文字数 7,783文字

        一

 リビング兼ダイニングルームの窓にはまだカーテンがなく、朝陽がまともに入ってくる。そのせいで室内のすべてが明るい。まぶしすぎて浮ついて見える。白いダイニングテーブルも、その上の食パンやスープの食器も、カフェオレ入りのマグカップも、壁際の荷解きされてない段ボール箱さえも。広告写真のモデルルームみたいで、どことなくリアリティーがない。
 いや、リアリティーがないのは、このメンツでテーブルを囲んでいるからか……。
 (じゅん)は味気ない食パンをもそもそ食べつつ、古賀崎(こがさき)家の朝食風景を眺めた。
「やっぱり田舎の夜って静かよね。ゆうべはもう爆睡よ。起きたらすっきり。十歳くらい若返って十代に戻った気分よ」
 潤の向かいの席で、十歳若返ってもけっして十代にはならない千鶴(ちづる)が、食パンにイチゴジャムを塗りつつ言った。
「あはっ、チズは酔いつぶれてただけじゃん。あれじゃ隕石が落ちても起きないよ」
 潤の左ななめに座ったオンが、ゆで卵を頬張りながら笑う。
「あら、オンちゃん、わたしそんな呑んでないわよ。たしか缶ビールを……二本? あとは焼酎……の一升瓶が今朝転がってたのは、なにかしら、幻かしら? 疲れてたのね」
 千鶴がわざとらしく自分の肩を叩くと、
「引っ越してきたばかりで、無理もないのです。そうだチズさん。あとで肩を揉ませてほしいのです。わたくし、結構うまいのですよ」と、潤の右ななめでナノコが両手をもみもみさせる。
「ありがと。ナノコちゃんは優しいなあ。できた嫁さんだ。じゃあ肩たたきのお礼に、夕飯はナノコちゃんの好きなもの作ってあげる。なにがいい?」
「すき焼き! 黒毛和牛!」と、オン。
「贅沢!」
「うう……、じゃあ、おにぎり」
「あ、いや、そんなにグレード下げられると、こっちが申し訳ない感じになるんだけど。ていうかわたし、オンちゃんには聞いてないんだけどなー」
「あ、チズ、わかってないなあ。あたしとナノコはふたりでひとり。基本オンナノコだもん。好きなものも一緒。だよねナノコ?」
「ええ、一心同体ですから。だからチズさん、わたくしも、すき焼きとおにぎり、どちらも大好物なのです」
「ここでおにぎりを選択したら、わたし、完全にケチな姑だよね? ……わかった、今日は奮発してすき焼き! 黒毛和牛よ!」
「あと苺大福も!」
「なんて遠慮のない嫁なの! ああ、もうこのさいなんでもいいわ。ふたりともあとで買い物に付きあってね?」
 空色和服姿のオンとナノコが、元気な返事をリビングに響かせた。千鶴の表情も生き生きとしていて、朝の団欒を明らかに楽しんでいる。
 なんだこれ……。超なじんでる。しかも〝チズ〟だし。昨日の今日だぞ。
 潤は秘かに嘆息する。いまだ困惑しているのは自分だけなのだろうか。そしてそんな自分のほうがおかしいのだろうか。
 はしゃぐ三人はすっかり打ち解け、本当の母と娘のよう。どこからどう見ても和気藹々としている。そんな光景を見つつ、潤は昨日を振り返る。衝撃イベントのオンパレードだった。
 昨日の肖像蛾との戦闘後。
 オンとナノコはオンナノコに戻れなかった。分裂の原因は、潤がオンナノコの名を呼んだ際、ちゃんと言い切れなかったこと。そのせいでオンナノコの名が分断され、名授(めいじゅ)言霊(ことだま)の力によって、オンナノコ自身も二個体になった。名は体を表すとは、まさにこれ。
 そのあと潤は繰り返しオンナノコの名を呼びなおした。が、効果は現れず。オンナノコを分裂させた言霊の力が、よほど強列だったのだろう。しかも潤が意識してそうしたわけではないので、今度はふたりを元に戻そうにもやり方がわからない。守り神のオンとナノコにも、こればっかりはどうにもできないらしい。
 結局解決策が見つからないまま夕方に。日を改めて対策を練ようと帰宅することになった。
 潤は陽気(ようき)(ほうき)に、オンとナノコは正常に戻った肖像蛾に乗って学校をあとにし、守り神のふたりは、上雲津(かみくもつ)九十九神(つくもがみ)村長(むらおさ)大根おじじへの報告に向かった。
 潤のほうはほどなくして陽気箒から降り、ひとりで歩いて帰ることにした。一連の出来事で動揺しきった精神状態を落ち着かせたかったし、昼食を買いに出かけて、帰りがこれほど遅くなったことを、千鶴にどう説明したらいいか考えなければいけなかったからだ。とはいえ事実をそのまま伝えても信じてもらえないだろうし、正気を疑われるのがオチだ。道に迷っていたことにでもして、押し通すしかないか。
 そうして充分時間を掛け、千鶴に動揺を気取られない自信がついた頃に、家に到着した。そこで迎えてくれたのが、
「お帰り、潤」
「お帰り、夫くん」
「お帰りなさい、夫さん」
 千鶴とオンとナノコの三人だったから、もう動揺どころじゃない。一瞬心臓が止まるかと思うくらい驚いた。呆然と玄関先で立ちすくむ潤に、守り神のふたりは赤面しつつ言った。
「きょ、今日から新婚生活だからね」
「ふつつかものですが、良き妻になれるよう頑張るのです」
 オンとナノコに分かれたとはいえ、彼女たちはオンナノコ。名授の潤との言霊(ことだま)夫婦(めおと)に変わりはないからと、古賀崎家に嫁いできたという。つまりこれからは同居というわけだ。
 そんなのむちゃくちゃだ、と潤は思った。が、本当のむちゃくちゃな存在は、彼女たちの隣で缶ビール片手に大喜びしていた。
「結婚おめ~! かんぱ~い! 言霊夫婦に、もいっちょ、かんぱ~い!」
「千鶴、どういうことだ!? ていうか、ふたりが見えてんのか!?
「もちろんれすよ~。さっきオンちゃんとナノコちゃんから事情聞いたんだも~ん」
 ナノコが控えめに口を挟む。
「わたくしの神通力で、チヅさんにはわたくしたちが見えるようにさせてもらいました」
「よかったじゃん、潤。こんなかわいいお嫁さんもらえて。しかもふたりも。一夫多妻だなんて、法律ぶっ飛ばしちゃうとは、あっぱれあっぱれ。あんたもやるわね。このリア充め」
 潤はめまいがした。千鶴が細かいことを気にしない性分なのは知っていたが、これはあんまりだ。それともアルコールのせいで脳味噌がイッちゃったのだろうか。
「千鶴、大丈夫か? 本当にわかってんのか? 上雲津の守り神と夫婦だぞ。中学生で結婚だぞ」
 千鶴は拍子抜けするくらいあっさりと「いいじゃない」と、認めた。
「これも運命ってヤツなのかもね」
 運命?
「あんたには話してなかったけどね。わたしのおばあちゃん、つまりあんたのひいおばあちゃんも、当時の守り神と言霊夫婦だったそうよ」
 怒涛の一日、その最後を締めくくるにふさわしい、衝撃の事実が発覚した。

「夫くん、どったの? ぼ~っとして」
「気分でも悪いのですか?」
 古賀崎家の朝の食卓。いつの間にか、オンとナノコが潤を心配顔で覗き込んでいた。物思いに(ふけ)っていた潤は頭を振った。
「なんでもない。ちょっと考え事をしてた」
「あら、潤。幸せボケ? それとも美少女嫁に見惚れてたかな、夫ちゃん?」
 その呼び方はよせ。
 潤が恨めしげに睨んでも、千鶴はフンフンと鼻歌まじりで「ひ孫の結婚を、天国のおばあちゃんもきっと喜んでるわね~」と、遠い目をする。潤は肩を落とした。
 ひいばあちゃんが名授だったなんて、そんなのありか……。
 その曾祖母、名を洋子(ようこ)と言う。
 村一番のべっぴんと評判だった洋子は当時の守り神に見初められ、夫婦になった。以降、ふたりは幸せな人生を送ったらしいが、生涯、子宝には恵まれなかった。のちに千鶴の父となる一人息子は、遠い親戚から貰い受けた養子だったらしい。だから千鶴には言霊夫婦の血が流れていない。今まで九十九神を見ることができなかったのも、そのせいだろう。しかも千鶴が生まれたとき、洋子はすでに鬼籍に入っていたので、守り神や名授に関して直接話を聞く機会もなかった。
 その代り、千鶴の父が幼い千鶴に、洋子から聞いた話をよくしてくれたという。九十九神や守り神のこと、名授や言霊夫婦のこと。不思議な九十九神の世界は幼心を魅了し、強い憧れを抱かせることになった。さすがに大人になるにつれ無邪気な憧憬こそ薄れたが、忘れたことはなかった。
 そしてそれが今回、潤の言霊夫婦という形で現実となったのだ。驚きこそすれ、喜んでその事態を受け入れることができたというわけだ。
 ちなみに潤の曾祖父は先々代の守り神で、現守り神のオンとナノコは面識がないという。
 ともあれ、奇妙な因果もあって、潤とオンナノコの言霊夫婦はまさかの親公認に。潤は嘆かずにはいられない。
 結婚は勘弁してくれ。
 やはりそこは受け入れられない。オンナノコも、それからオンとナノコもかわいくて魅力的だ。そんな彼女たちからの好意がうれしくないわけはない。が、結婚となれば話はべつ。年齢的に早すぎるし、そんな覚悟もない。それに守り神と一緒に上雲津を守る名授の立場も、普通の十三歳には重すぎる。手に余る。だから断ろう。そう決めている。
 しかしそのことをオンナノコに伝えたいのだが、彼女がオンとナノコに分裂したことで、その機会を逸していた。
 この不可思議で微妙な状況。
 潤が契り名をつけて言霊夫婦になったのは、幼い頃一緒に遊んでいた親友、オンナノコだ。オンでもなければナノコでもない。本質的に同一だと言われても、なんとなく釈然としない。やはり結婚解消という大事な話は、オンナノコとするのが筋ではないかと思うのだ。
 しかもオンナノコの分裂原因は潤にあるのだから、まずは彼女たちを元に戻すことが先決。結婚解消話はそのあとにしよう。それが〝男らしく〟けじめをつけるということだ。
 そんな決意を秘めた潤の前で、オンとナノコはあくまで妻として振る舞おうとする。
「夫くん、悩みがあるなら言ってね。あたし、夫くんのためならなんだってするもん。もし夫くんが願うなら、〝上雲津町〟を〝夫くん町〟に変えてもいいよ」
「そうですよ夫さん、夫婦間に隠し事はなしなのです。お望みでしたら、わたくしのスリーサイズだって今ここで大公開……あ、でも、夜にふたりっきりのときのほうがよいでしょうか、うふふ」
「いや、町の名もスリーサイズも遠慮しとく」
 ふたりのまっすぐな好意に、結婚解消を望む潤の胸がチクリと痛む。うしろめたさを紛らわそうとマグカップのカフェオレをあおった。が、
「あ~、夫くん、そのカップ、ナノコの」
「あら、夫さんと間接キスなのです」
 そんなふたりの声に盛大にむせ、カフェオレまみれになった。

 朝食後は引越しの荷物整理をすることになり、オンとナノコも「嫁として当然」と、快く手伝ってくれることになった。元々千鶴と潤のふたり暮らしだったから、東京のマンションから運んできたものはそれほど多くない。四人で片づければ、昼過ぎくらいには終わるだろう。
「それにしても、ホントに七年も空き家だったのか、ここ」
 段ボール箱から布団やクッションを取り出しつつ、潤はあらためてリビングを眺めた。フローリングの床は磨きあげられているし、天井や壁にはシミひとつない。感心するほど綺麗だ。千鶴の父母が千鶴が生まれる前に建てたというから、築年数は相当なものだろうし、七年間無人だったらもっと痛んでいてもおかしくない気がした。
「引越し前に清掃業者に入ってもらったってのはあるけど……」と、食器を包む新聞紙を剥がしながら千鶴が応える。
「わたしの父さんが昔、言ってたわ。言霊夫婦の家はその加護によって栄え、守られるものだ、って。ねえナノコちゃん、そういうのってある?」
 箱から千鶴の衣服を出していたナノコは「そうですねえ」と、うなずいた。
座敷(ざしき)(わらし)さんのように、九十九神には幸運を呼ぶ方たちが少なくないのです。守り神だって突き詰めれば、ひとや九十九神の幸福を守る神ですし。ですから名授さんとの愛の相乗効果で、ひとにも家にも、おそらくよい影響が出ると思うのです」
 荷物から出てきた漫画を、こっそり見ていたオンが顔を上げる。
「あ、わかった。つまりあれだ。夫くんのひいおばあちゃんとひいおじいちゃんのおかげってこと。言霊夫婦の力が、この家を守ってたってわけだよね?」
「わたくしもそう思うのです」と、ナノコが同意する。
「でもこれからはわたくしたちの番なのです。夫さんと夫婦の絆を深め、愛を育み、それによっておうちにも幸福と繁栄をもたらしましょう」
 千鶴がなにかに思い当たったように目を光らせた。
「それって、家内安全とか商売繁盛とか? やらしい話、お金もちになったりするの?」
「ホントやらしい話だな」
 潤の非難を無視し、千鶴が興味津々といった表情でナノコを窺う。ナノコは細い顎に指を当て「う~ん」と、思案したあとでにっこり笑った。
「言霊夫婦がラブラブなら、一財産を築くくらいたやすいと思うのです」
「きた、人生勝ち組! 潤、守り神ちゃんと末永く幸せになりなさい!」
 ガッツポーズする千鶴に、げんなりする潤。
「千鶴には幸福じゃなく神罰をくだしてくれ……」
〝ラブラブ夫婦〟を期待する三人の視線にいたたまれず、潤は段ボール箱を抱えて立ち上がった。箱の中身はゲームや漫画本。無性にそれらで現実逃避したい気分だ。
「これ、二階に置いてくる。俺の荷物だし」
 そう言って、逃げるようにリビングをあとにした。

 引越し荷物の整理があらかた終わったのは、午後二時すぎだった。
 潤は最後に、二階の自室のチェストに衣服を入れ終え、それから一階へ降りた。キッチンを覗くと、千鶴たちが台所用品を片付けていた。ダイニングボードにグラスを並べているオンに、シンクを拭いているナノコ。千鶴はトースターや電気ケトルの配置に余念がない。
「こっちはほとんど終わりだから、あんたはもういいわよ」
 千鶴にそう言われ、潤はリビングに向かった。先程まで積み重なっていた段ボール箱がなくなり、代わりにテレビやソファが設置された室内を見回し、やり残しがないことを確認する。テレビボードの上には亡き父、道孝(みちたか)の笑顔を収めたフォトスタンドもある。
「完璧だ」
 満足気に呟くと、庭に面した掃きだし窓から足を投げ出し、腰を下ろした。ふぅっと息をつき、庭を眺める。あちこち生い茂る雑草は気になるが、庭の手入れは別の日でいいだろう。〝男らしく〟重い荷物の片付けを一手に引き受けたせいで、さすがに疲れた。昨日からの気疲れも、間違いなくあるだろうし。
 キッチンから笑い声が聞こえてくる。あれはオンだろうかナノコだろうか。口調はずいぶん違うが、ふたりの声質はやはりオンナノコにそっくりだ。
 いや声ばかりではない。ふとした瞬間、オンやナノコがオンナノコに重なって見え、ハッとすることがある。たとえばそれはオンが千鶴に呼ばれて振り返ったり、ナノコが指で髪をかきあげたり、ふたりが潤に微笑んだりしたときだ。そこにはたしかに、七年間自分を待っててくれた親友がいて、どうだわらわの変装は? ――などと言いたげな茶目っ気たっぷりな顔を覗かせたあとで、オンやナノコの姿に戻っていく。
 本当にオンやナノコが、オンナノコの変装した姿に見えたりもする。そんな感覚があるものだから、オンナノコが分裂してオンとナノコになっても、オンナノコがいないとは少しも思えない。もちろん実際オンとナノコはオンナノコだ。本人たちもそれを自覚しているから取り乱すこともない。元に戻る方法は考えているのだろうが、切羽詰った様子はない。おかげで分裂の原因を作った潤も、必要以上に深刻にならずにすんでいるのだが。
 でも……。
 潤は心で呟き、ごろんと寝転がった。
 やっぱり早くオンナノコを元に戻さないとな。オンナノコのためにも自分のためにも。
 そのためにはどうすれば? 〝(まな)〟……言霊(ことだま)……名授(めいじゅ)の力……それらを使いこなせるようにならないとダメなのか? ゲームならレベル上げが必要って感じか?
 つらつら考えているうちに、眠気に襲われた。庭から吹く春風が、疲れた身体を心地よくなでていく。ほのかに草と土の匂いがする。懐かしさと新鮮さが混じった故郷の匂いだ。悪くない。どこかでウグイスが鳴いた。
 潤は目をつむった。瞼の裏にオンナノコの笑顔が浮かんだが、それもすぐに意識とともに眠りの淵へ落ちていく。
「あら、夫さんが」
 声が聞こえた気がした。でももう目を開けられない。
「ん? 夫くんがどうかした――」
「オン。し~っ、なのです」
 そんなやりとりも次第に遠のき、潤はすうっと、陽だまりに身を溶かすように眠った。

「オンちゃん、ナノコちゃん、そろそろ買い物へ――」
 仏間を整え終わった千鶴は、リビングにやってきて立ち止まった。
「おやおや」と、眼鏡のブリッジを指で上げなおし、ふっと笑う。
 掃きだし窓のレースのカーテンが、風にそよいでいる。ふわり、ふわり、と。そしてその下で、子供たちが眠っていた。潤を真ん中にオンとナノコが寄り添うように。三人の寝顔はあどけなく、降り注ぐ春の日差しは、彼らを守るように優しい。
「まだまだガキくさい潤が、言霊夫婦とはねえ……」
 どうなることやら、と思いつつ、リビングを見回した。
 生活の準備が整った家の中。ふたりだけで住むには広すぎてさびしいかも、と引越し前は思っていた我が家は、実際にはそんなことはなかった。にぎやかな温もりに満ちている。
「かわいい守り神ちゃんのおかげね」
 潤の横で子猫みたいに眠るふたりの少女に感謝したあとで、テレビボードの上の夫の写真に目を向けた。とびっきりの笑顔の写真。幸せそうだ。いや実際幸せだったはずだ。あのひともわたしも。その写真を撮ったときのことは、今でもよく覚えている。千鶴の妊娠がわかった日だからだ。今日から子供の名前を考えるぞ、と子供みたいにはしゃいでいた夫の姿が懐かしい。
 夫が亡くなったあと、この写真を見るのがつらかった時期もあった。写真の中の幸せと現実との隔たりを埋めるものが、悲しみしかなかったからだ。
 でも今は違う。相変わらず悲しいときも寂しいときもあるけれど、潤とふたりで過ごしてきたこの数年で、写真の中の幸せとの隔たりがだいぶなくなってきた気がする。うれしいこと、優しいこと、あたたかいことでその溝を少しずつ埋めることができたのだ。きっと。
 だってあなたの写真を見て、こんなにも穏やかな気持ちになれるのだもの。
「でも、まだまだ……よね?」
 ぽつりと呟き、千鶴は写真の中の道孝に語りかけた。
「もっともっとわたしたち、幸せになるから。特等席で見ていてちょうだいな」
 微笑み、それから両手を上げて伸びをした。陽だまりの三人を見やり、
「もうちょっとあとにしましょ、買い物」
 鼻歌を歌いつつ、足取り軽くリビングから出て行った。

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登場人物紹介

古賀崎 潤(こがさき じゅん)


十三歳の中学生。

故郷、上雲津の守り神のパートナーになり、つくも神の世界に関わっていくことになる。


守り神のオンナノコ


上雲津の地を守護する守り神。

責任感が強く、上雲津のつくも神と人々が大好き。潤のことはそれ以上に愛している。

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