終業
文字数 2,896文字
8.
ミス・マーリーンの白くきれいな漆喰の家は、今や全ての窓から炎を噴き出していた。明日には黒く汚い廃墟になっているだろう。
ミレイは協会の車にもたれかかってジャケットからスキットルを出した。マーリーンをぶち殺せばさぞ気分が良くなるだろうと思っていたが、逆だった。戻れない道をまた一歩前に進んだ気分だった。気分を晴らす方法などない。マーリーンの信者を殺したところで別に楽しくはなかった。終わったあとにはこれ。いつも閉塞感。
喉から胃へとまっすぐに酒が落ちていく。ミレイは手の甲で口をぬぐった。
「……で、フィフィカ。いつからラジャンと連絡を取り合ってたんだ?」
「協会本部の敷地を出たときからです。トイレに行ったときとか、ミレイ先生が私を見てないあいだ、ずっと」
「大した嬢やだ。頼りないかと思ったが、君への評価を改めよう。一人でクズどもの相手をしなくて済んだのは君のおかげだ」
ミレイは車にくっつけていた背中をはなし、無線で本部とやりとりしているラジャンに歩み寄った。
「クズは何人死んだ?」
ラジャンは通信機つきのヘルメットを脱ぎ、ミレイに苛立ちの目を向けた。
「お前、俺たちは未成年者を預かってるんだぞ。わかってるのか?」
「君もガキどもに厳しいのか甘いのかわからんね」
「マーリーンを含めて二十八人だ。男が十一人、女が十七人。これだけの武装した男女が俺たちの大切な後輩に銃を向けるところだったんだぞ」
「何故奴らは武装していたんだ?」
「知るかっ」
「ただの晩餐にきたわけではない様子だった」
「報告ならセンター長にしてくれ。お前のやらかしたことなど俺は知らない」
そう言ってラジャンは装甲車に戻っていった。
ミレイは燃え盛る家に目を戻した。消防ヘリがくる気配はない。
燃え落ちるに任せるがいい。できるだけ無残に。
スキットルの酒をあおる。
喉に刺すような痛みを感じ、酒を唾とともに吐き捨てた。地面には砕けたバスケットと、晩餐を彩るはずだった魚のフライが転がっていた。
※
治癒と再生者の協会ナイラノイラ支部能力開発センタービル。その長 であるナジは、わざわざエントランスホールまで出てきてミレイを出迎えた。
ナジは六十代の女で、ミジンコのように背が低く、フグのように太っていた。垂れ下がった両頬はブルドッグを思わせる。ださくてまん丸な眼鏡のフレームはピンク、ベストもピンク、シャツもスカートもピンクで、ストッキングとヒールもピンクだった。というのも、彼女はこの系統色しか使えないからで、アイスグレネードの使用に伴い発生する重い二酸化炭素の煙の色をピンクに着色しようと発案したのも彼女だった。
ご機嫌麗しゅう、プリムローズの処女 。アソコも初々しいピンクか?
「ご機嫌麗しゅう、プリムローズの処女」
ミレイは前半を口に出すにとどめた。
「プリムローズの貴婦人です。また間違えましたね」
「わざとです」
「嫌いじゃなくてよ、あなたのそういうところ。何があったかはリリファから聞いています」
「何があったかリリファに告げたのはラジャン。つまり又聞きの又聞き。つまり私から聞く気はない。つまり職務怠慢」
「ご機嫌ななめですこと。お仕事終わりの一杯がお済みでないのかしら」
既に済ませているのだが、ミレイはあえてジャケットからスキットルを出し、底に残っていた二口分を一息に飲み干した。
「今済みました、プリムローズの処女」
「では少し黙っててくださる?」
「やだって言ったら?」
微笑むナジと無表情のミレイはしばし見つめあった。
「……で、こちらの方がフィフィカ・ユンエレさんね」
ナジのほうが大人だった。
「センター長のルイージア・ナジです。こうして直接顔をあわせるのは初めてですわね。あなたは今日、ナイラノイラに来ていきなりの洗礼を受けたわけですが、怖い思いをされたのではないですか?」
「はじめまして、センター長――」
「プリムローズの貴婦人とお呼び! ゴミ!」
ナジは突然声を荒らげた。
「ご、ご、ご、ご、ゴミ!?」
「そうやってすぐに狼狽えるところがまさにゴミなのです。フィフィカ・ゴミ・ユンエレ、あなたは奴らを前にして尻尾を巻いて逃げましたね?」
「わ、私はゴミじゃない……」
フィフィカは早くも涙目だ。
「お黙り。逃げた理由にはまだラジャンに位置を知らせるためという正当性があるにしろ、やりすぎではないか、と彼に言ったそうですね」
「だって、武器を捨てて伏せた人もいたんです。その人たちのことまで……」
「人ではありません、奴らです。フィフィカさん、次こそあなたは奴らを血祭りにあげなければなりません」
「私、私……」
「殺しなさい」
「必要なら、でも」
「尊厳を踏みにじりなさい」
ナジはフィフィカの顎に指をかけた。
「ビルの屋上にバドミントン場がありますね?」
「はい」
「あなたも奴らの陰嚢を切り取ってバドミントンの羽根にしなさい」
フィフィカの中でショックの許容量が限界を超えた。
「私、そんなことしない!」
ナジの手を払うと、くるりと背を向けて、外の暗闇に走り去っていった。自動扉が開き、閉じた。フィフィカの長いおさげ髪が背中で跳ねていたが、闇にまぎれて見えなくなった。
ナジは嘆いた。
「やれやれ。あのように軟弱なことで特務治安員が務まるのかしら。いつまでも学生気分でいられたら困るわぁ」
さすがのミレイもフィフィカを不憫に思った。
センター長、平和な旧大陸から来た子には刺激が強すぎたのではないでしょうか?
「初手でいきなり陰嚢バドミントンの話とか、ドン引きに決まってるだろう。馬鹿じゃないのか? ピンクババア」
「あらあなた、本音が垂れ流しになってるわよ」
「わざとです」
またしてもミレイとナジは熱心に見つめあった。
「あなた、プリムローズの花言葉はご存じね?」
「『ブルドッグそっくり』でしたっけ」
「青春の悲しみです」ナジは悲しげに言った。「あの子の青春は、一週間後には終わるでしょう。恋も、若さも失います。それが今のナイラノイラで任務につくということです」
ミレイはナジのこの声が嫌いだった。
「一週間後といえば遠征訓練がありますね。郊外に武装集団が見つかった今となっても決行するのですか?」
「私たちが奴らの都合で動きを変えれば、奴らは喜ぶでしょう。予定を変えることはありません」
夜間清掃ロボットが小さな駆動音とともにエントランスに入ってきた。
「おや、こんな時間でしたか。ミレイ。あなたは休みなさい。明日は滞りなく訓練メニューを受けさせるように」
ナジはミレイの返事を待たずにエレベーターホールへ去っていった。その小さな後ろ姿が見えなくなると、重い疲労がミレイの両肩にのしかかってきた。
休もう、それがいい。自分の部屋に戻り、シャワーを浴びるのだ。何か食べたほうがいい。冷蔵庫には何が入っていただろうか? 酒とつまみしかない。それでいいじゃないか。酒を飲み、飲み、飲むのだ。ミレイの終わった恋、終わった若さの幻影が現れてくるまで。
ミレイは左手を上げた。薬指にはプラチナの指輪がはめられていた。
その指輪に口づけて、ミレイは夜風の中に出ていった。
ミス・マーリーンの白くきれいな漆喰の家は、今や全ての窓から炎を噴き出していた。明日には黒く汚い廃墟になっているだろう。
ミレイは協会の車にもたれかかってジャケットからスキットルを出した。マーリーンをぶち殺せばさぞ気分が良くなるだろうと思っていたが、逆だった。戻れない道をまた一歩前に進んだ気分だった。気分を晴らす方法などない。マーリーンの信者を殺したところで別に楽しくはなかった。終わったあとにはこれ。いつも閉塞感。
喉から胃へとまっすぐに酒が落ちていく。ミレイは手の甲で口をぬぐった。
「……で、フィフィカ。いつからラジャンと連絡を取り合ってたんだ?」
「協会本部の敷地を出たときからです。トイレに行ったときとか、ミレイ先生が私を見てないあいだ、ずっと」
「大した嬢やだ。頼りないかと思ったが、君への評価を改めよう。一人でクズどもの相手をしなくて済んだのは君のおかげだ」
ミレイは車にくっつけていた背中をはなし、無線で本部とやりとりしているラジャンに歩み寄った。
「クズは何人死んだ?」
ラジャンは通信機つきのヘルメットを脱ぎ、ミレイに苛立ちの目を向けた。
「お前、俺たちは未成年者を預かってるんだぞ。わかってるのか?」
「君もガキどもに厳しいのか甘いのかわからんね」
「マーリーンを含めて二十八人だ。男が十一人、女が十七人。これだけの武装した男女が俺たちの大切な後輩に銃を向けるところだったんだぞ」
「何故奴らは武装していたんだ?」
「知るかっ」
「ただの晩餐にきたわけではない様子だった」
「報告ならセンター長にしてくれ。お前のやらかしたことなど俺は知らない」
そう言ってラジャンは装甲車に戻っていった。
ミレイは燃え盛る家に目を戻した。消防ヘリがくる気配はない。
燃え落ちるに任せるがいい。できるだけ無残に。
スキットルの酒をあおる。
喉に刺すような痛みを感じ、酒を唾とともに吐き捨てた。地面には砕けたバスケットと、晩餐を彩るはずだった魚のフライが転がっていた。
※
治癒と再生者の協会ナイラノイラ支部能力開発センタービル。その
ナジは六十代の女で、ミジンコのように背が低く、フグのように太っていた。垂れ下がった両頬はブルドッグを思わせる。ださくてまん丸な眼鏡のフレームはピンク、ベストもピンク、シャツもスカートもピンクで、ストッキングとヒールもピンクだった。というのも、彼女はこの系統色しか使えないからで、アイスグレネードの使用に伴い発生する重い二酸化炭素の煙の色をピンクに着色しようと発案したのも彼女だった。
ご機嫌麗しゅう、プリムローズの
「ご機嫌麗しゅう、プリムローズの処女」
ミレイは前半を口に出すにとどめた。
「プリムローズの貴婦人です。また間違えましたね」
「わざとです」
「嫌いじゃなくてよ、あなたのそういうところ。何があったかはリリファから聞いています」
「何があったかリリファに告げたのはラジャン。つまり又聞きの又聞き。つまり私から聞く気はない。つまり職務怠慢」
「ご機嫌ななめですこと。お仕事終わりの一杯がお済みでないのかしら」
既に済ませているのだが、ミレイはあえてジャケットからスキットルを出し、底に残っていた二口分を一息に飲み干した。
「今済みました、プリムローズの処女」
「では少し黙っててくださる?」
「やだって言ったら?」
微笑むナジと無表情のミレイはしばし見つめあった。
「……で、こちらの方がフィフィカ・ユンエレさんね」
ナジのほうが大人だった。
「センター長のルイージア・ナジです。こうして直接顔をあわせるのは初めてですわね。あなたは今日、ナイラノイラに来ていきなりの洗礼を受けたわけですが、怖い思いをされたのではないですか?」
「はじめまして、センター長――」
「プリムローズの貴婦人とお呼び! ゴミ!」
ナジは突然声を荒らげた。
「ご、ご、ご、ご、ゴミ!?」
「そうやってすぐに狼狽えるところがまさにゴミなのです。フィフィカ・ゴミ・ユンエレ、あなたは奴らを前にして尻尾を巻いて逃げましたね?」
「わ、私はゴミじゃない……」
フィフィカは早くも涙目だ。
「お黙り。逃げた理由にはまだラジャンに位置を知らせるためという正当性があるにしろ、やりすぎではないか、と彼に言ったそうですね」
「だって、武器を捨てて伏せた人もいたんです。その人たちのことまで……」
「人ではありません、奴らです。フィフィカさん、次こそあなたは奴らを血祭りにあげなければなりません」
「私、私……」
「殺しなさい」
「必要なら、でも」
「尊厳を踏みにじりなさい」
ナジはフィフィカの顎に指をかけた。
「ビルの屋上にバドミントン場がありますね?」
「はい」
「あなたも奴らの陰嚢を切り取ってバドミントンの羽根にしなさい」
フィフィカの中でショックの許容量が限界を超えた。
「私、そんなことしない!」
ナジの手を払うと、くるりと背を向けて、外の暗闇に走り去っていった。自動扉が開き、閉じた。フィフィカの長いおさげ髪が背中で跳ねていたが、闇にまぎれて見えなくなった。
ナジは嘆いた。
「やれやれ。あのように軟弱なことで特務治安員が務まるのかしら。いつまでも学生気分でいられたら困るわぁ」
さすがのミレイもフィフィカを不憫に思った。
センター長、平和な旧大陸から来た子には刺激が強すぎたのではないでしょうか?
「初手でいきなり陰嚢バドミントンの話とか、ドン引きに決まってるだろう。馬鹿じゃないのか? ピンクババア」
「あらあなた、本音が垂れ流しになってるわよ」
「わざとです」
またしてもミレイとナジは熱心に見つめあった。
「あなた、プリムローズの花言葉はご存じね?」
「『ブルドッグそっくり』でしたっけ」
「青春の悲しみです」ナジは悲しげに言った。「あの子の青春は、一週間後には終わるでしょう。恋も、若さも失います。それが今のナイラノイラで任務につくということです」
ミレイはナジのこの声が嫌いだった。
「一週間後といえば遠征訓練がありますね。郊外に武装集団が見つかった今となっても決行するのですか?」
「私たちが奴らの都合で動きを変えれば、奴らは喜ぶでしょう。予定を変えることはありません」
夜間清掃ロボットが小さな駆動音とともにエントランスに入ってきた。
「おや、こんな時間でしたか。ミレイ。あなたは休みなさい。明日は滞りなく訓練メニューを受けさせるように」
ナジはミレイの返事を待たずにエレベーターホールへ去っていった。その小さな後ろ姿が見えなくなると、重い疲労がミレイの両肩にのしかかってきた。
休もう、それがいい。自分の部屋に戻り、シャワーを浴びるのだ。何か食べたほうがいい。冷蔵庫には何が入っていただろうか? 酒とつまみしかない。それでいいじゃないか。酒を飲み、飲み、飲むのだ。ミレイの終わった恋、終わった若さの幻影が現れてくるまで。
ミレイは左手を上げた。薬指にはプラチナの指輪がはめられていた。
その指輪に口づけて、ミレイは夜風の中に出ていった。