一
文字数 5,591文字
一
眠りの淵に声が聞こえてくる。遠く、小さく、曖昧で。しかし暗闇に瞬く光明のように、それがぼんやりとした意識の道標となる。
なにが……あったっけ?……。
ひどく現実離れした体験をした気がするが、よく思い出せない。すべてが夢だったのかもしれない。うまく頭が働かず、指先を動かすのさえ億劫だ。全身がぬるま湯に浸かっているみたいに気怠く、まだ眠っていたい欲求が意識の覚醒を妨げる。
すべてが胡乱 の夢うつつ。しかしその中で唯一聞こえてくる声だけが、しだいにはっきりと潤 の耳に届きだした。
〝名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショウしたいんだぞ〟
オンナノコの声。記憶の中の言葉。
ああ、思い出した。七年前の別れの日、オンナノコから言われたんだ。
どういう意味だ?
六歳の潤にはわからなかった。そして十三歳になった今も、やはりよくわからない。
オンナノコの思い出の声は、かすんだ心の遠景から繰り返し聞こえてくる。あぶくのように、煙のように浮かぶ音のレリーフ。とても大切なことなのだと語りかけているみたいだ。
しかし徐々にそれは雑音によってかき消されていった。周囲の暗闇にひびが入り、そこからもれだす耳障りな音。やがて音は大きくなり、そこらじゅうから聞こえはじめた。
「めでたい!」
「いやはや、めでたい! これまた万歳!」
「まこと今日は善き日かな! 善き日かな!」
「わはは!」
「うはは!」
わいわいがやがやと、大勢が騒ぎ立てているようだ。笑い声や歌声、太鼓や笛の音、合いの手、手拍子、拍手も混じり、にぎやかなことこの上ない。
「末永くお幸せに!」
「幸多からんことを!」
「上雲津 に祝福あれ!」
うるさいなあ。
水面から顔をのぞかせるように、意識は急速に覚醒へ向かう。眠気が晴れていき、五感がたしかなものとなる。とたんに料理や酒の匂いが鼻をくすぐり、さらにひときわ高らかな声が耳に飛び込んできた。
「守り神さま、古賀崎 潤 さま! ご結婚おめでとう!」
「!?」
潤は完全に目を覚ました。横倒しの視界の左に梁を巡らした天井があり、右に畳の床が見える。どうやら潤は寝転がっているようだ。そのまま眼前の奇怪な光景に息を呑む。
「なんだ?……これ」
場所は畳敷きの大広間。
食膳がズラッと並び、その周りにおびただしい酒瓶が転がっている。壁や天井は、折り紙の鎖や星飾りでデコレーションされ華やかだ。片側の襖 の向こうは縁側で、広大な庭に面している。灯篭 や池、そこに掛かる朱塗 りの橋などをしつらえた、純日本風庭園だ。
その大広間と庭園に、ひとではないものたち――怪物? 妖怪?魑魅 魍魎 ? ……とにかくそんな幻想世界から飛び出した異形の存在が集い、ひしめき、宴会を開いていた。料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わし、歌い、踊り、笑い合っている。
たとえば猿がいる。だがその身体の輪郭は白い湯気となってぼやけ、下半身はすぼみ、古びたやかんの注ぎ口に消えている。そのやかん猿と語り合うのは、赤ん坊の手足が生えた土瓶だ。土瓶の蓋が口のようにパカパカ開き、笑い声を響かせる。隣ではネクタイを締めたウシガエルが、コップ酒をあおって赤ら顔。
向かいではワンピース姿の向日葵 が、タキシードを着たダルマにしなだれかかっている。それをうらやましそうに見つめるのは、ブラウン管テレビに目と口を映し、その下にふんどし姿のひとの下半身を備えた、ふんどしテレビだ。
胴体が太鼓でできた老人もいる。「えいさっ、ほいさっ」と自分をバチで叩き、三味線胴体の老婆が音を重ねる。それに合わせて踊るは蛸の足を持つ凧や、振袖姿の子狐たち。紙吹雪のように舞う蝶たちの身体はなんと毛筆で、そこから滴 る液は七色に光り、空中で線香花火のように爆 ぜる。
その中には、動く木馬もアフロ地蔵もおり、庭園では烏帽子 を被った猫翁 が、ドレスアップした梅の木に酌をされている。
潤は愕然とした。幻想の大砲がどかんっと炸裂し、意識が吹き飛ばされたみたいだ。まるでこれは異界の顕現。非現実に支配された光景だ。恐怖すらわかない。きっと脳が理解を拒んでいるからだ。
「……夢……?」
「おお、目覚めたか、潤」
耳元で声が聞こえ、寝転んだままの潤は顔を動かした。そこでようやく頭を乗せている枕が絶妙に柔らかく、温かいことに気がついた。
「オンナノコ?」
見上げると、オンナノコの顔が間近にあった。心配そうに潤を見下ろしている。驚愕で占められていた頭が、ゆっくりと自分の状態を理解しはじめる。
ああ、これは……あれか……ほら、あれだ……つまり……――膝枕!?
慌てて上体を起こした。周囲の異常状況を一瞬忘れるくらい、異性の膝枕にどぎまぎしてしまう。異形たちのせいか膝枕のせいかわからない鼓動の高鳴りを感じつつ、潤はオンナノコを見やった。ふたりは金屏風を飾ったひな壇の上にいる。
「すまない潤。先程わらわ、潤を吹き飛ばしてしまったぞ」
髪を結い、唇に紅をさし、なぜか白無垢の花嫁姿のオンナノコは、うな垂れた。
「で、でもね、落ちる寸前に助けたんだぞ。空中でわらわがキャッチして。ほんとだぞ。でも潤は気を失っていて…………――ごめんなさい」
そう言われて、潤は思い出す。丸岡スーパーに買い物へ行ったこと。その帰りに公園に寄ったこと。そこでアフロヘアの地蔵 菩薩 像 に襲われ、オンナノコに助けられたこと。そしてオンナノコが起こした烈風に吹き飛ばされて……。
あれは実際にあったことだったのか。
「いや待て。ということは……」
潤はもう一度、奇妙奇天烈な異界宴会に目を向けた。どんちゃん騒ぎは続いている。リアリティのない姿かたちの者たちなのに、そこにいる存在感はどこまでもリアルだった。
「これも……夢じゃないってのか?」
自分の頭がおかしくなったのでなければ、これは紛れもない現実だ。
めまいがした。夢と現 の境が壊れ、昨日までの平穏な日常が音をたてて崩れていく。ファンタジー映画の登場人物になった自分を、客席から見ているみたいだ。そのうろたえる姿がとても痛々しい。たまらず宴から目を背けた。
その拍子に、背後の壁に張られた垂れ幕が目に留まった。横長の白地に、達筆な墨字がしたためられている。
『祝 守り神さま 古賀崎潤さま ご結婚おめでとう』
「ぶふぉっ」と、思わず噴く。
結婚!?
中学生には縁遠い単語が、はっきりと書かれてあった。自分の名を添えられて。
「え?……あ……あぁ?」と声をもらし、目を白黒させた。なにがなんだかわからない。異常事態が続き、脳はすでにオーバーヒートしている。こめかみがジンジン痛む。自分がここにいることも、異形の輩 が宴を開いていることも、守り神と自分との結婚も、なにもかもが理解を超えていて、なのにそれらが無責任に、強烈に煽ってくるからたまらない。ていうか守り神ってなんだ?
「潤」
そんな潤を気遣うように、オンナノコが口を開く。
「七年前のあの日は、ろくに話もできなかったからな。潤が戸惑うのも無理はないぞ」
オンナノコは座ったまま、潤ににじりよる。
「覚えておるか? 〝名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショーしたいんだぞ〟」
七年前の別れ際、オンナノコが潤に告げたセリフだ。
「慣わしとは、上雲津をふたりで守護していくこと」
オンナノコの瞳は星空のようにきらびやかで、頬はほんのりバラ色だ。結った髪のほつれ毛が妙に艶っぽい。花嫁衣裳の麗しさと相まって、オンナノコの精緻な美貌はさらに引き立っていた。
「潤は七年前、わらわに名をつけてくれた。素敵な愛にあふれた名を。あれは〝契 り名 〟といって、とこしえの絆を結ぶ婚礼の儀式だったんだぞ。あの瞬間、わらわと潤は〝言霊 夫婦 〟になった……。うむ……だから……だからな……つ、つまりその……潤はわらわの夫さまで、わらわは潤の、お、おおおお嫁さんっ」
ひゃあ~と照れまくるオンナノコの前で、潤の頭は大混乱だ。
「お、夫?……嫁?……め、夫婦!?」
「うむ、愛で結ばれた、め・お・と。つまりこれからは守り神のわらわと、守り神に名を授けし者――〝名授 〟の潤。夫婦ふたりで上雲津のひとと九十九 神 たちを守護していくことになるぞ」
オンナノコは胸に手を当て、満足気に一息ついた。
待て待て!
説明は終わりといった態度に潤は焦った。潤とオンナノコは結婚しました。言霊夫婦とやらになりました。はいそうですか、めでたしめでたし――て、納得できるわけがない。
頭を整理しようと努めていると、オンナノコが顔を覗き込んできた。息がかかるほどの近さにドキリとする。
「潤?」
「な、なんだ?」
「驚いてる? ……うむ、無理もないぞ。普通の人間には見えない九十九神をいきなりこれほど見せられたら、そりゃあ驚く。まあ、皆、気のいい者たちだ。仲良くしてやっておくれ」
驚いている原因はそればかりではないが、たしかに周囲で気ままに騒ぎ立てている異形の存在は要因のひとつではある。
「つくも……がみ?」
「そう、九十九の神と書いて九十九神だぞ」
九十九神。潤も聞いたことはある。
日本の古神道、民間信仰の観念から生まれたもの。長きにわたり存在した器物や生き物――森羅万象に、霊的な性質が宿った存在だ。〝付喪神〟とも表されるが、九十九年もの長い年月を経たことを象徴する〝九十九神〟が、意味合い的にはふさわしいとされる。
小説や絵画、漫画やゲームなど、古今の創作物の題材として扱われることも多い。有名なところで言えば『百鬼 夜行 絵巻 』や、妖怪画集『百器 徒然 袋 』。水木しげるの漫画でもよく目にするし、ゲームの敵キャラにそれっぽいものはいくらでもいる。
「守り神のわらわは、上雲津の神気 を依り代に生まれた特別な九十九神。で、ここにおる面々は、ほとんどが道具や動植物が変化 した者たちだぞ」
潤は再度宴に目を向けた。
獣の手足がついた米俵とドラム缶が踊っている。フランス人形と日本人形が、きゃっきゃっと笑いながら駆け回っている。大きな亀の甲羅には座椅子があって、そこにちゃんちゃんこを羽織 った鶴がちょこんと座っている。手のひらサイズの女の子の身体は、濡れた白い直方体。よく見れば木綿豆腐だ。
これが……九十九神……あれも……九十九神……全部……九十九神。
駅前で見た猫翁と走る木馬も、公園で襲ってきたアフロ地蔵も、そしてなにより、幼い頃の親友――オンナノコまでもが九十九神。
今まで架空のものだと信じて疑わなかったそれが、現実に存在している衝撃に打ちのめされた。
マジ……か……。
胸の混乱を吐きだしたくて、深呼吸をした。激しい動悸が落ち着くまで何度も何度も。
目に見えているもの。オンナノコの話。自分の常識。それらが頭の中でぐちゃぐちゃにもつれる。完全に理解することはとうてい不可能。納得もできっこない。しかし少しでも受け入れないと自分の頭が変になりそうだった。
ここにいるヤツらは九十九神で、オンナノコは守り神……。
信じなければ自分の正気が危うくなる。これ以上の混乱はもう耐えられない。
潤は腹を決めた。眼前の光景とオンナノコの言葉を、現実として受け入れることを。
「あ、ああ、わかった、信じよう」
「うむ、信じてくれてうれしいぞ。わらわと潤がラブラブ夫婦だってこと」
それはべつだ!
潤はもう一度、背後の垂れ幕を確認した。
『祝 守り神さま 古賀崎潤さま ご結婚おめでとう』
さすがにこれは受け入れちゃダメだ!
守り神との結婚。つまり、オンナノコとの結婚。ふたりは夫婦。
潤は頭を抱えた。ありえない。オンナノコは言霊 夫婦 とか言っていたが、とにかく結婚なんてできるわけがない。
彼女が守り神なのは、このさい置いておこう。幼い頃の親友が嫌いなわけでもない。だからといって七年ぶりに再会したばかりの彼女と結婚なんてむちゃくちゃだ。付き合ってもいないのに。いや、付き合ってたらいいとかいう話でもない。とにかくすべてが飛躍しすぎて、ほとんど異次元レベルだ。だいいち潤は十三歳。法律上でも不可能だ。
潤はそのことを告げようと、オンナノコの両肩をつかんだ。
「オンナノコっ」
壊れそうなほどの細い肩。オンナノコは「ひゃっ」と、かわいらしい悲鳴を上げて赤面し、それから顎を上げて、ギュッと目をつむった。
「こ、心の準備はできてるぞ。ちゃんと歯もいっぱい磨いたし。だから大丈夫。誓いの……チュ~――」
ちが~う!
「オンナノコ、よく聞いてくれ。俺は結婚なんて――」
しかし最後まで言う前に、突如として響いたべつの声に遮られてしまった。
「守り神さま! 一大事一大事!九十九 堕使 が出現いたしました! ごほっごほっ」
にぎやかだった大広間が、水を打ったように静まり返る。九十九神たちの酒を呑む手が止まり、視線は声のしたほう、庭園へ一斉に向けられた。
眠りの淵に声が聞こえてくる。遠く、小さく、曖昧で。しかし暗闇に瞬く光明のように、それがぼんやりとした意識の道標となる。
なにが……あったっけ?……。
ひどく現実離れした体験をした気がするが、よく思い出せない。すべてが夢だったのかもしれない。うまく頭が働かず、指先を動かすのさえ億劫だ。全身がぬるま湯に浸かっているみたいに気怠く、まだ眠っていたい欲求が意識の覚醒を妨げる。
すべてが
〝名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショウしたいんだぞ〟
オンナノコの声。記憶の中の言葉。
ああ、思い出した。七年前の別れの日、オンナノコから言われたんだ。
どういう意味だ?
六歳の潤にはわからなかった。そして十三歳になった今も、やはりよくわからない。
オンナノコの思い出の声は、かすんだ心の遠景から繰り返し聞こえてくる。あぶくのように、煙のように浮かぶ音のレリーフ。とても大切なことなのだと語りかけているみたいだ。
しかし徐々にそれは雑音によってかき消されていった。周囲の暗闇にひびが入り、そこからもれだす耳障りな音。やがて音は大きくなり、そこらじゅうから聞こえはじめた。
「めでたい!」
「いやはや、めでたい! これまた万歳!」
「まこと今日は善き日かな! 善き日かな!」
「わはは!」
「うはは!」
わいわいがやがやと、大勢が騒ぎ立てているようだ。笑い声や歌声、太鼓や笛の音、合いの手、手拍子、拍手も混じり、にぎやかなことこの上ない。
「末永くお幸せに!」
「幸多からんことを!」
「
うるさいなあ。
水面から顔をのぞかせるように、意識は急速に覚醒へ向かう。眠気が晴れていき、五感がたしかなものとなる。とたんに料理や酒の匂いが鼻をくすぐり、さらにひときわ高らかな声が耳に飛び込んできた。
「守り神さま、
「!?」
潤は完全に目を覚ました。横倒しの視界の左に梁を巡らした天井があり、右に畳の床が見える。どうやら潤は寝転がっているようだ。そのまま眼前の奇怪な光景に息を呑む。
「なんだ?……これ」
場所は畳敷きの大広間。
食膳がズラッと並び、その周りにおびただしい酒瓶が転がっている。壁や天井は、折り紙の鎖や星飾りでデコレーションされ華やかだ。片側の
その大広間と庭園に、ひとではないものたち――怪物? 妖怪?
たとえば猿がいる。だがその身体の輪郭は白い湯気となってぼやけ、下半身はすぼみ、古びたやかんの注ぎ口に消えている。そのやかん猿と語り合うのは、赤ん坊の手足が生えた土瓶だ。土瓶の蓋が口のようにパカパカ開き、笑い声を響かせる。隣ではネクタイを締めたウシガエルが、コップ酒をあおって赤ら顔。
向かいではワンピース姿の
胴体が太鼓でできた老人もいる。「えいさっ、ほいさっ」と自分をバチで叩き、三味線胴体の老婆が音を重ねる。それに合わせて踊るは蛸の足を持つ凧や、振袖姿の子狐たち。紙吹雪のように舞う蝶たちの身体はなんと毛筆で、そこから
その中には、動く木馬もアフロ地蔵もおり、庭園では
潤は愕然とした。幻想の大砲がどかんっと炸裂し、意識が吹き飛ばされたみたいだ。まるでこれは異界の顕現。非現実に支配された光景だ。恐怖すらわかない。きっと脳が理解を拒んでいるからだ。
「……夢……?」
「おお、目覚めたか、潤」
耳元で声が聞こえ、寝転んだままの潤は顔を動かした。そこでようやく頭を乗せている枕が絶妙に柔らかく、温かいことに気がついた。
「オンナノコ?」
見上げると、オンナノコの顔が間近にあった。心配そうに潤を見下ろしている。驚愕で占められていた頭が、ゆっくりと自分の状態を理解しはじめる。
ああ、これは……あれか……ほら、あれだ……つまり……――膝枕!?
慌てて上体を起こした。周囲の異常状況を一瞬忘れるくらい、異性の膝枕にどぎまぎしてしまう。異形たちのせいか膝枕のせいかわからない鼓動の高鳴りを感じつつ、潤はオンナノコを見やった。ふたりは金屏風を飾ったひな壇の上にいる。
「すまない潤。先程わらわ、潤を吹き飛ばしてしまったぞ」
髪を結い、唇に紅をさし、なぜか白無垢の花嫁姿のオンナノコは、うな垂れた。
「で、でもね、落ちる寸前に助けたんだぞ。空中でわらわがキャッチして。ほんとだぞ。でも潤は気を失っていて…………――ごめんなさい」
そう言われて、潤は思い出す。丸岡スーパーに買い物へ行ったこと。その帰りに公園に寄ったこと。そこでアフロヘアの
あれは実際にあったことだったのか。
「いや待て。ということは……」
潤はもう一度、奇妙奇天烈な異界宴会に目を向けた。どんちゃん騒ぎは続いている。リアリティのない姿かたちの者たちなのに、そこにいる存在感はどこまでもリアルだった。
「これも……夢じゃないってのか?」
自分の頭がおかしくなったのでなければ、これは紛れもない現実だ。
めまいがした。夢と
その拍子に、背後の壁に張られた垂れ幕が目に留まった。横長の白地に、達筆な墨字がしたためられている。
『祝 守り神さま 古賀崎潤さま ご結婚おめでとう』
「ぶふぉっ」と、思わず噴く。
結婚!?
中学生には縁遠い単語が、はっきりと書かれてあった。自分の名を添えられて。
「え?……あ……あぁ?」と声をもらし、目を白黒させた。なにがなんだかわからない。異常事態が続き、脳はすでにオーバーヒートしている。こめかみがジンジン痛む。自分がここにいることも、異形の
「潤」
そんな潤を気遣うように、オンナノコが口を開く。
「七年前のあの日は、ろくに話もできなかったからな。潤が戸惑うのも無理はないぞ」
オンナノコは座ったまま、潤ににじりよる。
「覚えておるか? 〝名はわらわとそなたのチギリとなり、ショーガイのキズナとなるぞ。この町のナラワシを、コトワリを、わらわはそなたとケイショーしたいんだぞ〟」
七年前の別れ際、オンナノコが潤に告げたセリフだ。
「慣わしとは、上雲津をふたりで守護していくこと」
オンナノコの瞳は星空のようにきらびやかで、頬はほんのりバラ色だ。結った髪のほつれ毛が妙に艶っぽい。花嫁衣裳の麗しさと相まって、オンナノコの精緻な美貌はさらに引き立っていた。
「潤は七年前、わらわに名をつけてくれた。素敵な愛にあふれた名を。あれは〝
ひゃあ~と照れまくるオンナノコの前で、潤の頭は大混乱だ。
「お、夫?……嫁?……め、夫婦!?」
「うむ、愛で結ばれた、め・お・と。つまりこれからは守り神のわらわと、守り神に名を授けし者――〝
オンナノコは胸に手を当て、満足気に一息ついた。
待て待て!
説明は終わりといった態度に潤は焦った。潤とオンナノコは結婚しました。言霊夫婦とやらになりました。はいそうですか、めでたしめでたし――て、納得できるわけがない。
頭を整理しようと努めていると、オンナノコが顔を覗き込んできた。息がかかるほどの近さにドキリとする。
「潤?」
「な、なんだ?」
「驚いてる? ……うむ、無理もないぞ。普通の人間には見えない九十九神をいきなりこれほど見せられたら、そりゃあ驚く。まあ、皆、気のいい者たちだ。仲良くしてやっておくれ」
驚いている原因はそればかりではないが、たしかに周囲で気ままに騒ぎ立てている異形の存在は要因のひとつではある。
「つくも……がみ?」
「そう、九十九の神と書いて九十九神だぞ」
九十九神。潤も聞いたことはある。
日本の古神道、民間信仰の観念から生まれたもの。長きにわたり存在した器物や生き物――森羅万象に、霊的な性質が宿った存在だ。〝付喪神〟とも表されるが、九十九年もの長い年月を経たことを象徴する〝九十九神〟が、意味合い的にはふさわしいとされる。
小説や絵画、漫画やゲームなど、古今の創作物の題材として扱われることも多い。有名なところで言えば『
「守り神のわらわは、上雲津の
潤は再度宴に目を向けた。
獣の手足がついた米俵とドラム缶が踊っている。フランス人形と日本人形が、きゃっきゃっと笑いながら駆け回っている。大きな亀の甲羅には座椅子があって、そこにちゃんちゃんこを
これが……九十九神……あれも……九十九神……全部……九十九神。
駅前で見た猫翁と走る木馬も、公園で襲ってきたアフロ地蔵も、そしてなにより、幼い頃の親友――オンナノコまでもが九十九神。
今まで架空のものだと信じて疑わなかったそれが、現実に存在している衝撃に打ちのめされた。
マジ……か……。
胸の混乱を吐きだしたくて、深呼吸をした。激しい動悸が落ち着くまで何度も何度も。
目に見えているもの。オンナノコの話。自分の常識。それらが頭の中でぐちゃぐちゃにもつれる。完全に理解することはとうてい不可能。納得もできっこない。しかし少しでも受け入れないと自分の頭が変になりそうだった。
ここにいるヤツらは九十九神で、オンナノコは守り神……。
信じなければ自分の正気が危うくなる。これ以上の混乱はもう耐えられない。
潤は腹を決めた。眼前の光景とオンナノコの言葉を、現実として受け入れることを。
「あ、ああ、わかった、信じよう」
「うむ、信じてくれてうれしいぞ。わらわと潤がラブラブ夫婦だってこと」
それはべつだ!
潤はもう一度、背後の垂れ幕を確認した。
『祝 守り神さま 古賀崎潤さま ご結婚おめでとう』
さすがにこれは受け入れちゃダメだ!
守り神との結婚。つまり、オンナノコとの結婚。ふたりは夫婦。
潤は頭を抱えた。ありえない。オンナノコは
彼女が守り神なのは、このさい置いておこう。幼い頃の親友が嫌いなわけでもない。だからといって七年ぶりに再会したばかりの彼女と結婚なんてむちゃくちゃだ。付き合ってもいないのに。いや、付き合ってたらいいとかいう話でもない。とにかくすべてが飛躍しすぎて、ほとんど異次元レベルだ。だいいち潤は十三歳。法律上でも不可能だ。
潤はそのことを告げようと、オンナノコの両肩をつかんだ。
「オンナノコっ」
壊れそうなほどの細い肩。オンナノコは「ひゃっ」と、かわいらしい悲鳴を上げて赤面し、それから顎を上げて、ギュッと目をつむった。
「こ、心の準備はできてるぞ。ちゃんと歯もいっぱい磨いたし。だから大丈夫。誓いの……チュ~――」
ちが~う!
「オンナノコ、よく聞いてくれ。俺は結婚なんて――」
しかし最後まで言う前に、突如として響いたべつの声に遮られてしまった。
「守り神さま! 一大事一大事!
にぎやかだった大広間が、水を打ったように静まり返る。九十九神たちの酒を呑む手が止まり、視線は声のしたほう、庭園へ一斉に向けられた。