たわね、バス」
ようやく、クリーム色のバスがゆるゆると駅前ロータリーに姿を見せた。