三
文字数 8,955文字
三
バスがふたつ目の停留所に着く頃には、周囲は商店街から住宅地へ変わった。そこから進むにつれ、家々の間に草地や疎林が多くなり、田畑も目立ってくる。
青い屋根の公民館、小さな郵便局、三叉路 、駄菓子屋、石段の先の鳥居に、潤 は見覚えがあった。ようやくここが自分の故郷だと実感する。
なにせ七年ぶり。住んでいたのは六歳の頃までだ。
七年前。その頃すでに祖父母は亡くなっていたが、父親の道孝 は健在だった。
古賀 崎 家の婿養子だった道孝は一級建築士で、住宅、企業社屋、公共施設などを手掛けていた。仕事は順調で、さらに建築士仲間と共同出資で東京に設計事務所を開くチャンスを得て、古賀崎家は上雲津 をあとにした。
しかしそれから一年。事務所が軌道に乗りはじめた矢先、道孝は病に倒れ、半年ほどの闘病生活の末、帰らぬ人となった。できの悪いフィクションめいた、唐突で無情な出来事だった。
潤が身を引き裂かれるような悲しみを乗り越えられたのは、千鶴 のおかげにほかならない。千鶴は愛する夫の死に塞ぐことなく、たくさんの愛情を潤に注ぎ、仕事も人一倍こなした。精力的に行動する母に引っ張られる形で、潤は少しずつ心の平安を取り戻していったのだ。
今の潤にはわかる。当時の千鶴の頑張りが、優しさが、強さが。いろんな面で古賀崎家を支えてくれていたのかが。
だからこそ、これからは千鶴に心配や負担を掛けたくないと思っている。中学生ができることは限られているけれど、父に言われたように〝男らしく〟なって、大切なものを守る強さを手に入れたい。潤はいつからかそう考えるようになっていた。
「とうちゃーく!」と、千鶴の声が響いた。
バスを降り、十分ほど歩いたところで古賀崎家へ到着した。畑や林の間に一軒家が点々と並ぶ地域だ。近所からかすかに鶏の鳴き声が聞こえてくる。向かいの家の塀の上では、三毛猫が丸くなって昼寝中。バスが通っていた道はアスファルト舗装されていたが、古賀崎家の前の通りは土の地面だった。
「なかなかいい感じだと思わない? この竹」
古賀崎家の敷地をぐるりと囲む人工竹の垣根は、七年間ほったらかしだった生垣が修復できない状態だったので、前もって業者に新設してもらったものだ。その一角が途切れ、門になっている。
門前に立ち、潤は我が家を見上げた。二階建ての古い一軒家だ。
ぼんやりと覚えている。くすんだクリーム色のモルタル壁、黒い瓦屋根。正面から見ると、玄関と窓の位置が、眼鏡をかけた顔のように見えること。リビングに面した庭。庭の隅にあった桜の木は、今はもう花を散らせたあとだ。
そんな光景に、懐かしさがぐっと込み上げたとき、
「ぐ~」
千鶴の腹が鳴った。昼時だった。
近所の様子を見たかったので、潤は自分が買出しに行くことにした。
「ねえ、潤、覚えてる? 丸岡スーパー。地元産の野菜が売りの。今も絶賛営業中みたいよ」
かすかに聞き覚えのあるスーパーの名と場所を教えられ、潤は出かけた。
歩きながらスマホを確認。アンテナ表示は点灯している。上雲津でスマホが使えるのか一抹の不安があったが、それは杞憂だったようだ。時間を見ると午後一時。スーパーまでは歩いて十五分ほどらしいから、二時までには帰ってこられるだろう。
春の日差しと風が心地いい。胸いっぱいに空気を吸い込むと、土や草花の匂いに満たされ、心も身体も清涼感に包まれる。それが和服少女や猫翁 の幻覚を見た衝撃を彼方へ追いやってくれた。
あれ以来変なものは見てないし。ま、大丈夫だろ。
そんな楽観的な気分で歩いていく。周りの景色は見覚えがあったりなかったり。
こんなペンション風な家はなかった、ここの郵便ポストは覚えてる、あの坂を雪の日にソリで滑った……などと、記憶と照らし合わせつつ歩いていたら丸岡スーパーに着いた。
昼食用と夕食用の弁当、それから明日の朝に食べるために食パンやインスタントスープなどを購入した。スーパーの前にたい焼きの屋台があり、やたらうまそうだったのでそれも二尾買った。
これから頻繁に利用するはずのスーパーと古賀崎家の位置関係は把握したので、どうせならと来たときとは別の道を帰ることにした。七年ぶりの故郷の様子を早く知りたかった。
そうしてしばらく歩いたところで、潤の足は止まった。
「……公園」
目の前に公園があった。ひとけはない。砂場、ブランコ、ジャングルジム、すべり台、ベンチのある児童公園。端から端まで、走れば十秒もかからないだろう。植え込みに囲まれた園内には、イチョウの木がぽつんと立っている。
胸が高鳴った。ここは……来たことがある。潤は買い物袋をガサガサ言わせつつ、足を踏み入れた。
〝最後にひとつ頼みがあるぞ〟
記憶の底にあった声がよぎり、誰かの顔が浮かびかけた。が、たしかなものになる前にそれは消えてしまう。潤は「う~ん」と唸り、公園のあちこちに視線を巡らした。ここで遊んでいたことを思い出す。
ブランコを漕いだ。かくれんぼをした。砂の城を作った。水風船を投げ合った――誰かと一緒に。
誰だ?
あの頃、いつもそばには誰かいた気がする。ふたりで遊んでいた。この町で、この公園で……。
思い出を探りながら、砂場の脇にしゃがんだ。こんなに狭かったっけ、と思いつつ買い物袋を置き、手で砂をひとすくい。さらさらと指の間から零れていく。それが曖昧な記憶のかけらみたいで歯痒くなる。
ザッと背後で足音が聞こえたのは、そのときだった。
振り返ると、すぐうしろに一体の地蔵 菩薩 像 が鎮座していた。道端に祀られていそうな石造りのお地蔵さんだ。鼠色の身体の一部には、年月を感じさせる苔が生えている。一見、なんの変哲もない地蔵と思いきや、
「……アフロ?」
その地蔵、頭がアフロヘアだった。
潤は怪訝顔で、地蔵の頭を注視した。豊富すぎる髪がある。普通の地蔵に誰かが悪戯でかつらをかぶせたみたいに、そこだけ石造りではないボリューム感たっぷりの髪が頭を覆っていた。いや、実際誰かの罰当たりな悪戯かもしれない。
潤はそう思い、取ってあげようと地蔵のアフロヘアに手を伸ばした。「でもこんな地蔵、さっきまであったか?」と、頭を捻りつつ。
しかしその手がアフロヘアをつかむより先、突然地蔵の袈裟 がひるがえった。メキメキッと足が持ちあがり、アフロ地蔵が動き出す。
「な!?」
ぎょっとして砂場にしりもちをつき、そのまま後方へ下がって、アフロ地蔵と距離を取る。強張った手を動かし、頬をつねってみた。痛い。夢じゃない。アフロ地蔵は重い足音を立てて、一歩、一歩と近づいてくる。
地蔵が……歩いてる!?
突如起きた異常現象に鳥肌が立ち、口中が一瞬で乾いた。また幻覚かとも思ったが、もしそうだとしても、その幻が自分に害をなさないとは言い切れない。言い切れないくらいアフロ地蔵がリアルだったからだ。
「ば、化物……」
へたり込んだ潤とアフロ地蔵は同じくらいの背丈だ。でも恐怖のせいか、潤にはもっと大きく見えた。アフロ地蔵は、石造りの手足を柔軟に動かして歩いてくる。慈愛に満ちた菩薩顔がかえって不気味だ。その石の笑みを浮かべたまま、アフロ地蔵の口が動いた。
「あらまあ、やっぱりあんたあたいのこと見えてんのねえ? 珍しいこと。でも化物ってなにさ? 失礼しちゃうわあ」
男か女かわからないハスキーボイスとねっとりした口調で、アフロ地蔵は言った。
潤は驚きのあまり動けない。アフロ地蔵は潤をじぃっと見つめ、それから「うふん」と、身体をくねらせた。
「かわいい目の子ウサギちゃんねえ。なによなによ、そんな熱い視線であたいを口説くつもりかしらん?」
頬に手を当て、はずかしそうに身をよじる。くねくねくねくねと、石製とは思えない柔らかさ。それに合わせてアフロ地蔵の顔が左右を向き、潤から目が逸れた。それに気づいた潤はとっさに買い物袋をつかんで立ち上がると、慌てて駆けだした。
逃げるなら今だ!
〝男らしく〟戦おう、なんて選択肢は残念ながら浮かばなかった。
「あらまあ、逃がさないわよ。だってさっきからよだれが止まらないんだもの。頭をガブリと齧 って、舌でくちゃくちゃ味わったら、あたいきっと絶頂しちゃうんだからあ」
背後で聞こえたアフロ地蔵の声に身の毛がよだつ。
俺を食う気か!? 地蔵のくせに!
顔面蒼白になりつつも、公園口を目指し懸命に走った。行く手にはすべり台。前のめりになって、スロープの下をくぐり抜けようとした。が、ドンッと衝撃音が響き、空気が震えた。横を見ると、すべり台の鉄製の支柱になにかが巻きついている。黒々として幾重にも巻かれたそれは、
「か、髪!?」
アフロ地蔵の毛髪だった。縮れ毛だったそれは、アフロ地蔵の頭部からしなやかに伸びている。
「そうねえ、まずは胴体をふたつに裂いて、中身をぺろぺろしようかしら」
アフロ地蔵の声にびくりとし、潤は振り返った。と同時に、アフロ地蔵の髪は、伸びたゴムが元に戻るように縮み、その力でアフロ地蔵の身体を引き寄せた。ビュンッと風を切り、飛んできたアフロ地蔵が一瞬で迫る。潤は身構えることすらできなかった。
体当たりの衝撃に潤は吹き飛んだ。空中でのけぞったまま、植え込みの茂みに背中から突っ込む。
「いって~っ」
全身が痛かったが、植え込みがクッションになったおかげで、大きな怪我はしていないようだ。持っていた買い物袋は足元に落ち、弁当とたい焼きの包みが覗いている。自分の帰りを待っているはずの千鶴が頭をよぎり、申し訳なさと悔しさが恐怖に混じった。視線を上げると、アフロ地蔵がのっしのっしと接近してくる姿が見えた。
このままじゃ食われる!
立ち上がろうと必死にもがくが、植え込みに手足が埋もれてままならない。焦れば焦るほど枝が絡まり、身動きが取れなくなっていく。
「だ、誰かーっ!」
助けを呼んだが、応じる声はない。辺りはしんと静まり返り、人影は見当たらない。アフロ地蔵が迫ってくる。
ありえない。ありえないぞ、こんなの。なんで俺がこんな理不尽な目に合わなきゃいけねえんだ。
生まれて初めて経験する命の危機に、しかも異形の存在に捕食されようとしている非現実的な恐怖に、潤の身体はガタガタ震えだした。
冗談じゃない。助けてくれ。頼む。誰か…………誰か――。
胸中で必死に懇願した、そのとき。
ひらり。
視界をひとひらの葉がよぎった。潤の心境とは裏腹に、あまりに悠長なスピードで落ちるそれは扇形の青葉だ。こんなときだと言うのに、潤の目はなぜかそれに引きつけられ、同時に、どくんっと鼓動が高鳴った。
イチョウ?
すぐ近くに、イチョウの木が立っていた。枝を生き生きと広げ、小ぶりの葉をつけ、背景に空を背負っている。
「!」
潤は電撃に貫かれたようにハッとした。アフロ地蔵の足音も含め、周囲の音が恐怖とともに遠のいていく。視界の焦点はイチョウの木、それだけに絞られ、その引力によって、意識が現在から過去へといざなわれていった。
この光景……。
植え込みに埋もれ、イチョウを見上げるこの角度。この目線の高さ……。
潤の視界に映る景色。それが今よりずっと背が低かった、六歳の自分が見ていたものと重なった。
「あ……」
その偶然が、忘却していた記憶の宝箱を開ける鍵となった。そう、それは幼い頃の大切な宝物。七年の月日によって覆い隠されていたけれど、ついに開いた宝箱からは、きらめく記憶が次々飛び出してくる。
〝わらわを忘れたら承知しないぞ〟
〝おう、忘れるもんか〟
この公園でのやりとりがありありと思い浮かぶ。
六歳のあの日。町から引っ越す日。
夕暮れ時。潤の前には空色の和服を着た女の子がいた。
〝忘れるでないぞ。いつかそなたがこの町に戻ったときは、わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ。この地ではわらわはそなたをひとりにさせない。なにがあってもすぐに駆けつける。ビュンッとな。ひとっ飛びだぞ〟
いつも一緒に遊んでいた女の子は、たしかにそう言った。子供の他愛ない約束だ。なのにそれが今、アフロ地蔵に命をむさぼられそうな潤の胸を、強く、激しく打った。
他愛ない約束?……いや、違う。
潤は否定する。単なる希望ではなく信頼によって。根拠はないのに、あのときの彼女を心から信じることができた。
〝わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ〟
女の子の言葉は不可思議な、でも潤を鼓舞する力となる。
言霊 。
唐突にそんな単語が浮かんだ。女の子の言葉は想いのこもった珠玉の言霊となって、ずっと自分の中で眠っていたのかもしれない。潤はそんな気がした。
〝わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ〟
女の子の言葉に意識が引っ張られていく。
いつの間にか、アフロ地蔵が目の前に立っていた。獲物をしとめた喜びに満足するように口の端が上がり、そこからたらたらと唾液が垂れている。でも潤はもう怖くなかった。七年前を巡っていた意識は、今はただ一心に女の子の言葉――言霊を守ることだけに集中していたから。
あの女の子の名は……。
心が凪いでいく。静かに深く心の底に潜り、記憶の宝箱から思い出の糸を探りあてる。すると糸はしゅるしゅるっと思い出の名を刺繍し、それを鮮明に、鮮烈に浮かび上がらせた。
大好きだった友達の姿、声、そして名前。
ついに縫いあがった思い出に、煌々とスポットライトがあたった。
「思い出した」
〝わらわに名を付けておくれ〟と、あの子は言った。
〝超かっけー名前を付けてやるよ〟と、俺は答えた。
息をすうっと吸い込む。それは厳かな儀式のよう。彼女の名を呼ぶことが、今自分がなすべきこと。それがすべて。厳粛な気持ちで、そう確信できた。
「おまえの名は――!」
潤はありったけの大声を上げた。想いを声に宿し、全身全霊で彼方へ飛ばした。時を越え、七年前のあの日に届かせるかのように。
「――〝オンナノコ〟!!」
声は公園を抜け、町を駆け、野を走り、川面に波紋を起こし、野山に木霊 した。そして最後に大空へ昇り、上雲津の天地に広がった。白雲が流れ、日差しが揺らぎ、ピィッと鳶がどこかで鳴く。
オンナノコ――それが引っ越した日、潤が仲良しだった女の子に付けた名前だった。
天才だな、昔の俺。
女の子にオンナノコと名付けた過去の自分のセンスを称えたとき、
「久しぶりだぞ。その甘美な響き」
人影が潤の前に降りたった。白い肌に華奢な体つき。でも胸や腰には、控え目な丸みを帯びている。
それは空色の和服をまとった女の子。ふわりと黒髪を躍らせ、しなやかな姿態をぴんっと伸ばして、潤を守るようにアフロ地蔵と対峙する。
「ずっと捜していたんだぞ。さっきの電車にはさすがに追いつけなくて……無念無念」
女の子は身体をアフロ地蔵に向けたまま、顔だけ振り返った。涼やかな墨色の瞳と細い眉、朱色の唇、艶やかできめ細かい肌、すべてが魅力的だ。
「お、おまえは……」
人形のように精緻な顔立ちの彼女は、電車を追いかけてきた和服少女だ。そしてその姿を間近で見た瞬間、潤の思い出の幼い女の子が、映像の早回しのように時を刻んだ。幼児から少女へ変わっていく思い出の友達。
潤は確信する。目の前の彼女……それが思い出の女の子の、丹念に年月を重ねた、今の姿だということを。
そう、彼女は潤が上雲津にいた頃の親友――七年前の別れ際に、なぜか名前を付けた女の子だった。
「……オンナノコだよな?」
オンナノコはニッコリ笑うと、自分の胸にそっと手を置いた。それがオンナノコがよくやる仕草だったと、潤は思い出す。
「お帰り、そなた……いや、古賀崎潤」
植え込みに埋もれたままの潤に、オンナノコが手を差し出した。素直にその手を握り返す。小さく、温かい。オンナノコの手を借りて立ち上がる。彼女の背は潤より頭ひとつ分ほど低い。顔を上気させ、上目使いで潤を見つめるオンナノコ。
「やっと会えた。会えたんだぞ、潤。潤、潤。ずぅ~っと待っていたんだぞ。また会える日を信じ、わらわは頑張った……懸命に……この地で……ほんとに……頑張っ……」
瞳を潤ませ、鼻をぐすっとすする。
「えへへ……泣いちゃった……また潤に泣き虫だって笑われてしまう……」
ポロリと零れた涙をぬぐい、健気に笑うオンナノコ。
「いっぱい話したいことも、訊きたいこともあるんだぞ……そしていっぱい……めいっぱい、潤に触れたい……だって七年も離れてたんだから――」
そこでオンナノコはなにかを思い出したのか、いったん言葉を切り、潤の手を離した。不愉快そうに瞳を細める。
「……しかし再会を喜ぶまえに、うむ、やらなくてはならんことがあったぞ」
口調に怒気をにじませ、オンナノコはアフロ地蔵を矢のような視線で射抜いた。
「ひぃっ」
アフロ地蔵は先程までの威勢を失い、石の身体とアフロヘアを激しく震わせた。
「あら、い、いやだわ、そんな怖い顔しちゃダメよん。せっかくの器量よしが台無しじゃないですかあ、守り神さま」
守り神?
アフロ地蔵はオンナノコのことをそう呼んだ。潤にはその意味がわからない。オンナノコはアフロ地蔵を睨んだまま、一歩進み出た。反対にアフロ地蔵があとずさる。
「御髪 地蔵 よ。ひとを襲うとは何事か。おぬし、もしや〝九十九 堕使 〟にでもなったか? ん? もしそうならぼっこぼこのぎったんぎったんにして、徹底的に祓ってやるぞ」
「違います、違いますったらあ。いやあね、おほほ、あたいはただそこのにいさんが持っていたたい焼きの匂いに誘われて」
たい焼き?
潤の足元に落ちた買い物袋。たしかにそこからは、丸岡スーパー前の屋台で買ったたい焼きの甘く香ばしい匂いが漂っている。
「餡子があたいを誘惑したんですよお。涙と色気を武器にした小賢 しい悪女みたいに。あたいってほら、そういうの弱い系の地蔵じゃないですかあ」
どんな地蔵だよ。
「というわけで、守り神さま。悪いのはあたいじゃないの。小悪魔なたい焼きが、魅惑的な香りが、あたしを道ならぬ恋に引きずり込もうとしたのがいけないの。それがすべて。ファイナルアンサー、こし餡さあ」
「なるほど、たい焼きなだけに、こし餡さあ――って、そんなダジャレで許されるか!」
オンナノコの黒髪が、怒りのせいかゆらりとなびく。
「たとえたい焼き目当てでも、ひとに悪さするなど言語道断! しかも……しかもわらわの潤を襲うとは……けっして許されん! 重罪だぞ! その身体、漬物石にでもして――」
「あ、いやん、守り神さま、落ち着いて! 堪忍して! 後生ですからあ!」
その懇願を無視し、オンナノコは左手をすぅっと掲げた。直後、その手の周りに、鮮やかな光線が走り、なにもない空間に複数の円形と模様、中央に光の文字【神】を魔法陣のごとく描いた。それを見たアフロ地蔵が青ざめる。鼠色の石の肌だけれど、潤にはそう見えた。
「上雲津 守護之 霊妙 ――風 の祓 !」
【神】の字魔法陣が弾け飛ぶや否や、風が生じた。まるで地面から噴出したかのような不可思議な暴風。公園外は相変わらずのどかな昼下がりで、住宅の庭先に立つ木々の枝などは微動だにしていない。なのに局地的な竜巻が三人の周囲にだけ吹き荒れ、土埃が渦巻いた。
なんだなんだ!?
あまりの風力に身体が浮きかけ、潤は手足を踏ん張った。飛んでくる小石に顔をしかめつつ、オンナノコを窺う。
風が!?
土埃を内包した風の渦が、オンナノコの左手の先で轟々と音を立てていた。その大きさは彼女の背丈以上もあり、竜巻をわしづかみにしてるようにさえ見える。
「ああん、ダメ! やめて! お慈悲を、守り神さまあ! このままじゃあたい終了のお知らせだわあ!」
アフロ地蔵が踵 を返し、逃げ出そうとする。が、
「罰当たりめ! お仕置きだ!」
それよりも早くオンナノコが怒鳴り、烈風の塊はアフロ地蔵目掛けて突進した。獣の咆哮にも似た風音を響かせながら。
「ひええええっ!」
烈風の塊はアフロ地蔵を巻き込み、その身体を錐揉 み状に回転させた。石造りの身体をまるで枯葉のごとく翻弄する風の威力。アフロ地蔵は烈風に軽々と持ち上げられ――ビュウッ――そのまま人間ロケットのように飛ばされた。
「いやあああああーんっ」と悲鳴を残し、瞬く間に見えなくなるアフロ地蔵。
しかし潤もまた限界だった。オンナノコを中心に巻き起こる暴風は、すぐうしろの潤にも容赦なく吹きつけていた。
や、やばい、飛ばされる。
ついに潤の身体もふわりと浮きあがった。とっさに伸ばした手は、なにもつかめず空振りする。バランスを崩し、空中でひっくり返ると、急速に地面が遠ざかっていった。
「どうだ潤! わらわもちょっとは強くなったんだぞ! えへん!」
得意げな顔でオンナノコが振り返る。それを視界の端に捉えたのも一瞬、潤はすでに平衡感覚を失い、めちゃくちゃに空中遊泳をしていた。手足がちぎれそうに振り回され、ぐるんぐるんと目が回り、体中の血液が逆流してるような気持ち悪さ。たちまち頭がぼおっとしてくる。
「ああ!? 潤! わらわの……――わらわの夫さまっ!!」
視界が土埃に覆われたあたりで、潤の意識は遠退いた。身体から力が抜け、風の音が急に小さくなる。心身が散り散りになるみたいに五感が失われ、そして――。
〝夫さま〟って…………な……ん……だ?
ちらっとそんなことを考えたのを最後に、潤は気を失った。
バスがふたつ目の停留所に着く頃には、周囲は商店街から住宅地へ変わった。そこから進むにつれ、家々の間に草地や疎林が多くなり、田畑も目立ってくる。
青い屋根の公民館、小さな郵便局、
なにせ七年ぶり。住んでいたのは六歳の頃までだ。
七年前。その頃すでに祖父母は亡くなっていたが、父親の
しかしそれから一年。事務所が軌道に乗りはじめた矢先、道孝は病に倒れ、半年ほどの闘病生活の末、帰らぬ人となった。できの悪いフィクションめいた、唐突で無情な出来事だった。
潤が身を引き裂かれるような悲しみを乗り越えられたのは、
今の潤にはわかる。当時の千鶴の頑張りが、優しさが、強さが。いろんな面で古賀崎家を支えてくれていたのかが。
だからこそ、これからは千鶴に心配や負担を掛けたくないと思っている。中学生ができることは限られているけれど、父に言われたように〝男らしく〟なって、大切なものを守る強さを手に入れたい。潤はいつからかそう考えるようになっていた。
「とうちゃーく!」と、千鶴の声が響いた。
バスを降り、十分ほど歩いたところで古賀崎家へ到着した。畑や林の間に一軒家が点々と並ぶ地域だ。近所からかすかに鶏の鳴き声が聞こえてくる。向かいの家の塀の上では、三毛猫が丸くなって昼寝中。バスが通っていた道はアスファルト舗装されていたが、古賀崎家の前の通りは土の地面だった。
「なかなかいい感じだと思わない? この竹」
古賀崎家の敷地をぐるりと囲む人工竹の垣根は、七年間ほったらかしだった生垣が修復できない状態だったので、前もって業者に新設してもらったものだ。その一角が途切れ、門になっている。
門前に立ち、潤は我が家を見上げた。二階建ての古い一軒家だ。
ぼんやりと覚えている。くすんだクリーム色のモルタル壁、黒い瓦屋根。正面から見ると、玄関と窓の位置が、眼鏡をかけた顔のように見えること。リビングに面した庭。庭の隅にあった桜の木は、今はもう花を散らせたあとだ。
そんな光景に、懐かしさがぐっと込み上げたとき、
「ぐ~」
千鶴の腹が鳴った。昼時だった。
近所の様子を見たかったので、潤は自分が買出しに行くことにした。
「ねえ、潤、覚えてる? 丸岡スーパー。地元産の野菜が売りの。今も絶賛営業中みたいよ」
かすかに聞き覚えのあるスーパーの名と場所を教えられ、潤は出かけた。
歩きながらスマホを確認。アンテナ表示は点灯している。上雲津でスマホが使えるのか一抹の不安があったが、それは杞憂だったようだ。時間を見ると午後一時。スーパーまでは歩いて十五分ほどらしいから、二時までには帰ってこられるだろう。
春の日差しと風が心地いい。胸いっぱいに空気を吸い込むと、土や草花の匂いに満たされ、心も身体も清涼感に包まれる。それが和服少女や
あれ以来変なものは見てないし。ま、大丈夫だろ。
そんな楽観的な気分で歩いていく。周りの景色は見覚えがあったりなかったり。
こんなペンション風な家はなかった、ここの郵便ポストは覚えてる、あの坂を雪の日にソリで滑った……などと、記憶と照らし合わせつつ歩いていたら丸岡スーパーに着いた。
昼食用と夕食用の弁当、それから明日の朝に食べるために食パンやインスタントスープなどを購入した。スーパーの前にたい焼きの屋台があり、やたらうまそうだったのでそれも二尾買った。
これから頻繁に利用するはずのスーパーと古賀崎家の位置関係は把握したので、どうせならと来たときとは別の道を帰ることにした。七年ぶりの故郷の様子を早く知りたかった。
そうしてしばらく歩いたところで、潤の足は止まった。
「……公園」
目の前に公園があった。ひとけはない。砂場、ブランコ、ジャングルジム、すべり台、ベンチのある児童公園。端から端まで、走れば十秒もかからないだろう。植え込みに囲まれた園内には、イチョウの木がぽつんと立っている。
胸が高鳴った。ここは……来たことがある。潤は買い物袋をガサガサ言わせつつ、足を踏み入れた。
〝最後にひとつ頼みがあるぞ〟
記憶の底にあった声がよぎり、誰かの顔が浮かびかけた。が、たしかなものになる前にそれは消えてしまう。潤は「う~ん」と唸り、公園のあちこちに視線を巡らした。ここで遊んでいたことを思い出す。
ブランコを漕いだ。かくれんぼをした。砂の城を作った。水風船を投げ合った――誰かと一緒に。
誰だ?
あの頃、いつもそばには誰かいた気がする。ふたりで遊んでいた。この町で、この公園で……。
思い出を探りながら、砂場の脇にしゃがんだ。こんなに狭かったっけ、と思いつつ買い物袋を置き、手で砂をひとすくい。さらさらと指の間から零れていく。それが曖昧な記憶のかけらみたいで歯痒くなる。
ザッと背後で足音が聞こえたのは、そのときだった。
振り返ると、すぐうしろに一体の
「……アフロ?」
その地蔵、頭がアフロヘアだった。
潤は怪訝顔で、地蔵の頭を注視した。豊富すぎる髪がある。普通の地蔵に誰かが悪戯でかつらをかぶせたみたいに、そこだけ石造りではないボリューム感たっぷりの髪が頭を覆っていた。いや、実際誰かの罰当たりな悪戯かもしれない。
潤はそう思い、取ってあげようと地蔵のアフロヘアに手を伸ばした。「でもこんな地蔵、さっきまであったか?」と、頭を捻りつつ。
しかしその手がアフロヘアをつかむより先、突然地蔵の
「な!?」
ぎょっとして砂場にしりもちをつき、そのまま後方へ下がって、アフロ地蔵と距離を取る。強張った手を動かし、頬をつねってみた。痛い。夢じゃない。アフロ地蔵は重い足音を立てて、一歩、一歩と近づいてくる。
地蔵が……歩いてる!?
突如起きた異常現象に鳥肌が立ち、口中が一瞬で乾いた。また幻覚かとも思ったが、もしそうだとしても、その幻が自分に害をなさないとは言い切れない。言い切れないくらいアフロ地蔵がリアルだったからだ。
「ば、化物……」
へたり込んだ潤とアフロ地蔵は同じくらいの背丈だ。でも恐怖のせいか、潤にはもっと大きく見えた。アフロ地蔵は、石造りの手足を柔軟に動かして歩いてくる。慈愛に満ちた菩薩顔がかえって不気味だ。その石の笑みを浮かべたまま、アフロ地蔵の口が動いた。
「あらまあ、やっぱりあんたあたいのこと見えてんのねえ? 珍しいこと。でも化物ってなにさ? 失礼しちゃうわあ」
男か女かわからないハスキーボイスとねっとりした口調で、アフロ地蔵は言った。
潤は驚きのあまり動けない。アフロ地蔵は潤をじぃっと見つめ、それから「うふん」と、身体をくねらせた。
「かわいい目の子ウサギちゃんねえ。なによなによ、そんな熱い視線であたいを口説くつもりかしらん?」
頬に手を当て、はずかしそうに身をよじる。くねくねくねくねと、石製とは思えない柔らかさ。それに合わせてアフロ地蔵の顔が左右を向き、潤から目が逸れた。それに気づいた潤はとっさに買い物袋をつかんで立ち上がると、慌てて駆けだした。
逃げるなら今だ!
〝男らしく〟戦おう、なんて選択肢は残念ながら浮かばなかった。
「あらまあ、逃がさないわよ。だってさっきからよだれが止まらないんだもの。頭をガブリと
背後で聞こえたアフロ地蔵の声に身の毛がよだつ。
俺を食う気か!? 地蔵のくせに!
顔面蒼白になりつつも、公園口を目指し懸命に走った。行く手にはすべり台。前のめりになって、スロープの下をくぐり抜けようとした。が、ドンッと衝撃音が響き、空気が震えた。横を見ると、すべり台の鉄製の支柱になにかが巻きついている。黒々として幾重にも巻かれたそれは、
「か、髪!?」
アフロ地蔵の毛髪だった。縮れ毛だったそれは、アフロ地蔵の頭部からしなやかに伸びている。
「そうねえ、まずは胴体をふたつに裂いて、中身をぺろぺろしようかしら」
アフロ地蔵の声にびくりとし、潤は振り返った。と同時に、アフロ地蔵の髪は、伸びたゴムが元に戻るように縮み、その力でアフロ地蔵の身体を引き寄せた。ビュンッと風を切り、飛んできたアフロ地蔵が一瞬で迫る。潤は身構えることすらできなかった。
体当たりの衝撃に潤は吹き飛んだ。空中でのけぞったまま、植え込みの茂みに背中から突っ込む。
「いって~っ」
全身が痛かったが、植え込みがクッションになったおかげで、大きな怪我はしていないようだ。持っていた買い物袋は足元に落ち、弁当とたい焼きの包みが覗いている。自分の帰りを待っているはずの千鶴が頭をよぎり、申し訳なさと悔しさが恐怖に混じった。視線を上げると、アフロ地蔵がのっしのっしと接近してくる姿が見えた。
このままじゃ食われる!
立ち上がろうと必死にもがくが、植え込みに手足が埋もれてままならない。焦れば焦るほど枝が絡まり、身動きが取れなくなっていく。
「だ、誰かーっ!」
助けを呼んだが、応じる声はない。辺りはしんと静まり返り、人影は見当たらない。アフロ地蔵が迫ってくる。
ありえない。ありえないぞ、こんなの。なんで俺がこんな理不尽な目に合わなきゃいけねえんだ。
生まれて初めて経験する命の危機に、しかも異形の存在に捕食されようとしている非現実的な恐怖に、潤の身体はガタガタ震えだした。
冗談じゃない。助けてくれ。頼む。誰か…………誰か――。
胸中で必死に懇願した、そのとき。
ひらり。
視界をひとひらの葉がよぎった。潤の心境とは裏腹に、あまりに悠長なスピードで落ちるそれは扇形の青葉だ。こんなときだと言うのに、潤の目はなぜかそれに引きつけられ、同時に、どくんっと鼓動が高鳴った。
イチョウ?
すぐ近くに、イチョウの木が立っていた。枝を生き生きと広げ、小ぶりの葉をつけ、背景に空を背負っている。
「!」
潤は電撃に貫かれたようにハッとした。アフロ地蔵の足音も含め、周囲の音が恐怖とともに遠のいていく。視界の焦点はイチョウの木、それだけに絞られ、その引力によって、意識が現在から過去へといざなわれていった。
この光景……。
植え込みに埋もれ、イチョウを見上げるこの角度。この目線の高さ……。
潤の視界に映る景色。それが今よりずっと背が低かった、六歳の自分が見ていたものと重なった。
「あ……」
その偶然が、忘却していた記憶の宝箱を開ける鍵となった。そう、それは幼い頃の大切な宝物。七年の月日によって覆い隠されていたけれど、ついに開いた宝箱からは、きらめく記憶が次々飛び出してくる。
〝わらわを忘れたら承知しないぞ〟
〝おう、忘れるもんか〟
この公園でのやりとりがありありと思い浮かぶ。
六歳のあの日。町から引っ越す日。
夕暮れ時。潤の前には空色の和服を着た女の子がいた。
〝忘れるでないぞ。いつかそなたがこの町に戻ったときは、わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ。この地ではわらわはそなたをひとりにさせない。なにがあってもすぐに駆けつける。ビュンッとな。ひとっ飛びだぞ〟
いつも一緒に遊んでいた女の子は、たしかにそう言った。子供の他愛ない約束だ。なのにそれが今、アフロ地蔵に命をむさぼられそうな潤の胸を、強く、激しく打った。
他愛ない約束?……いや、違う。
潤は否定する。単なる希望ではなく信頼によって。根拠はないのに、あのときの彼女を心から信じることができた。
〝わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ〟
女の子の言葉は不可思議な、でも潤を鼓舞する力となる。
唐突にそんな単語が浮かんだ。女の子の言葉は想いのこもった珠玉の言霊となって、ずっと自分の中で眠っていたのかもしれない。潤はそんな気がした。
〝わらわの名をすぐに呼ぶんだぞ〟
女の子の言葉に意識が引っ張られていく。
いつの間にか、アフロ地蔵が目の前に立っていた。獲物をしとめた喜びに満足するように口の端が上がり、そこからたらたらと唾液が垂れている。でも潤はもう怖くなかった。七年前を巡っていた意識は、今はただ一心に女の子の言葉――言霊を守ることだけに集中していたから。
あの女の子の名は……。
心が凪いでいく。静かに深く心の底に潜り、記憶の宝箱から思い出の糸を探りあてる。すると糸はしゅるしゅるっと思い出の名を刺繍し、それを鮮明に、鮮烈に浮かび上がらせた。
大好きだった友達の姿、声、そして名前。
ついに縫いあがった思い出に、煌々とスポットライトがあたった。
「思い出した」
〝わらわに名を付けておくれ〟と、あの子は言った。
〝超かっけー名前を付けてやるよ〟と、俺は答えた。
息をすうっと吸い込む。それは厳かな儀式のよう。彼女の名を呼ぶことが、今自分がなすべきこと。それがすべて。厳粛な気持ちで、そう確信できた。
「おまえの名は――!」
潤はありったけの大声を上げた。想いを声に宿し、全身全霊で彼方へ飛ばした。時を越え、七年前のあの日に届かせるかのように。
「――〝オンナノコ〟!!」
声は公園を抜け、町を駆け、野を走り、川面に波紋を起こし、野山に
オンナノコ――それが引っ越した日、潤が仲良しだった女の子に付けた名前だった。
天才だな、昔の俺。
女の子にオンナノコと名付けた過去の自分のセンスを称えたとき、
「久しぶりだぞ。その甘美な響き」
人影が潤の前に降りたった。白い肌に華奢な体つき。でも胸や腰には、控え目な丸みを帯びている。
それは空色の和服をまとった女の子。ふわりと黒髪を躍らせ、しなやかな姿態をぴんっと伸ばして、潤を守るようにアフロ地蔵と対峙する。
「ずっと捜していたんだぞ。さっきの電車にはさすがに追いつけなくて……無念無念」
女の子は身体をアフロ地蔵に向けたまま、顔だけ振り返った。涼やかな墨色の瞳と細い眉、朱色の唇、艶やかできめ細かい肌、すべてが魅力的だ。
「お、おまえは……」
人形のように精緻な顔立ちの彼女は、電車を追いかけてきた和服少女だ。そしてその姿を間近で見た瞬間、潤の思い出の幼い女の子が、映像の早回しのように時を刻んだ。幼児から少女へ変わっていく思い出の友達。
潤は確信する。目の前の彼女……それが思い出の女の子の、丹念に年月を重ねた、今の姿だということを。
そう、彼女は潤が上雲津にいた頃の親友――七年前の別れ際に、なぜか名前を付けた女の子だった。
「……オンナノコだよな?」
オンナノコはニッコリ笑うと、自分の胸にそっと手を置いた。それがオンナノコがよくやる仕草だったと、潤は思い出す。
「お帰り、そなた……いや、古賀崎潤」
植え込みに埋もれたままの潤に、オンナノコが手を差し出した。素直にその手を握り返す。小さく、温かい。オンナノコの手を借りて立ち上がる。彼女の背は潤より頭ひとつ分ほど低い。顔を上気させ、上目使いで潤を見つめるオンナノコ。
「やっと会えた。会えたんだぞ、潤。潤、潤。ずぅ~っと待っていたんだぞ。また会える日を信じ、わらわは頑張った……懸命に……この地で……ほんとに……頑張っ……」
瞳を潤ませ、鼻をぐすっとすする。
「えへへ……泣いちゃった……また潤に泣き虫だって笑われてしまう……」
ポロリと零れた涙をぬぐい、健気に笑うオンナノコ。
「いっぱい話したいことも、訊きたいこともあるんだぞ……そしていっぱい……めいっぱい、潤に触れたい……だって七年も離れてたんだから――」
そこでオンナノコはなにかを思い出したのか、いったん言葉を切り、潤の手を離した。不愉快そうに瞳を細める。
「……しかし再会を喜ぶまえに、うむ、やらなくてはならんことがあったぞ」
口調に怒気をにじませ、オンナノコはアフロ地蔵を矢のような視線で射抜いた。
「ひぃっ」
アフロ地蔵は先程までの威勢を失い、石の身体とアフロヘアを激しく震わせた。
「あら、い、いやだわ、そんな怖い顔しちゃダメよん。せっかくの器量よしが台無しじゃないですかあ、守り神さま」
守り神?
アフロ地蔵はオンナノコのことをそう呼んだ。潤にはその意味がわからない。オンナノコはアフロ地蔵を睨んだまま、一歩進み出た。反対にアフロ地蔵があとずさる。
「
「違います、違いますったらあ。いやあね、おほほ、あたいはただそこのにいさんが持っていたたい焼きの匂いに誘われて」
たい焼き?
潤の足元に落ちた買い物袋。たしかにそこからは、丸岡スーパー前の屋台で買ったたい焼きの甘く香ばしい匂いが漂っている。
「餡子があたいを誘惑したんですよお。涙と色気を武器にした
どんな地蔵だよ。
「というわけで、守り神さま。悪いのはあたいじゃないの。小悪魔なたい焼きが、魅惑的な香りが、あたしを道ならぬ恋に引きずり込もうとしたのがいけないの。それがすべて。ファイナルアンサー、こし餡さあ」
「なるほど、たい焼きなだけに、こし餡さあ――って、そんなダジャレで許されるか!」
オンナノコの黒髪が、怒りのせいかゆらりとなびく。
「たとえたい焼き目当てでも、ひとに悪さするなど言語道断! しかも……しかもわらわの潤を襲うとは……けっして許されん! 重罪だぞ! その身体、漬物石にでもして――」
「あ、いやん、守り神さま、落ち着いて! 堪忍して! 後生ですからあ!」
その懇願を無視し、オンナノコは左手をすぅっと掲げた。直後、その手の周りに、鮮やかな光線が走り、なにもない空間に複数の円形と模様、中央に光の文字【神】を魔法陣のごとく描いた。それを見たアフロ地蔵が青ざめる。鼠色の石の肌だけれど、潤にはそう見えた。
「
【神】の字魔法陣が弾け飛ぶや否や、風が生じた。まるで地面から噴出したかのような不可思議な暴風。公園外は相変わらずのどかな昼下がりで、住宅の庭先に立つ木々の枝などは微動だにしていない。なのに局地的な竜巻が三人の周囲にだけ吹き荒れ、土埃が渦巻いた。
なんだなんだ!?
あまりの風力に身体が浮きかけ、潤は手足を踏ん張った。飛んでくる小石に顔をしかめつつ、オンナノコを窺う。
風が!?
土埃を内包した風の渦が、オンナノコの左手の先で轟々と音を立てていた。その大きさは彼女の背丈以上もあり、竜巻をわしづかみにしてるようにさえ見える。
「ああん、ダメ! やめて! お慈悲を、守り神さまあ! このままじゃあたい終了のお知らせだわあ!」
アフロ地蔵が
「罰当たりめ! お仕置きだ!」
それよりも早くオンナノコが怒鳴り、烈風の塊はアフロ地蔵目掛けて突進した。獣の咆哮にも似た風音を響かせながら。
「ひええええっ!」
烈風の塊はアフロ地蔵を巻き込み、その身体を
「いやあああああーんっ」と悲鳴を残し、瞬く間に見えなくなるアフロ地蔵。
しかし潤もまた限界だった。オンナノコを中心に巻き起こる暴風は、すぐうしろの潤にも容赦なく吹きつけていた。
や、やばい、飛ばされる。
ついに潤の身体もふわりと浮きあがった。とっさに伸ばした手は、なにもつかめず空振りする。バランスを崩し、空中でひっくり返ると、急速に地面が遠ざかっていった。
「どうだ潤! わらわもちょっとは強くなったんだぞ! えへん!」
得意げな顔でオンナノコが振り返る。それを視界の端に捉えたのも一瞬、潤はすでに平衡感覚を失い、めちゃくちゃに空中遊泳をしていた。手足がちぎれそうに振り回され、ぐるんぐるんと目が回り、体中の血液が逆流してるような気持ち悪さ。たちまち頭がぼおっとしてくる。
「ああ!? 潤! わらわの……――わらわの夫さまっ!!」
視界が土埃に覆われたあたりで、潤の意識は遠退いた。身体から力が抜け、風の音が急に小さくなる。心身が散り散りになるみたいに五感が失われ、そして――。
〝夫さま〟って…………な……ん……だ?
ちらっとそんなことを考えたのを最後に、潤は気を失った。