守るべきもの
文字数 2,492文字
8.
絵の具が大好きなフォレナ・ヨリスは、十三歳のときに二人塗り殺した。まだ熟達していなかったので、三、四人めは仕留め損ねたのである。復讐の旅の始まりだ。
ステップを歩き通し、草に寝そべり星々の音に耳を傾け、砂漠で飢え渇き、山岳を臨み、都市とオアシスとそれらの文明再興の程度の差を横目に見、大河に目をみはり、失われたものどもを思い人知れず涙を流しながらフォレナはやってきた。新人種どもを生かしておいてはならぬ、奴らを殺して自分も死ぬ、そう決意を固め、ナイラノイラにたどり着いたときには十六歳になっていた。
資料館の最奥はミュージアムショップになっていて、火災警報が鳴り響くその中へ、左手にパレットを、右手に絵筆を持ってフォレナは入っていった。平日だがそこそこ人がいて、みな薄暗い店内を、係員の誘導に従って非常口から外に出ていくところだった。
「そこの人、早くこっちに来て!」
フォレナは係員を無視して資料館の五つめの棟に通じる廊下へ入っていった。非常灯が緑色に点滅し、背後で係員が応援を呼んでいた。
「不審者が一名〈戦象の間〉へと向かっています! テロリストの恐れあり!」
薄暗い廊下を進むと、アサルトライフルを手にした協会の治安部隊員たちが廊下の角から姿を現した。
「止まれ! 両手を」
両手を上げる必要はなく、ただ右手を払えばこと足りた。絵筆に乗った黄色が増幅され、二人一組の治安部隊員の全身を覆い尽くし、窒息させ、石打ちにされたフォレナの兄と同じく全身を変形させて、あとには人生と人格の名残を感じさせない黄色い塊が残った。黄色のなかでも、それは芥子 色、フォレナの兄が最期に着ていた服の色だった。
フォレナの靴音だけが静かに響く。
パレットの上を絵筆が踊り、黄と黒の渦巻き模様が行手の防爆扉に襲いかかる。その色彩が降りかかった部分が氷のように融けた。
防爆扉の向こうでは、二人の特務治安員候補生が生き残っている学生の救助にあたっていた。血まみれの女学生の脇の下にランゼスが手を入れ、折れ曲がった脚のつけ根をフィフィカが持って、展示室に運んでいく。
「いやだ……お母さん……」
「しっかりして! もうすぐ助けがくるからね!」
エリエーンは、候補生二人は学生たちの最後尾にいる、と言っていた。つまり彼らは生き残りの学生と共に廊下の曲がり角の向こうにいたから爆炎を免れたのだろう。運のいい連中だ。救助に夢中のフィフィカとランゼスは、通り過ぎるフォレナの存在に気付きもしなかった。
廊下を曲がると、死屍累々、そこはまさに地獄だった。千切れた手足、砕けた頭、飛び散った臓物、天井まで血まみれで、床には学生服の残骸とその中身が散らばっていた。
学芸員は突き当たりの壁まで吹き飛ばされて、そこに頭髪つきの頭皮をこびりつかせていた。
学生たちの屍を踏みしめて、フォレナは戦象の間の戸口に立つ。
ドーム型のガラスの天井から光が降り注ぐ、明るい部屋だった。
黒髪を払う。
戦象は全体的に透き通る黄色、剽軽 者だった兄を思い起こさせる黄色で、砂漠の街の動物園で目にした本物の象と同じ程度の大きさ、鞍があり、象牙はゆらめく水色の炎、長い鼻は敵を打ち据える鞭で、両耳は翼だった。
※
ずん、という重い響き、震動。
何かが起きるとは思っていた。だからミレイよりも、トイレの個室から飛び出てきたエリエーンのほうがよほど慌てふためいていた。
「今の音は何!?」
エリエーンは叫び、青ざめ、両手で口を覆うと、脚から震え始めた。どう見ても演技ではなかった。
「ミレイ! ここにいたのか」
ラジャンが声をかけ、廊下を走ってきた。ミレイは尋ねた。
「ガキどもは?」
「どうなったかわからん。あいつらの運次第だ」
「では幸運を願おう」
ミレイの胸に吊り下げたクリスタルボールがふわりと浮き上がり、真紅が空を切り裂いて廊下の奥に吸い込まれていった。その先で防爆扉が紙のように破れた。扉の向こうからは、炎も熱気も押し寄せてはこなかった。不気味な静けさだった。
「……で、この子が怯えててね」
「私は大丈夫です」
エリエーンが声を振り絞った。
「私、ここにいます」
「いい子だ、エリエーン。私は戦象の間に行くよ」
「俺は正規の観覧ルートを警戒する。ガキ共が無事だったら一人寄越せ」
「はいよ」
どういう惨事になっているかは予想がついていたし、自分が十七歳のときだったら冷徹に天球儀の戦象を守ることだけ考えるなどできなかっただろうから、フィフィカとランゼスが泣いたり血まみれになった学生を展示室にせっせと運び込んでいる姿を見ても、ミレイは叱らなかった。
フィフィカが縋りつくような目を向けてきた。
「ミレイ先生――」
「フィフィカ、私と一緒に来い。ランゼス、君は観覧ルートを逆戻りしてラジャンを援護しろ。正面からの襲撃に備えるんだ」
二人は凍りついた目でミレイを凝視した。
「どうした。聞こえなかったとは言わせんぞ」
「この人たち――」
「任務を忘れたか。私たちが保護するのは学生団ではなく天球儀の戦象だ」
やりとりを聞いていた、右肩から血を流して横たわる学生が、折れた腕をフィフィカに伸ばして懇願した。
「行かないで……」
「フィフィカ」ミレイは重ねて言った。「戦象の間へはもう一本、出口のミュージアムショップから通じる通路があったはずだ。敵勢力がそこから侵入しない道理はない。わかったなら動け!」
ランゼスが先に動いた。ずれたベルトを肩からかけ直し、アサルトライフルの位置を直すと顔の汗を拭いて走り去った。ミレイが命じたほうへ。
「……ごめんなさい!」
フィフィカは無言で訴える全ての視線と呻きを振り払い、ミレイのもとに来た。
廊下に出る。
曲がり角。
血だまり。弾けた四肢。臓物を踏まずに進むのは無理だった。
「気をつけろ、足元が滑る」
言ったミレイは何年かぶりに戦象の間に足を踏み入れた。
白い床に血の足跡がつく。
最後にここにきたとき、セリンが一緒だった。私のカラスアゲハ――。
戦象に変わりはなかった。ただ、その傍らに、絵筆とパレットを持つ、見知らぬ少女が立っていた。
絵の具が大好きなフォレナ・ヨリスは、十三歳のときに二人塗り殺した。まだ熟達していなかったので、三、四人めは仕留め損ねたのである。復讐の旅の始まりだ。
ステップを歩き通し、草に寝そべり星々の音に耳を傾け、砂漠で飢え渇き、山岳を臨み、都市とオアシスとそれらの文明再興の程度の差を横目に見、大河に目をみはり、失われたものどもを思い人知れず涙を流しながらフォレナはやってきた。新人種どもを生かしておいてはならぬ、奴らを殺して自分も死ぬ、そう決意を固め、ナイラノイラにたどり着いたときには十六歳になっていた。
資料館の最奥はミュージアムショップになっていて、火災警報が鳴り響くその中へ、左手にパレットを、右手に絵筆を持ってフォレナは入っていった。平日だがそこそこ人がいて、みな薄暗い店内を、係員の誘導に従って非常口から外に出ていくところだった。
「そこの人、早くこっちに来て!」
フォレナは係員を無視して資料館の五つめの棟に通じる廊下へ入っていった。非常灯が緑色に点滅し、背後で係員が応援を呼んでいた。
「不審者が一名〈戦象の間〉へと向かっています! テロリストの恐れあり!」
薄暗い廊下を進むと、アサルトライフルを手にした協会の治安部隊員たちが廊下の角から姿を現した。
「止まれ! 両手を」
両手を上げる必要はなく、ただ右手を払えばこと足りた。絵筆に乗った黄色が増幅され、二人一組の治安部隊員の全身を覆い尽くし、窒息させ、石打ちにされたフォレナの兄と同じく全身を変形させて、あとには人生と人格の名残を感じさせない黄色い塊が残った。黄色のなかでも、それは
フォレナの靴音だけが静かに響く。
パレットの上を絵筆が踊り、黄と黒の渦巻き模様が行手の防爆扉に襲いかかる。その色彩が降りかかった部分が氷のように融けた。
防爆扉の向こうでは、二人の特務治安員候補生が生き残っている学生の救助にあたっていた。血まみれの女学生の脇の下にランゼスが手を入れ、折れ曲がった脚のつけ根をフィフィカが持って、展示室に運んでいく。
「いやだ……お母さん……」
「しっかりして! もうすぐ助けがくるからね!」
エリエーンは、候補生二人は学生たちの最後尾にいる、と言っていた。つまり彼らは生き残りの学生と共に廊下の曲がり角の向こうにいたから爆炎を免れたのだろう。運のいい連中だ。救助に夢中のフィフィカとランゼスは、通り過ぎるフォレナの存在に気付きもしなかった。
廊下を曲がると、死屍累々、そこはまさに地獄だった。千切れた手足、砕けた頭、飛び散った臓物、天井まで血まみれで、床には学生服の残骸とその中身が散らばっていた。
学芸員は突き当たりの壁まで吹き飛ばされて、そこに頭髪つきの頭皮をこびりつかせていた。
学生たちの屍を踏みしめて、フォレナは戦象の間の戸口に立つ。
ドーム型のガラスの天井から光が降り注ぐ、明るい部屋だった。
黒髪を払う。
戦象は全体的に透き通る黄色、
※
ずん、という重い響き、震動。
何かが起きるとは思っていた。だからミレイよりも、トイレの個室から飛び出てきたエリエーンのほうがよほど慌てふためいていた。
「今の音は何!?」
エリエーンは叫び、青ざめ、両手で口を覆うと、脚から震え始めた。どう見ても演技ではなかった。
「ミレイ! ここにいたのか」
ラジャンが声をかけ、廊下を走ってきた。ミレイは尋ねた。
「ガキどもは?」
「どうなったかわからん。あいつらの運次第だ」
「では幸運を願おう」
ミレイの胸に吊り下げたクリスタルボールがふわりと浮き上がり、真紅が空を切り裂いて廊下の奥に吸い込まれていった。その先で防爆扉が紙のように破れた。扉の向こうからは、炎も熱気も押し寄せてはこなかった。不気味な静けさだった。
「……で、この子が怯えててね」
「私は大丈夫です」
エリエーンが声を振り絞った。
「私、ここにいます」
「いい子だ、エリエーン。私は戦象の間に行くよ」
「俺は正規の観覧ルートを警戒する。ガキ共が無事だったら一人寄越せ」
「はいよ」
どういう惨事になっているかは予想がついていたし、自分が十七歳のときだったら冷徹に天球儀の戦象を守ることだけ考えるなどできなかっただろうから、フィフィカとランゼスが泣いたり血まみれになった学生を展示室にせっせと運び込んでいる姿を見ても、ミレイは叱らなかった。
フィフィカが縋りつくような目を向けてきた。
「ミレイ先生――」
「フィフィカ、私と一緒に来い。ランゼス、君は観覧ルートを逆戻りしてラジャンを援護しろ。正面からの襲撃に備えるんだ」
二人は凍りついた目でミレイを凝視した。
「どうした。聞こえなかったとは言わせんぞ」
「この人たち――」
「任務を忘れたか。私たちが保護するのは学生団ではなく天球儀の戦象だ」
やりとりを聞いていた、右肩から血を流して横たわる学生が、折れた腕をフィフィカに伸ばして懇願した。
「行かないで……」
「フィフィカ」ミレイは重ねて言った。「戦象の間へはもう一本、出口のミュージアムショップから通じる通路があったはずだ。敵勢力がそこから侵入しない道理はない。わかったなら動け!」
ランゼスが先に動いた。ずれたベルトを肩からかけ直し、アサルトライフルの位置を直すと顔の汗を拭いて走り去った。ミレイが命じたほうへ。
「……ごめんなさい!」
フィフィカは無言で訴える全ての視線と呻きを振り払い、ミレイのもとに来た。
廊下に出る。
曲がり角。
血だまり。弾けた四肢。臓物を踏まずに進むのは無理だった。
「気をつけろ、足元が滑る」
言ったミレイは何年かぶりに戦象の間に足を踏み入れた。
白い床に血の足跡がつく。
最後にここにきたとき、セリンが一緒だった。私のカラスアゲハ――。
戦象に変わりはなかった。ただ、その傍らに、絵筆とパレットを持つ、見知らぬ少女が立っていた。