文字数 7,834文字

        二

 上雲津(かみくもつ)学校中等部校舎の屋上には、春薫る陽光が注がれていた。
 三日前に、ここでオンナノコと肖像蛾(しょうぞうが)の戦闘があったとは思えないほどのどかだ。その際にひしゃげたフェンスの一部も直っていて、昼休みの今は、そこにもたれて歓談中の生徒もいる。
 頭上は雲ひとつない青空だ。ときおり、ひばりのさえずりが聞こえてくる。
 そんな屋上の一角のベンチで、(じゅん)はオンとナノコが作ってくれた弁当を食べていた。
 ナノコ手製の弁当はだしまき玉子、ほうれん草の胡麻和え、ジャガイモとインゲンの煮物、鳥唐揚げなど、惣菜が豊富で味もいい。ただ弁当箱の、本来なら白飯が入るスペースに敷き詰められた苺大福にはぎょっとした。新手のギャグかと思った。
 片や、オンのおにぎりもおいしい。ほどよく塩加減が利いていて、ナノコの惣菜との相性が抜群だ。ただ問題がひとつ。でかすぎる。ホントでかい。食べても食べても減らない。潤は二個目を食べている途中で、しんどくなってきた。が、せっかく作ってくれた弁当だ。絶対に残さないと決め、せっせと口に運んでいると、
「どこのボッチ生徒かと思ったら」
 不意に肩越しから手が伸びてきて、だしまき玉子をつまみとられた。「ふむ、見た目よし。味は……美味だわ」
 潤が振り返ったときには、だしまき玉子はすでに千鶴(ちづる)の口の中だった。
「千鶴……じゃなくて古賀崎(こがさき)先生か」
 校内では教師と生徒として振舞うべきだと思い、潤は言いなおした。しかし千鶴のほうは気にしたそぶりもない。だしまき玉子に舌鼓を打っている。
「これ作ったのオンちゃん? ナノコちゃん? あの子たち漫画のヒロインみたいになんでもできるわね。できた嫁だわ。あ、閃いた。守り神の小料理屋ってどうかしら? これ流行るわ。チェーン展開までの未来が見えたもの」
 眼鏡の奥の瞳を妄想に輝かせつつ、千鶴はおにぎりを手に取って潤の隣に腰掛けた。
「勝手にひとの弁当取るなよ、ていうか離れろ、あっち行け」
 校内で母親兼教師と弁当を食べるなんて、羞恥プレイのなにものでもない。だが千鶴はおにぎりを頬張りつつ「生徒の、んぐっ、悩み相談に乗るのも……うっ、お茶ちょうだい……ふ~っ……役目じゃないの」と、しれっとした顔で言う。ナノコの作った惣菜も遠慮なくつまみだし、本格的に相伴にあずかる気満々だ。潤は諦めて、自分が腰ひとつ分ほど千鶴から離れた。そっぽを向きながらポツリと呟く。
「悩みなんかないし」
「早く仲直りしなさいよ、あの子たちと」
 潤は箸を止め、隣を横目で窺った。千鶴はなにも考えてないような笑顔でおにぎりを頬張っている。そのさりげない態度が少し(しゃく)に障り、少しだけ心地いい。
「仲直りとか、そんな簡単な話じゃ――」
「潤」
 千鶴は眼鏡のブリッジを指で上げ、フェンスの向こう、上雲津の遠景に目を向けた。彼方の空に、上去山(かみさりやま)のなだらかな稜線がくっきりと描かれている。白い雲がぷかりとその上を横切っていった。
「あんたさあ、オンナノコちゃんにはじめて会ったときのこと覚えてる?」
 唐突な質問に戸惑いつつ、潤はオンナノコとの出会いを思い出そうとした。
 上雲津から引っ越す前の、幼き日々。オンナノコと毎日遊ぶようになったのは七歳……いや六歳の頃。
 虫取りや、川での水遊び、ひまわり畑のかくれんぼ。肩を寄せ合って漫画を読んだり、公園の砂場で城を作ったり、ままごとをしたり、アイスバーをふたりで分け合って食べたり。七夕祭りにも行った。ふたりで芝生に寝転んで天の川を眺めたことも……。
「あれ?」
 だがオンナノコとはじめて出会った場面が思い出せない。なにかあったことは覚えているのに、記憶の引き出しからうまく取り出せない。難しい顔で唸る潤に、千鶴は呆れ顔で肩をすくめた。
「それ忘れてて、あんた、あの子たちがなんであれほど自分のことを好きなのか、不思議に思わなかったの?」
「それは、まあ、思わなくもなかったが……。もしかして一目惚れとか――」
「ないないない。あんたの顔でそれはないでしょ。なにうぬぼれてんの、きもっ」
 実の息子に容赦がない。
「ホントあんた、肝心なところが抜けてるんだから。親として心配だわ」
 言い返せない。つい最近になって、オンナノコのことを思い出したほどなのだから。
 とはいえ七年も前の、幼少の記憶なのだから大目に見てもらいたいとも思う。しかも上雲津を離れたあと、父の死という心を抉られる強烈な体験によって、ほかの記憶が上書きされた感覚があった。幼い頃の記憶が曖昧なのはたぶんその影響だろう。
「おととい、引越し荷物を片付けてるときだったわ。オンちゃんとナノコちゃんに訊いたの。潤とはどうして知り合ったのかって」
 千鶴はおにぎりを一口かじり、それを充分味わってから続けた。
「潤はオンナノコちゃんを助けた。でしょ? 苦しんでいた彼女を……死にかけていた守り神を見つけたんじゃなかったの?」
「あ……」
 ようやく潤は思い出した。脳裏に走った閃光が、忘れていた記憶を次々と照らしだし、潤の意識を当時へいざなった。
 空色の小袖(こそで)を着た少女が倒れていた。泥にまみれ苦痛に顔をゆがめていた。絶望した暗い瞳をしていた。雨に濡れた木々の匂いがあった。踏みしめると、水がにじむ地面があった。林の中の冷たい空気があった。
 そこにオンナノコとの出会いがあった。
 あのとき潤は……まだ六歳になったばかりだった。

 その日の朝は、こぬか雨が降っていた。外に遊びに行けず、やみそうでやまない雨がもどかしくてしかたなかった。その雨が上がったのは昼を少し過ぎた頃、潤は待ちわびたとばかりに、家の外に飛び出した。
 家の裏手に回り、近くの雑木林のほうへ歩いていく。そこはクヌギやコナラが多く、カブトムシ採集にはもってこいの場所だ。雨上がりでも運が良ければ一、二匹見つかるかもしれない。
 道すがら小枝を拾って振り回し、道端の草木から水滴を飛び散らせたりした。雨に洗われた空気が気持ちよかった。
 林の周囲はしんと静まり返っていた。深い林ではない。何度もひとりで踏み入ったこともある。でもなぜだろう、林の前に立った途端、入る気がしなくなった。雨が止んだとはいえ、まだ重い空模様。林の中は普段より暗く鬱蒼としていて、不気味に見えたからだ。
 引き返そう。
 そう思ったとき唸り声が聞こえた。かすかに、短く。
 ビクッとして、林の中へ目を凝らした。野良犬だろうか。潤は息をひそめてあとずさった。
「……う……うぅ……」
 また聞こえた。しかしそれは威嚇とは違う気がした。か細く、弱々しく、途切れ途切れに聞こえてくる。潤はハッとして足を止めた。
 きっと怪我をした動物がいるんだ。助けなきゃ。
 潤は林の中に入っていった。耳をそばだて、呻き声がするほうへ駆けていく。
 途中で木の根に足を引っ掛け転んだけれど、ぶつけた膝が痛くて泣きそうになったけれど我慢して走った。しだいに呻き声とともに苦しげな呼吸も聞こえてくるようになった。
 いた。
 大きなブナの木の根元。そこに自分と同い年くらいの少女がうずくまっていた。
 犬か猫か、せいぜい狸くらいを想像していた潤は、驚きのあまり立ちすくんだ。
 少女の着ている空色の和服はびしょ濡れで、長い黒髪や白い顔や手は泥まみれだ。そして小刻みに震え続ける小さな身体は、ねっとりとした霧のようなもので覆われていた。その色は彼女の和服よりも濃く、じわじわと少女をむしばんでいくみたいだ。
「う……ぅ」
 少女が呻く。びくんっと身体をのけぞらせ、木の幹に背を打ちつける。その反動で地面に顔から倒れると、再び身体を丸めた。苦痛にゆがむ表情。その瞳は暗い光をたたえ、焦点が合わずにしきりに揺れ動く。ひどく苦しんでいる。
 急いで彼女を連れて家に戻ろう。そうすれば母がどうにかしてくれる。潤はそう思って、少女に駆け寄ろうとした。が、
「寄るな人間!」
 少女が怒鳴った。その剣幕に潤の足は止まった。
「……そうか、神通力があふれだして……そのせいでわらわの姿が見えておるのか」
 少女は倒れたまま、鏡を覗くように自分の手を見つめた。
邪霧(じゃきり)の色が……こんなに濃い」
 ぶざまだな、と呟き、激しく咳き込んだ。それでも懸命に上体を起こし、木の幹に背をもたれさせた。口から唾液を垂らして喘ぎつつ、潤を睨みつける。
「去れ、人間……完全に九十九(つくも)堕使(おとし)になる前に……わらわは……わらわの命を……残った神通力で……止める……だが……」
 潤は少女の発言を理解できない。そんなことより、少女の身体のことが心配でたまらなかった。
「うまくいく保証は……ない……九十九堕使になったら……きっとわらわは人間を襲う……守り神の力は……この町を滅ぼすかもしれないぞ……そなたのようなこわっぱ……食いちぎってしまうぞ……だから今のうちに去れ……できるだけ遠くへ……ここで見たことは忘れて……さあ行け……――行けったら行けーっ!」
 びりびりと空気を震わす怒声に気圧(けお)され、潤は(きびす)を返した。が、その瞬間、視界の端に映ったものにドキッとした。
 それは少女の瞳から零れた一粒の涙。さびしさ、哀しみ、痛み、それらを必死に我慢している証拠に思えた。
 ダメだ。
 潤は再び少女へ向き直る。彼女をひとりにさせられない。泣いてる子を放っておけるわけがない。そんなのは絶対ダメだ。
 潤は自分が風邪で寝込んだときのことを思いだした。そんなとき父も母も決まってそばにいてくれる。心強くて、うれしくて、安心して眠ることができた。もしひとりだったらと思うだけで心細くて、泣きそうになる。
 この子もきっと同じだ。誰かがそばにいてあげないとダメなんだ。
 潤は子供心にも決意し、一歩一歩、少女に近づいていった。
 少女はもう潤を見ていない。苦痛に耐えるように目を固く閉じている。もう潤が立ち去ったと思ってるのかもしれない。
「……う……む?」
 潤が少女の前に立つと、ようやく彼女はまぶたを動かした。暗く朦朧とした目が、潤を見たとたんに丸くなる。
「な!? なぜまだいる!? ……早く去れと――」
 少女に怒られても、潤はもう怯まなかった。ただ少女を助けることしか頭にない。潤は前屈みになり、両手を彼女の脇に差し入れた。そのまま少女を抱え上げようとしたが、
「……は、離せ!」
 少女がもがいたせいで足が滑り、膝をついた。これではただ抱きしめているだけだ。すぐに腕を払われるかと思ったが、不意に少女はぐったりとした。
「力が……もう……」
 少女の肌の冷たさに潤はびっくりした。その冷え切った身体を舐めまわすように、彼女を覆う霧がうごめきだす。
「バカ……わらわのことなんか……放っておけ」
「病院行かなきゃ。俺、連れてく。だから絶対大丈夫」
 少女は潤の腕の中で、ふっと笑った。が、苦痛が襲ってきたのか、短い悲鳴を上げると、潤の背に爪を立てた。背中がジンジン痛んだが、潤は歯を食いしばって我慢した。自分よりも少女のほうがずっとつらそうだから。
「――人間……わらわはな」
 先程まで荒かった少女の息は、今はもう口の端から弱々しくもれる。
「上雲津を守っていく自信がない……不安で……怖い……怖くて怖くてしかたない」
 少女の瞳から涙があふれだす。
「わらわを……育ててくれた先代は……」
「せ……んだ……い?」
 母みたいなものだ、と少女は苦しげな表情の中、ほんの少し懐かしい目をした。
「その先代が……出雲(いずも)へ行ってしまった……もう誰も頼れない……誰もわらわを守ってくれない……」
 少女の身体を侵食する霧の色が、なぜか濃くなっていく。
「わらわ、まだ子供だぞ……皆を守れない……期待に応えられない……でもこんなこと誰にも言えない……つらい……つらい……ほんとつらいよぉ……ひとりぼっちでどうしようもなくて……」
 黒に近い霧が少女と溶け合い、彼女の輪郭が曖昧になる。
「とうとうわらわは……守り神に生まれた己を……恨んだ……呪った……消えてしまいたいと思った」
 少女は潤に甘えるように、額をこすりつけた。「……そうしたらこのざまだぞ」
 痛々しく微笑み「情けない」と、不規則な息を吐く。その細い身体は相変わらず脱力したままで、このまま砂みたいにさらさらと崩壊するのではないかと、潤は怖くなった。
「さあ、人間……ホントにもうひとりにしてくれ……わらわの最後の願いだぞ」
 少女の懇願に、潤は頭をぶんぶんと振った。
「そんなの聞けない!」
 自分でもよくわからない衝動がわき、少女を抱く腕に力が入った。
「そばにいる! ひとりぼっちにさせない! 誰も守ってくれないなら俺が守る! だから泣くな!」
 そう言いながら潤のほうが泣いた。なぜだかわからないが、涙がこぼれてしかたなかった。我慢できなかった。少女から伝わってきた悲哀が心にたまり、それが潤の涙となってあふれだしたのかもしれない。
 もっともっと話したい、少女を安心させる言葉を伝えたいのに、それがうまくでてこない。もどかしくて、切なくて、苛立って、わめきちらしたくて、でもできなくて……。
「そばにいるからっ。ひとりぼっちにさせないからっ」
 それだけを潤は繰り返した。目をギュッとつむり、何回も、何十回も。自分の声が周囲の草木や土にはね返り、自分の声じゃないみたいに四方から聞こえだす。
 やがて少女が絶叫した。
「わらわだってひとりはやだ! やだやだ! やだよお! そばに……わらわのそばにいてよ! 誰か助けて! お願いだからっ!!
 少女は「そばにいて」「助けて」と叫び続け、潤は「そばにいる」「助ける」と、ひたすら唱えた。
 ふたりの声は絡み、重なり、もつれて、つながり、結ばれる。言葉は力を宿し、それを発する子供たちを抱擁しつつ、いつしか潤と少女をもひとつにした。
 そしてどれほどの時が経ったのか。潤の声がかすれ、喉がヒリヒリと痛みだした頃、少女がポツリと呟いた。
「……邪霧が……祓われた?」
 潤は目を開けた。少女を侵していた不気味な霧は綺麗さっぱり失せ、抱きしめた身体は温もりを取り戻している。
「そなたが……そなたの言葉が、わらわを救ってくれたのか?」
 少女は潤の胸からわずかに身を離し、信じられないといった顔をした。
言霊(ことだま)だったのか……そなたの言葉は」
 蝋のように蒼白だった肌に、ほんのり赤みが差している。少女は潤をまじまじと見つめた。潤も見つめ返した。互いの息がかかる距離で、互いの瞳に互いを映しながら。
「そなた、名は?」
 潤は苦しみから解放された少女にほっとしつつ、名乗った。
「俺、古賀崎潤」
 少女の手が潤の頬に触れた。目をぱちくりさせる潤の前で、少女の瞳から新たな涙が零れ落ちる。でもそれは先程までの涙とは違うように、潤には思えた。
 少女は潤の頬に自分の頬を触れ合わせ、言った。
永遠(とわ)の感謝を――ありがとう」
 いつの間にか、木々の狭間から陽が差しこみ、ふたりを優しく照らしていた。

「オンちゃんたち言ってたわ。あのときは母親のように慕ってた先代の守り神と別れたばかりで、さびしかったって。急にひとりになって、守り神のプレッシャーにも押し潰されて、自分の運命を呪って……。そのせいで九十九堕使ってのになりかけたみたいね」
 上雲津学校中等部、昼休みの屋上。千鶴は、オン特製おにぎりを食べつつ言った。
「そんな彼女を助けたのが、古賀崎潤だった。でしょ?」
 彼女との出会いを思い出した潤は、うなずいた。「俺……最低だ」
 拳を握って自分の膝を叩いた。
「あのとき約束したんだ。ひとりぼっちにさせない、オンナノコのそばにいるって」
 なのに引越しによって約束を破り、言霊(ことだま)夫婦(めおと)の離婚のことで、もう一度破った。それがどれほどオンナノコを傷つけたか。けれどオンもナノコも潤をいっさいなじったり責めたりしなかった。
 ふと潤は気がついた。
 あの雑木林でのはじめての出会いの中、潤が一度オンナノコに背を向け、去りかけたときの彼女の顔――孤独と絶望をたたえたあの表情と、昨日潤が離婚を告げた際のオンとナノコのそれが同じだったことに。
「俺……ちゃんとできるかな。今度こそ〝男らしく〟」
「ていうか、できなくてどうすんのって話でしょ。だって六歳のあんたがやれたのよ、十三歳のあんたがやれないわけないじゃない」
 その明瞭な励ましに、止まっていた心の歯車が、コトッと動き出したように感じた。
「でも潤、その〝男らしく〟っての……もうやめなさい」
「え?」
 亡くなった父が潤に遺した言葉を、まさか千鶴が否定するとは思わなかった。その千鶴は少し困ったように微笑む。
「父さんの言葉を大切にしてくれるのは、わたしもうれしい。でもね、それに縛られたらダメ。あのひとだってそんなことは望んでいないはずだから」
 千鶴は珍しく真摯な口ぶりで告げた。
「〝男らしく〟するよりも、まずは〝自分らしく〟考えて行動なさい」
「自分……らしく?」
「そう。〝男らしく〟って言葉にとらわれすぎて、自分をおろそかにするのは間違ってるってこと。自分がどうしたいかにこだわりなさい。それに全力を尽くしなさいよ。ねえ、潤。父さんが言った〝大切なものを守れるくらい〟強くなりたいなら、〝自分らしく〟大切なものを守るべきだわ。あんたは誰に教わったわけでもなく、六歳でそれができたんだから」
 千鶴のひとことひとことが、頭上の青空のように、潤の心を鮮明に晴らしていく。意識が今までよりも広がっていく感覚だ。そしてそこに気力が満ちていく。
 ああ、これも言霊なのかもしれない。
 潤はそう思った。父が遺した言葉は潤の支えだった。強固な言霊だった。が、知らず知らずに潤はそれに依存し、縛られ、頑なになっていた。言葉の表層だけを追い、中身には目を向けてこなかった。空っぽだった。
 空っぽ? そうだ。父の言葉は、あるいは殻だったのかもしれない。死にいく父が、まだ幼い潤を守るために施した言霊の殻。
 しかしそれから六年。いつしか潤にとって父の殻は窮屈になっていたのだろう。そしてその殻を破るきっかけを与えてくれたのが、千鶴の言葉だった。
〝自分らしく〟
 潤は口の中で言った。自分の糧となる新たな言霊を。
〝自分らしく〟――古賀崎潤はどうしたい?
 答えはすぐに出た。
 俺はもうオンナノコとの約束を破りたくない。オンナノコの想いときちんと向き合いたい。その先、どうなるかなんてわからないが、まずはそこからはじめたい。
 潤の表情は自然と引き締まり、覇気にあふれ、まなざしは力強く凛とした光を帯びた。
 そんな息子に千鶴は目を細めつつ、最後のおにぎりに手を伸ばした。が、潤の手に先に奪われる。口を尖らせる千鶴を尻目に、潤はおにぎりにかぶりついた。
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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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