戦象を守れ

文字数 2,572文字

 2.

 エリエーンに話を戻そう。
 彼女の母ユリアが七歳のとき、初等学校の授業で鉄棒の逆上がりを習得し、機嫌よく、友達と塗り分けられた道路の白いところだけ踏んで歩いたり、鞄を振り回しておとなしい男子をぶったり、三歩進んで二歩戻ったりしながらようやく家に帰ると、リビングのソファに二足歩行をする大きくて臭いどぶねずみが我が物顔で腰を下ろしていた。昼食を用意していた母親は、あろうことか、にこにこと満面の笑みを浮かべ、鉄棒にまつわるいとけなき英雄譚に耳を貸さずに告げた。
「この子はお前の二卵性双生児の妹だよ。生まれたときから体が弱くて、しかも新人種なのだから、今までずっと協会の施設にいたんだ」
 その日からユリアの二階の自室はどぶねずみが占領し、ユリアは三角屋根の下の、夏は異常に暑くて冬はやたらと寒い、空調のない屋根裏部屋に追い立てられた。食卓のユリアの座席はどぶねずみに与えられ、ユリアのためにはおざなりの、それまでしまいこまれていた、ガタついた古い椅子が引っ張り出された。
 どぶねずみがユリアの髪をひっぱると、母親は、
「おやまあ、すっかり元気に育って。活発なところは私に似たのね」
 と褒めそやし、仕返しにユリアがどぶねずみの顔を引っかくと、
「私たちがアンナフェルナでいい暮らしができるのは、全部この子のお陰なのよ、恩知らずめ」
 とユリアをぶった。
 そのあいだ、存在感のない父親は無言でエサを食っていた。
 ユリアがテストの点数でどぶねずみに負けると母親は、
「私はずっとわかっていたんだよ、この子のほうが出来がいいって。見てごらん。顔立ちにもこんなに知性が滲み出ているじゃないか」
 ユリアがテストの点数でどぶねずみに勝つと、
「商売を継ぐわけでもないお前がお勉強できても何にもなりはしないんだよ。お前はこの子の下で家電整備の仕事をするんだから」
 と言った。
 ユリアが女優の育成校に合格したときには
「どんな無能も顔さえ良ければ引き立ててもらえるんだからね。図にのってこの子に恥をかかすんじゃないよ」
 と釘を刺し、スフィアリンクに流す栄養ドリンクの広告の仕事を初めて与えられたときは、
「お前はすっかりつまらない操り人形になったね。カメラに向かってしなをつくるだけの、頭すっからかんのお前にもできる簡単なお仕事さ。けどね、お前の若さと美貌は衰えるけど、この子は家業を継いで堅実に生きるんだ」
 と言った。ユリア・ラーステミエル、女優にしてナイラノイラ人民解放戦線の熱心な広告塔が爆誕した瞬間である。大きくて臭いどぶねずみどもを殺せ。
 ユリアは三十歳で最初の子を産んだ。長男エリク。その翌年に長女ラサ、その二年後に次女レイハ、それから四年おいて忌むべきどぶねずみを出産した。
 ユリア・ラーステミエルの謎多き入水自殺は、無害な弱火の新人種エリエーンを産んでしまったことを恥じての所業と言われている。だが、解放戦線の誰かが殺して死体を大滝に投げ込んだのだという噂も絶えなかった。
 長男エリクは解放戦線に失望し、末の妹エリエーンと共生できる可能性を示す新生アースフィア党の理念にかぶれるようになった。しっかり者のラサと恋多き乙女レイハも後に続いた。
 そして三女エリエーンはどぶねずみではなかった。人間で、平和を望んでいた。

 ※

 朝のブリーフィングルームでミレイは顔をしかめていた。二日酔いだ。ラジャンも顔をしかめていた。ガキどもの精神面のサポートが行き届いていないのが気に入らないのだ。フィフィカは無表情無感動を装っている。ランゼスは一睡もしていないようで、目の下に隈が浮いていた。
「遠征レポートは提出したか」
 ややあって、ラジャンの問いかけにランゼスが頷いた。「はい、昨日」フィフィカも続く。「はい」
 少しのあいだ、ラジャンは言葉を詰まらせていた。
「……これまでの訓練で、俺とミレイはお前たちを決して甘やかさなかった。あまりにもできないようならメリアノに送り返すとまで言った。その理由を理解したと思う」
 生気のないランゼスが「はい」、フィフィカも「はい」
「裏切り、奇襲、仲間との死別、お前たちが経験したことはナイラノイラでは当たり前にあることだ。俺たちも最初四人いて、二人が殉職し、補充に来た一人も……」
 ミレイが話を変えた。
「補充が二人来るよ」
 視線がミレイに集まった。
「イスマリルの件でメリアノ校は大騒ぎになっているが、それはそれとして、秋期生二名を繰り上げでナイラノイラに送ってくれるそうだ。イスマリルとラトルの後釜だな。名は……なんだっけ?」
「ロシエルとベルナミュゼだ」
「そうそう。お友達か?」
「いえ」とランゼスが答えた。「春期生と秋期生のあいだに交流はなかったので」
「いつ来るんですか?」
 フィフィカが尋ねた。
「調整中だ。あまり遅くならないことを願うね」
「もう一つお前たちに伝達事項がある。本来ならば今日を入れてあと四日間遠征期間が続くはずだったが、四日もお前たちに何もさせないわけにはいかないとセンター長は考えた。そこで俺たちには……お前たち二人だけじゃない、俺とミレイもだ。四日後に予定される、トロマカム地区のナイラフェリス色覚輪郭資料館を訪れる学生団の護衛を仰せつかった」
 二人の若者は背筋を伸ばし、続く言葉を待っている。
「資料館には大型の星獣、『天球儀の戦象』が収蔵されている。強火の新人種にかかればナイラノイラ全域を吹き飛ばして余りある強力な兵器にして芸術品だ。俺たちが守るべきは学生団ではない。天球儀の戦象だ」
「学生団の中には新生アースフィア党のエリクの妹が含まれる」ミレイが言った。「エリエーン・ラーステミエル、思想検査で問題はないが、そんなものはアテにならんとイスマリルが実証したばかりだ。この娘は弱火の新人種で、存命の叔母は協会運営の病院に勤務する新人種。しかし兄と姉二人が新生アースフィア党員では信用ならん。学生団の視察のあいだ、私たちはこの娘を監視しなければならない」
「既に第六演習場に現地を模した可触ホロセットが用意してある」
 ラジャンが話を締めくくる。
「今回の訓練には俺たちも参加する。任務は天球儀の戦象の厳守。任務遂行のためならば学生団への発砲も許可されている。では朝食の後、午前八時三十分に第六演習場南入り口に集合だ。以上」




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登場人物紹介

◆ミレイ・スターセイル

◆32歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈茜の闇〉。本作の主人公。

◆ラジャン・シンクマール

◆32歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈墜とし得ぬ星〉。ミレイの相棒。

◆イスマリル・ダーシェルナキ

◆17歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈呪つ星の狂照〉。旧大陸からきた特務治安員候補生の一人。

◆フィフィカ・ユンエレ

◆17歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆ランゼス・フーケ

◆17歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆ラトル・グレイ

◆17歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆リリファ・ホーリーバーチ

◆29歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


協会の戦闘支援部隊員で、ラジャンの婚約者。

◆エリク・ラーステミエル

◆24歳/男性

◆所属:新生アースフィア党


新生アースフィア党ナイラノイラ支部の指導者。ナイラノイラ人民解放戦線の広告塔だった人物の息子。

◆エリエーン・ラーステミエル

◆17歳/女性

◆所属:新生アースフィア党


エリクの妹で、弱火の新人種。イルレーン地区の高等学校に通っている。

◆ニハザ・マーシーン

◆19歳/トランス男性

◆所属:新生アースフィア党


エリクの助手。ナイラノイラ人民解放戦線指導者ラルフ・ヴォレックの甥。

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