ルベル山へ
文字数 3,393文字
1.
イスマリル、フィフィカ、ランゼス、ラトルの候補生四人は遠征訓練の朝を迎えた。
『ということは、孤児百五人に対して大人一人の割合で面倒を見ているわけですか』
『ええ。これは私どもの施設だけではありません。多くの場合、年長の子供が年少の子供の面倒を見るのですが、それでも限度があります。五歳の子供が新生児のおむつを換えるわけですから。六歳にもなれば赤子に粉ミルクを与えられる。それ以上の子は子供の世界の争いに組み込まれるんです。暴力を振るったり、追い出したり追い出されたりする』
『子供たちの間に暴力があることを認めるんですね』
人員輸送用のトラックにはラジオがかかっていた。旧人種向けの番組だが、ガキどもにナイラノイラの現状を教え込むにはちょうどいいだろう。
『新人種を自称する異能力者たちと対抗するには、我々は数を増やすしかない。しかしながら子供たちを養育する施設では暴力がまかり通っていると』
『それが私のせいだというんですか?』
ゲストの孤児院長が食ってかかる。
『職員が手一杯だという事実はこれまでに何度も行政に伝えてきました。それでも伝わりませんか? 大人一人が子供たちに与える食事の世話をする。その間に誰が食事の奪い合いを止めるというのです? あっちでは歯が痛いと泣いてる子供がいる。こっちではミルクを飲まなくなった赤子が死にかけている。なのに医者はこない。薬もない』
『まあ落ち着いてください。私はなにも責めているわけでなくて――』
『責めているじゃないですか! 私にはそう聞こえますよ!』
『まあまあ、一旦落ち着きましょう』
『腹を空かせた子供はね、鼻くそだって食べるんですよ! その子に誰が教育を施せるんです? 言っておきますがね、あなた、私の孤児院に来てごらんなさいよ。五分で逃げ出しますよ!』
『広告入ります!』
トラックの内部は二列の硬い座席で、外は見えない。だが振動で道路状況が良くないことはわかる。
候補生たちは誰も雑談しなかった。
広告が入った。
『私たちは差別を許さない正義と公正の会です。今日は七日前にイルレーン地区で起きた少女の暴行事件について訴えさせてください。
七日前、イルレーン地区のレストランで働いていた我々の姉妹ハリーデさんが客に暴行され、服の上から火をつけられるという痛ましい事件がありました。被害者は背中と頭部に火傷を負い、今も立ち上がることができません。
この件について協会は、狂信的な唯一神教徒による焼身自殺未遂と発表しています。これは明らかな嘘です。焼身自殺をする人間が自分の背中に火をつけるでしょうか――』
ラジャンが不機嫌にチャンネルを変えた。
『――を分断する悪質なデマにご注意ください』
今度は協会公式放送局の冷静なアナウンサーの声が流れ出した。
『今月三日に発生したイルレーン地区の焼身自殺未遂事件は既に当局の捜査が終了しており、公表すべき事実は他にないことを明言します。
今日はスタジオに事件の目撃者のMさんをお招きしております。身元を保護するため氏名は公表できませんが、Mさんは二児の父であり、地域のボランティアや防犯活動において幾度かの表彰歴のある立派な市民であることをお伝えしましょう。
それではMさん、一部始終を目撃されたとのことですが、ことの発端はどのような出来事だったのでしょうか』
『いや、あのね……私が同僚と問題のレストランでランチをしていたら、件のウェイトレスがですね、持ってきた食後のコーヒーをひっくり返したんですよ』
『それは災難でしたね。火傷などはされませんでしたか?』
『いやまあね? ちょっとは熱かったけど被害といっても服が汚れたくらいだし? それくらいのことでとやかくは言いませんよ? ただまぁね? あー……むすってして謝りもしないのは……ね? その態度は違うんじゃないの? とは言わせてもらいましたよ?』
『それで最終的に焼身自殺による抗議に到ったと』
『んん……まあ……』
『わかりました。ではその過程をもう少しお話ししていただきましょう』
「あの」
思い余ったようにフィフィカが声をあげた。
「ラジオ、切ってもいいですか……?」
呼吸に集中して思考を止めていたミレイは、その言葉でフィフィカに顔を向けた。
「どうした。音楽でもかけたほうがいいか?」
「いえ」フィフィカは俯いた。「何も聞きたくないです」
通信機から、能力開発センター戦闘支援部門特務治安員専属支援員の一人、リリファ・ホーリーバーチの声が聞こえてきた。
『あら、フィフィカちゃんは車に酔っちゃったのかしら』
フィフィカは誤魔化すように微笑んだ。
「あ、……はい、そうみたいです」
『ずっと揺られっぱなしですものね。大丈夫よ、あと十分くらいで外に出られるわ』
リリファは話題を変えた。
『ナイラノイラの暮らしにはもう慣れた?』
「いえ、ずっと訓練ばかりだから、正直まだ街のことわかってないかもです」
『そう。この遠征訓練が終わったら五日間の休暇よ。お友達と街に遊びに出るといいわ。楽しめると思う』いたずらっぽくつけ足す。『そうね、たとえば素敵な出会いがあったり』
フィフィカは頬を赤らめて、正面に座るランゼスから無意識に顔を背けた。
「リリファはからかっているわけじゃないぞ」と、ミレイ。「都市を受け継いでいく次世代の問題は新人種にとっても重要だ。君たちにその気があるのなら、このままナイラノイラに根を張って生きていくのも悪くない。なあ、ラジャン」
「どうして俺に振る」
ミレイは言った。
「リリファはラジャンの婚約者だ」
四人の若者の目がラジャンに集まる。
それから口々に「えーっ!」という声をあげた。
「なになに? それ本当ですか、ラジャン先生! 詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
イスマリルが身を乗り出す。ラジャンは舌打ちして額に手を当てた。
「余計なこと言いやがって……。いいか、俺はお前たちを監督するために同行するんだぞ。くだらんおしゃべりに付き合うためじゃないからな」
「いいじゃないかラジャン。二人の馴れ初めのアレとかコレとか聞かせてやるがいい」
リリファはスピーカーの向こうでくすくす笑っている。ラジャンは苦い顔をして押し黙った。
遠征訓練といってもそう難しいことをするわけではない。この子たちなら乗り越えられるとミレイは思っていた。視界のきかない山中に放り出され、与えられた道具を駆使して現在位置を特定し、食糧と寝床を確保して、目的地の古い塩鉱を見つけだす。あとは塩鉱を通ってナイラノイラ郊外に帰還するだけだ。この訓練の目的は、サバイバル能力を確認するためというよりも、自信をつけさせ、互いの連帯を強化することだ。
ミレイとラジャンは危険がないよう監督するが、手助けはしない。協会本部との唯一の交信手段は鳥飼いアイメルの存在ということになっている。だが、鳥飼いが連絡員として用いられる状況は、しばしばその鳥飼いの死を意味する。
唯一の懸念は、都市のいくつかの武装勢力が戦闘訓練の場に近郊の森や山を選んでいるという点だ。いくつかの地点は、マーリーンが隠れ住んでいた村の住人を尋問して吐かせていた。あの夜集まった武装した男女は、協会が旧人種の子供向けに開催する平和教育キャンプから我が子を連れ出そうとする親たちの集団だったのだ。
奴らの武器の流通経路は、候補生たちがナイラノイラを離れているあいだに治安維持部門が洗う。ミレイたちは四人の若者がどの程度実戦に耐え得るかを見極めることだけ考えていればいい。
「僕たちがナイラノイラで結婚して根付いたほうが、先生たちには都合がいいんですよね」
おとなしく控えめな少年ラトルが呟いた。
「なぁに、誰も強制なんてしないさ。任期を終えたら別のところに異動を願い出てもいい。それは君たちの自由だ。ま、私たちの社会は後継者に困っても多産政策などに手を出したりはしないだろうがね」
イスマリルが尋ねる。
「どうしてナイラノイラの旧人種革命政府は、都市の受け皿が整ってないのに多産政策を強行採決したんでしょうか」
ミレイは冷淡に答えた。
「政治の文脈を持たない奴が武力で頂点に立つとこういうアホなことをする。革命など、しょせんは統治のとの字も知らない素人がすることさ」
イスマリルは黙った。
車は石や木の枝を踏みつけて、山地の勾配を登っていく。
イスマリル、フィフィカ、ランゼス、ラトルの候補生四人は遠征訓練の朝を迎えた。
『ということは、孤児百五人に対して大人一人の割合で面倒を見ているわけですか』
『ええ。これは私どもの施設だけではありません。多くの場合、年長の子供が年少の子供の面倒を見るのですが、それでも限度があります。五歳の子供が新生児のおむつを換えるわけですから。六歳にもなれば赤子に粉ミルクを与えられる。それ以上の子は子供の世界の争いに組み込まれるんです。暴力を振るったり、追い出したり追い出されたりする』
『子供たちの間に暴力があることを認めるんですね』
人員輸送用のトラックにはラジオがかかっていた。旧人種向けの番組だが、ガキどもにナイラノイラの現状を教え込むにはちょうどいいだろう。
『新人種を自称する異能力者たちと対抗するには、我々は数を増やすしかない。しかしながら子供たちを養育する施設では暴力がまかり通っていると』
『それが私のせいだというんですか?』
ゲストの孤児院長が食ってかかる。
『職員が手一杯だという事実はこれまでに何度も行政に伝えてきました。それでも伝わりませんか? 大人一人が子供たちに与える食事の世話をする。その間に誰が食事の奪い合いを止めるというのです? あっちでは歯が痛いと泣いてる子供がいる。こっちではミルクを飲まなくなった赤子が死にかけている。なのに医者はこない。薬もない』
『まあ落ち着いてください。私はなにも責めているわけでなくて――』
『責めているじゃないですか! 私にはそう聞こえますよ!』
『まあまあ、一旦落ち着きましょう』
『腹を空かせた子供はね、鼻くそだって食べるんですよ! その子に誰が教育を施せるんです? 言っておきますがね、あなた、私の孤児院に来てごらんなさいよ。五分で逃げ出しますよ!』
『広告入ります!』
トラックの内部は二列の硬い座席で、外は見えない。だが振動で道路状況が良くないことはわかる。
候補生たちは誰も雑談しなかった。
広告が入った。
『私たちは差別を許さない正義と公正の会です。今日は七日前にイルレーン地区で起きた少女の暴行事件について訴えさせてください。
七日前、イルレーン地区のレストランで働いていた我々の姉妹ハリーデさんが客に暴行され、服の上から火をつけられるという痛ましい事件がありました。被害者は背中と頭部に火傷を負い、今も立ち上がることができません。
この件について協会は、狂信的な唯一神教徒による焼身自殺未遂と発表しています。これは明らかな嘘です。焼身自殺をする人間が自分の背中に火をつけるでしょうか――』
ラジャンが不機嫌にチャンネルを変えた。
『――を分断する悪質なデマにご注意ください』
今度は協会公式放送局の冷静なアナウンサーの声が流れ出した。
『今月三日に発生したイルレーン地区の焼身自殺未遂事件は既に当局の捜査が終了しており、公表すべき事実は他にないことを明言します。
今日はスタジオに事件の目撃者のMさんをお招きしております。身元を保護するため氏名は公表できませんが、Mさんは二児の父であり、地域のボランティアや防犯活動において幾度かの表彰歴のある立派な市民であることをお伝えしましょう。
それではMさん、一部始終を目撃されたとのことですが、ことの発端はどのような出来事だったのでしょうか』
『いや、あのね……私が同僚と問題のレストランでランチをしていたら、件のウェイトレスがですね、持ってきた食後のコーヒーをひっくり返したんですよ』
『それは災難でしたね。火傷などはされませんでしたか?』
『いやまあね? ちょっとは熱かったけど被害といっても服が汚れたくらいだし? それくらいのことでとやかくは言いませんよ? ただまぁね? あー……むすってして謝りもしないのは……ね? その態度は違うんじゃないの? とは言わせてもらいましたよ?』
『それで最終的に焼身自殺による抗議に到ったと』
『んん……まあ……』
『わかりました。ではその過程をもう少しお話ししていただきましょう』
「あの」
思い余ったようにフィフィカが声をあげた。
「ラジオ、切ってもいいですか……?」
呼吸に集中して思考を止めていたミレイは、その言葉でフィフィカに顔を向けた。
「どうした。音楽でもかけたほうがいいか?」
「いえ」フィフィカは俯いた。「何も聞きたくないです」
通信機から、能力開発センター戦闘支援部門特務治安員専属支援員の一人、リリファ・ホーリーバーチの声が聞こえてきた。
『あら、フィフィカちゃんは車に酔っちゃったのかしら』
フィフィカは誤魔化すように微笑んだ。
「あ、……はい、そうみたいです」
『ずっと揺られっぱなしですものね。大丈夫よ、あと十分くらいで外に出られるわ』
リリファは話題を変えた。
『ナイラノイラの暮らしにはもう慣れた?』
「いえ、ずっと訓練ばかりだから、正直まだ街のことわかってないかもです」
『そう。この遠征訓練が終わったら五日間の休暇よ。お友達と街に遊びに出るといいわ。楽しめると思う』いたずらっぽくつけ足す。『そうね、たとえば素敵な出会いがあったり』
フィフィカは頬を赤らめて、正面に座るランゼスから無意識に顔を背けた。
「リリファはからかっているわけじゃないぞ」と、ミレイ。「都市を受け継いでいく次世代の問題は新人種にとっても重要だ。君たちにその気があるのなら、このままナイラノイラに根を張って生きていくのも悪くない。なあ、ラジャン」
「どうして俺に振る」
ミレイは言った。
「リリファはラジャンの婚約者だ」
四人の若者の目がラジャンに集まる。
それから口々に「えーっ!」という声をあげた。
「なになに? それ本当ですか、ラジャン先生! 詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
イスマリルが身を乗り出す。ラジャンは舌打ちして額に手を当てた。
「余計なこと言いやがって……。いいか、俺はお前たちを監督するために同行するんだぞ。くだらんおしゃべりに付き合うためじゃないからな」
「いいじゃないかラジャン。二人の馴れ初めのアレとかコレとか聞かせてやるがいい」
リリファはスピーカーの向こうでくすくす笑っている。ラジャンは苦い顔をして押し黙った。
遠征訓練といってもそう難しいことをするわけではない。この子たちなら乗り越えられるとミレイは思っていた。視界のきかない山中に放り出され、与えられた道具を駆使して現在位置を特定し、食糧と寝床を確保して、目的地の古い塩鉱を見つけだす。あとは塩鉱を通ってナイラノイラ郊外に帰還するだけだ。この訓練の目的は、サバイバル能力を確認するためというよりも、自信をつけさせ、互いの連帯を強化することだ。
ミレイとラジャンは危険がないよう監督するが、手助けはしない。協会本部との唯一の交信手段は鳥飼いアイメルの存在ということになっている。だが、鳥飼いが連絡員として用いられる状況は、しばしばその鳥飼いの死を意味する。
唯一の懸念は、都市のいくつかの武装勢力が戦闘訓練の場に近郊の森や山を選んでいるという点だ。いくつかの地点は、マーリーンが隠れ住んでいた村の住人を尋問して吐かせていた。あの夜集まった武装した男女は、協会が旧人種の子供向けに開催する平和教育キャンプから我が子を連れ出そうとする親たちの集団だったのだ。
奴らの武器の流通経路は、候補生たちがナイラノイラを離れているあいだに治安維持部門が洗う。ミレイたちは四人の若者がどの程度実戦に耐え得るかを見極めることだけ考えていればいい。
「僕たちがナイラノイラで結婚して根付いたほうが、先生たちには都合がいいんですよね」
おとなしく控えめな少年ラトルが呟いた。
「なぁに、誰も強制なんてしないさ。任期を終えたら別のところに異動を願い出てもいい。それは君たちの自由だ。ま、私たちの社会は後継者に困っても多産政策などに手を出したりはしないだろうがね」
イスマリルが尋ねる。
「どうしてナイラノイラの旧人種革命政府は、都市の受け皿が整ってないのに多産政策を強行採決したんでしょうか」
ミレイは冷淡に答えた。
「政治の文脈を持たない奴が武力で頂点に立つとこういうアホなことをする。革命など、しょせんは統治のとの字も知らない素人がすることさ」
イスマリルは黙った。
車は石や木の枝を踏みつけて、山地の勾配を登っていく。