神のお利口さん
文字数 3,537文字
5.
色覚輪郭資料館見学の四日前。
ナイラノイラ人民解放戦線の動きは素早く、マジード氏は協会の保護が及ぶ前に姿を消し、翌朝、目玉をくり抜かれた焼死体となってアンナフェルナの飲食店街のゴミ捨て場で見つかった。
誰が始めたのか、アンナフェルナ地区に旧人種を締め出すバリケードが出現しだした。昼過ぎにはトロマカム地区、夕方にはイルレーン地区にもバリケードが現れ、夜中ごろには、市民たちはすっかりヒステリーに陥って、自分たちの守備範囲を拡大するのに躍起になっていた。トロマカムでは屋根の魔除けや単管パイプ、屋根裏部屋のソファ、腹立たしい姑のドレッサーやとうに用済みとなった椅子とセット販売の学習机とついぞ開かれることのなかった文学全集などがバリケードに変わった。アンナフェルナでは閉店した酒場の自由扉やテーブル、イルレーンでは無能な同僚の机や嫌いな上司のロッカーなどが用いられた。
それらは積み上げても膝の高さまでしかないが、奥行きがあり、針金や鉄板で補強すれば、乗り越えるのに十分な障害となった。バリケードの外側には『強制移民保護地区』の張り紙が出された。
孤児たちはイルレーンの十五番街に集められ、そこからまとめて旧人種の居住地区へと追放された。夜明け前までに、イルレーン十五番街と旧人種地区をつなぐ橋が封鎖された。
「なんとまあ、一夜にして」
『我々の同胞マジードさんの虐殺を決して許してはならない!』
食堂で、スフィアリンクの中継がイルレーンでの演説を映していた。
フィフィカが「おいしい、サバおいしい」
「なんとまあじゃないぞ。働き口を失った旧人種どもが黙っていると思うか」
「唾を飛ばすな、ラジャン。誰かがつまらん仕事や汚い仕事をやらねばならんと思い出せば、市民もまた旧人種を受け入れざるを得ないさ」
「そうだといいんだがな」
ランゼスが「キッシュもうまいぞ、フィフィカ」
「ま、学生団見学の当日におかしな奴らが資料館に押し寄せる確率が減ったと考えればいいじゃないか。その任務が終われば候補生たちは今度こそ休暇、君はリリファと結婚式場の下見、私は新しい酒を開ける、と」
「つくづく楽天的な奴だ」
フィフィカが「ほんとだおいしいキッシュおいしい」
「訂正しよう」ラジャンがコーヒーを飲み干し、カップを置いた。「つくづく楽天的な奴
「君もあれこれ思い悩むのをやめて飯をかきこんだらどうだ? 朝飯を抜くと頭の回転が遅くなるぞ」
「ガキども」
若い二人はアスパラガスとベーコンのキッシュにかぶりつくのをやめてラジャンを見た。
「旧人種地区との交流は夜八時に絶えるのに、火つけ野郎は早朝のアンナフェルナで見つかった。この意味がわかるか」
ラジャンはテーブルに手をついて立ち上がった。
「夕方に答えを聞く。考えておけ」
※
色覚輪郭資料館見学の三日前。
薬品くさい、それでいて不潔感が漂う薄暗い大病院の待合にも、バリケード周辺の様子は映し出されていた。ただし、こちら側で映し出されるのは、旧人種地区の様子である。手持ち無沙汰の労働者たちは、橋の真ん中で立ち尽くしたり、座り込んだりして、事態が動くのを待っている。
「協会は動かない、か」
待合の隅でエリクが呟いた。エリクとニハザの周囲の空間は、患者たちも、看護師たちも寄り付かず、ぽっかりと空いていた。
ニハザが言葉を引き取った。
「また暴動が起きるのを待ってるのか? いつだって旧人種側を悪者にするのが奴らのやり口だもんな」
「慎重になっているのだろう」
事務員が近くを通り過ぎるあいだ、エリクは黙った。
「……マジード氏とやらの死体をアンナフェルナに放置したのはやりすぎだ。地区内に解放戦線の拠点があると教えたようなものだ」
「それは解放戦線 の手落ちであって、新生アースフィア党 の責任じゃないぜ」
「そんな理屈が通用すると思うか」
今度は入院着の老人がトイレから出てきて、エリクとニハザの後ろを通り、エレベーターに消えていった。腰に吊るしたラジオが小声で喋っていた。
『〈架け橋〉の運営スタッフが迷惑系リンカーだなど、とんでもない話です。彼らは我々が被る差別や搾取を追及する勇敢な若者たちで、彼らが提示する新しい価値観が我々の社会に――』
エレベーターが閉じ、周囲はまた静かになった。
「あの暴動の現場に特務治安員は姿を見せなかったな」
「他の任務があったんじゃねーの?」
「それだ、俺が危惧しているのは」
エリクは自分を落ち着かせるために右手を閉じたり開いたりした。
「奴らが当日、色覚輪郭資料館に現れなければいいんだけどな」
事務員が近づいてきて、少し離れたところから二人に呼びかけた。
「ラーステミエルさん、マーシーンさん、二〇六七号室の面会の準備が整いました」
二人は素早く立ち上がった。
二〇六七号室は不快な暑さだった。少女は頭まで布団をかぶり、入り口に背を向けて横たわっていた。
エリクはベッドを迂回して少女の顔の前に回った。少女は布団の中で目を伏せ、震えていた。
ひざまずいて目線を合わせる。
「お初にお目にかかります。新生アースフィア党のエリク・ラーステミエルです。こちらは助手のニハザ」
ニハザも改まった様子で少女と目線を合わせ、できるだけ男っぽく聞こえる声で挨拶した。
「ニハザ・マーシーンです。お加減はいかがですか?」
少女は気だるく答えた。
「いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきて、同じことを聞くわ」それから「椅子に座ったら?」布団を少し下げた。「暑いと思うけど我慢してね。安物の代替皮膚は体温調整が得意じゃないの」
少女ハリーデは顔面の皮膚を張り替える難しい手術を終えたばかりだった。マジード氏によって火をつけられた服を脱ぎ捨てる際、顔と頭にも火傷を負い、頭髪を失っていた。目は真っ黒で光がなく、頬はこけていた。
「手術を終え、さぞお疲れのことと思います。痛くはありませんか?」
エリクは椅子に座り直して尋ねた。
「私、あなたのような立場の人に、そんなふうに話しかけてもらえるような人間じゃないわ。私はただの孤児で労働者なの。掃いて捨てるほどいるうちの一人」
返事に窮する二人にハリーデは続けた。
「私ね、お利口さんにしてればママが孤児院に迎えにきてくれると思ってた……聞いてくれる?」
「はい。聞いています」
「遮らずに聞いて。とりとめもなくても」
「はい」
静寂が病室に訪れた。
「……次に思い違えたのは、私も殉教者になれるってこと」
少女の話を聞き漏らすまいとエリクとニハザは固唾をのんでいた。
「どんなに待ってもママは迎えにこないと悟ったとき、私、パニックになったの。それじゃあ誰にとってのお利口さんになれば、その誰かが迎えにきてくれるの?」
少女は布団の端を握りしめた。
「だから私は必死になって聖書を読んだ。神のお利口さんになる努力をしたの。
『父母 は私を見捨てようとも
主 は必ず、わたしを引き寄せてくださいます』
詩篇二十七章十節よ。知ってる?」
「ええ」
「信仰を馬鹿にされても、蹴飛ばされても殴られても平気だった。慣れっこだったもの。でも体に火がつくのは初めてだった。それでわかったの。私がどんな目に遭っても、迎えにきて、助け出してくれる誰かはいないって」
完全に言葉が途切れてから、エリクはそっと切り出した。
「新生アースフィア党があなたをお助けできるかもしれません」
少女は黙っている。
「あなたの率直な言葉をお聞かせください。我々の機関紙〈ルーアハ〉に掲載し、義援金の他に原稿料をお支払いすることが可能です」
「私がほしいのは神様よ。神様を返して」
「それは……できません」エリクはひくつく目尻を指で押さえた。「申し訳ありませんが」
「本当の話をしてくれって、いろんな団体がきて言った。それで〈架け橋〉の人たちはあんなことになった」
深いため息をつく口元を少女は布団で隠した。
「私の言葉はもう、さっき話したことが全て。これ以上の何かを語れると思わないで。私はあなたたちのような学のある人間じゃないの」
その冷たく閉ざされた心の前に、エリクとニハザは気まずい視線を交わすしかなかった。
「ハリーデさん事件、ですって。ただのウェイトレスだったのに、今ではナイラノイラの誰もが私の名前を知ってるわ。こんなことで私、普通の人生に戻れるの?」
エリクは正直に答えた。
「わかりません」
「ありがとう。気休めは聞きたくない気分だったの。あとは私をそっとしておいて、できれば、外の看護師に、今日はもう面会を受け付けないって言ってほしいな。疲れちゃった」
「わかりました」エリクは落ち着いた声で応じた。「伝えておきましょう」
こうして二人は二〇六七号室からすごすごと退散した。
色覚輪郭資料館見学の四日前。
ナイラノイラ人民解放戦線の動きは素早く、マジード氏は協会の保護が及ぶ前に姿を消し、翌朝、目玉をくり抜かれた焼死体となってアンナフェルナの飲食店街のゴミ捨て場で見つかった。
誰が始めたのか、アンナフェルナ地区に旧人種を締め出すバリケードが出現しだした。昼過ぎにはトロマカム地区、夕方にはイルレーン地区にもバリケードが現れ、夜中ごろには、市民たちはすっかりヒステリーに陥って、自分たちの守備範囲を拡大するのに躍起になっていた。トロマカムでは屋根の魔除けや単管パイプ、屋根裏部屋のソファ、腹立たしい姑のドレッサーやとうに用済みとなった椅子とセット販売の学習机とついぞ開かれることのなかった文学全集などがバリケードに変わった。アンナフェルナでは閉店した酒場の自由扉やテーブル、イルレーンでは無能な同僚の机や嫌いな上司のロッカーなどが用いられた。
それらは積み上げても膝の高さまでしかないが、奥行きがあり、針金や鉄板で補強すれば、乗り越えるのに十分な障害となった。バリケードの外側には『強制移民保護地区』の張り紙が出された。
孤児たちはイルレーンの十五番街に集められ、そこからまとめて旧人種の居住地区へと追放された。夜明け前までに、イルレーン十五番街と旧人種地区をつなぐ橋が封鎖された。
「なんとまあ、一夜にして」
『我々の同胞マジードさんの虐殺を決して許してはならない!』
食堂で、スフィアリンクの中継がイルレーンでの演説を映していた。
フィフィカが「おいしい、サバおいしい」
「なんとまあじゃないぞ。働き口を失った旧人種どもが黙っていると思うか」
「唾を飛ばすな、ラジャン。誰かがつまらん仕事や汚い仕事をやらねばならんと思い出せば、市民もまた旧人種を受け入れざるを得ないさ」
「そうだといいんだがな」
ランゼスが「キッシュもうまいぞ、フィフィカ」
「ま、学生団見学の当日におかしな奴らが資料館に押し寄せる確率が減ったと考えればいいじゃないか。その任務が終われば候補生たちは今度こそ休暇、君はリリファと結婚式場の下見、私は新しい酒を開ける、と」
「つくづく楽天的な奴だ」
フィフィカが「ほんとだおいしいキッシュおいしい」
「訂正しよう」ラジャンがコーヒーを飲み干し、カップを置いた。「つくづく楽天的な奴
ら
だ」「君もあれこれ思い悩むのをやめて飯をかきこんだらどうだ? 朝飯を抜くと頭の回転が遅くなるぞ」
「ガキども」
若い二人はアスパラガスとベーコンのキッシュにかぶりつくのをやめてラジャンを見た。
「旧人種地区との交流は夜八時に絶えるのに、火つけ野郎は早朝のアンナフェルナで見つかった。この意味がわかるか」
ラジャンはテーブルに手をついて立ち上がった。
「夕方に答えを聞く。考えておけ」
※
色覚輪郭資料館見学の三日前。
薬品くさい、それでいて不潔感が漂う薄暗い大病院の待合にも、バリケード周辺の様子は映し出されていた。ただし、こちら側で映し出されるのは、旧人種地区の様子である。手持ち無沙汰の労働者たちは、橋の真ん中で立ち尽くしたり、座り込んだりして、事態が動くのを待っている。
「協会は動かない、か」
待合の隅でエリクが呟いた。エリクとニハザの周囲の空間は、患者たちも、看護師たちも寄り付かず、ぽっかりと空いていた。
ニハザが言葉を引き取った。
「また暴動が起きるのを待ってるのか? いつだって旧人種側を悪者にするのが奴らのやり口だもんな」
「慎重になっているのだろう」
事務員が近くを通り過ぎるあいだ、エリクは黙った。
「……マジード氏とやらの死体をアンナフェルナに放置したのはやりすぎだ。地区内に解放戦線の拠点があると教えたようなものだ」
「それは
「そんな理屈が通用すると思うか」
今度は入院着の老人がトイレから出てきて、エリクとニハザの後ろを通り、エレベーターに消えていった。腰に吊るしたラジオが小声で喋っていた。
『〈架け橋〉の運営スタッフが迷惑系リンカーだなど、とんでもない話です。彼らは我々が被る差別や搾取を追及する勇敢な若者たちで、彼らが提示する新しい価値観が我々の社会に――』
エレベーターが閉じ、周囲はまた静かになった。
「あの暴動の現場に特務治安員は姿を見せなかったな」
「他の任務があったんじゃねーの?」
「それだ、俺が危惧しているのは」
エリクは自分を落ち着かせるために右手を閉じたり開いたりした。
「奴らが当日、色覚輪郭資料館に現れなければいいんだけどな」
事務員が近づいてきて、少し離れたところから二人に呼びかけた。
「ラーステミエルさん、マーシーンさん、二〇六七号室の面会の準備が整いました」
二人は素早く立ち上がった。
二〇六七号室は不快な暑さだった。少女は頭まで布団をかぶり、入り口に背を向けて横たわっていた。
エリクはベッドを迂回して少女の顔の前に回った。少女は布団の中で目を伏せ、震えていた。
ひざまずいて目線を合わせる。
「お初にお目にかかります。新生アースフィア党のエリク・ラーステミエルです。こちらは助手のニハザ」
ニハザも改まった様子で少女と目線を合わせ、できるだけ男っぽく聞こえる声で挨拶した。
「ニハザ・マーシーンです。お加減はいかがですか?」
少女は気だるく答えた。
「いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきて、同じことを聞くわ」それから「椅子に座ったら?」布団を少し下げた。「暑いと思うけど我慢してね。安物の代替皮膚は体温調整が得意じゃないの」
少女ハリーデは顔面の皮膚を張り替える難しい手術を終えたばかりだった。マジード氏によって火をつけられた服を脱ぎ捨てる際、顔と頭にも火傷を負い、頭髪を失っていた。目は真っ黒で光がなく、頬はこけていた。
「手術を終え、さぞお疲れのことと思います。痛くはありませんか?」
エリクは椅子に座り直して尋ねた。
「私、あなたのような立場の人に、そんなふうに話しかけてもらえるような人間じゃないわ。私はただの孤児で労働者なの。掃いて捨てるほどいるうちの一人」
返事に窮する二人にハリーデは続けた。
「私ね、お利口さんにしてればママが孤児院に迎えにきてくれると思ってた……聞いてくれる?」
「はい。聞いています」
「遮らずに聞いて。とりとめもなくても」
「はい」
静寂が病室に訪れた。
「……次に思い違えたのは、私も殉教者になれるってこと」
少女の話を聞き漏らすまいとエリクとニハザは固唾をのんでいた。
「どんなに待ってもママは迎えにこないと悟ったとき、私、パニックになったの。それじゃあ誰にとってのお利口さんになれば、その誰かが迎えにきてくれるの?」
少女は布団の端を握りしめた。
「だから私は必死になって聖書を読んだ。神のお利口さんになる努力をしたの。
『
詩篇二十七章十節よ。知ってる?」
「ええ」
「信仰を馬鹿にされても、蹴飛ばされても殴られても平気だった。慣れっこだったもの。でも体に火がつくのは初めてだった。それでわかったの。私がどんな目に遭っても、迎えにきて、助け出してくれる誰かはいないって」
完全に言葉が途切れてから、エリクはそっと切り出した。
「新生アースフィア党があなたをお助けできるかもしれません」
少女は黙っている。
「あなたの率直な言葉をお聞かせください。我々の機関紙〈ルーアハ〉に掲載し、義援金の他に原稿料をお支払いすることが可能です」
「私がほしいのは神様よ。神様を返して」
「それは……できません」エリクはひくつく目尻を指で押さえた。「申し訳ありませんが」
「本当の話をしてくれって、いろんな団体がきて言った。それで〈架け橋〉の人たちはあんなことになった」
深いため息をつく口元を少女は布団で隠した。
「私の言葉はもう、さっき話したことが全て。これ以上の何かを語れると思わないで。私はあなたたちのような学のある人間じゃないの」
その冷たく閉ざされた心の前に、エリクとニハザは気まずい視線を交わすしかなかった。
「ハリーデさん事件、ですって。ただのウェイトレスだったのに、今ではナイラノイラの誰もが私の名前を知ってるわ。こんなことで私、普通の人生に戻れるの?」
エリクは正直に答えた。
「わかりません」
「ありがとう。気休めは聞きたくない気分だったの。あとは私をそっとしておいて、できれば、外の看護師に、今日はもう面会を受け付けないって言ってほしいな。疲れちゃった」
「わかりました」エリクは落ち着いた声で応じた。「伝えておきましょう」
こうして二人は二〇六七号室からすごすごと退散した。