オニイチャン

文字数 5,382文字

 6.

 色覚輪郭資料館見学の二日前。
 提出するレポートを閉じ込めた情報環が見当たらないことにエリエーンは気づいて青ざめた。弱火の能力者でも作れる単純なもので、比較表象学科を選択した最初の年に授業で作成したものだった。
「ねえ、昨日ファッジ作ったー」
 統一理論学科の学生がこの教室に入ってきた。同級生たちが黄色い声をあげる(これは喜色を表す紋切り型の表現だが、エリエーンには実際、空気中に漂う黄色がうっすら見えた。鉄錆色混じりで悪意が潜む山吹色だった)。教室に立ち、長机に鞄を載せて引っ掻きまわすエリエーンの肌を、好奇の視線がちらちら撫でる。ファッジの余ったるい匂いがエリエーンの鼻腔に届いた。
 びしゃりと濡れたものに触れ、不快感から指を引っ込める。
「先生が来るよ!」
 その一声で、ファッジを配った学生は教室を飛び出していき、この教室の学生たちは自分の席に戻って自習しているふりをした。そのあと、本当に担任の初老の女教師が教室に入ってきた。
「なにか臭いますね。誰ですか? 教室にお菓子を持ち込んだのは」
 教室にはただ一人、哀れな生贄の子羊がいた。一人だけ立って机に鞄を載せているエリエーンだ。
「ラーステミエルさん」
 教師は歩いてきて言った。
「持ち物検査をします。鞄の中身を出しなさい」
「お菓子を持ってきたのは私じゃありません」
「口ではなんとでも言えるものです」
 権柄(けんぺい)ずくに振る舞えば本物の威厳が身につくと思っていそうな口ぶりだった。
「さあ、早く」
 エリエーンは当てつけがましくため息をつき、鞄の中のものを一つずつ取り出した。十五本入りの色彩記憶スティックのケース。クリスタルボール。昼食のサンドイッチの紙箱――濡れていたのはこれだった。エリエーンは思わず紙箱を床に落とした。台無しになったサンドイッチが床に散らばった。
「おやおや、誰がこんなことをしたんでしょうね」
 教師が目を光らせる。
「先生、ラーステミエルさんが自分で水筒をこぼしたんじゃないですか?」
 そこここで忍び笑いが起こる。
 それから櫛や手鏡などの身の回り品。
「汚ぁい」「あの子、だらしないんじゃないかしら」「きっと水筒を開けっぱなしにしたのよ、そうよ」「馬鹿だぁ」「安物しか持ってない」「そんなこと言ったらかわいそうよお」「あの子にはお小遣いをくれるお母さんがいないもんね」そしていつもの一言。「あんなの、間違いのない家柄の人ならあり得ないよね」
 情報環は水たまりと化した鞄の底に入っていた。エリエーンのそれは粉砕されたかけらとなり、色彩を失っていた。いや、あらゆる色彩をごちゃ混ぜに詰め込んだゴミ色だ。
 こうしたことは初めてではなかった。街で新人種が犠牲になる事件が起こるたび、エリエーンの物が壊れたり、制服が切り裂かれたり、家に殺害予告が届いたりするのだ。
「あーあ、これではレポートも台無しですね」
 いじめっ子が言った。
「お前やる気ないなら学校来んなよ!」
 自分の持ち物の管理もできないなんて、と、誰かが聞こえよがしに言った。エリエーンは顔を真っ赤にして突っ立っていた。
「今日中にレポートを提出できないなら進級は厳しいかもしれません」と、教師。「ですが私は優しいので猶予をあげます。ラーステミエルさん、あさっての色覚輪郭資料館見学は中止にして、レポートを再提出しますか?」
「そんなの困ります!」
 エリエーンはつい叫んだ。
「……ああ、その……私、どうしても色覚輪郭資料館の『天球儀の戦象』を見たいんです」
「今から急いで情報環を作り直せば、明日の夕方にはレポートを出せるかもしれませんね」
「予備の情報環を貸してください。そしたら明日の朝一番で提出できます」
「駄目ですよ。自分の情報環すら管理できない生徒に学校の備品を貸せるものですか」
 そのとき、教師の後ろにいる一人がクリスタルボールから灰色を引き出して、拳の輪郭(かたち)を作り、それで講義用の長机を殴るふりをした。周囲のニヤニヤ笑い。ああ、あんなふうにして私の情報環を壊したんだとエリエーンは空しい理解をした。
「ねえ、お前さあ、校外学習に行きたいなら急いだほうがいいんじゃね?」
「ヴェラさん、お静かになさい。ラーステミエルさんはどうするんですか? 本当に学習する意欲はあるのですか?」
「わかりました」打ちひしがれて頷いた。「すぐに情報環を作り直してレポートを提出します」
「その前に、床のサンドイッチを片付けていくように、さ、みなさん、次は私の授業ですよ。記憶スティックの準備はできていますか? ああ、ラーステミエルさんはお片付けとレポートが終わるまで授業に参加しなくていいですからね」
 ごそごそと授業の準備をし始める同級生を残し、エリエーンは教室を出た。白い長い廊下を渡り、突き当たりの壁を押して扉を開き、清掃用具を目にした途端、全てがどうでもよくなった。どうして掃除なんてしなくちゃいけないの?
 エリエーンは白く清浄なエントランスに続くエスカレーターを降り、そのまま女学校を出た。数えきれない色彩の光が注ぐ街路に、ちょうどバスが来た。
 学生証でバスに乗り、一番後ろの席に座る。レポートを提出しないわけにはいかないが、別に家でもできることだ。家。家庭じゃない。新人種として生まれたエリエーンに協会があてがった集合住宅の一室。他に誰もいない、ただの箱。
「兄さん」
 その一言を呟いて、エリエーンは自分を勇気づけた。
 そう。あさって、色覚輪郭資料館に自分はいなければならない。すべきことがあるのだ。学生団が戦象の間にたどり着くまでに、二人の特務治安員を引き離し、残る二人の候補生は、できるだけ学生団にべったりくっついているようにすること。
 そう。
 全てうまくいけば、こんな日々は終わる。命を賭けた戦いに身を投じても、兄さんと、姉さんたちと暮らしていける。正義のために。誰も差別されない新しい世界のために――。

 ※

 色覚輪郭資料館見学の前日。
「現時点で資料館が貸し切りになるという情報は入ってないな」
 エリクが言って、ニハザが応じた。
「わからんぜ? 当日いきなりってことが今までにもあったじゃないか」
「構わん」
 話し合いのテーブルを囲む、ナイラノイラ人民解放戦線のラルフ・ヴォレックが重い口を開いた。
「既に工作は済んでいる。戦象の間の扉は必ず我々の前に開かれる」
「しかし戦象を動かす強火の能力者を送り込めないのでは意味がない」エリクの前のコーヒーは一口も飲まれず冷めていた。「新人種側はバリケードを増強するだけでなく、自警団を結成しています。なかなか隙がない」
「そうした問題について、解放戦線が貴様ら新生アースフィア党に丸投げし、手をこまねいていると思ったか、ユリアの息子よ」
 エリクとエリエーンの密会に使われていた地下街のレストランは、今はナイラノイラ解放戦線と新生アースフィア党、それぞれの指導者の会合のために貸し切りとなっていた。
「そういえば紹介したい奴がいるって言ってたな、叔父貴」と、ニハザ。「姿が見えないけど」
「エリク、お前はユリアよりは頭が回る」ヴォレックは言った。「あの女は美人でよく喋る、それだけだった。それでも死んでしまったときは悲しかったよ」
 ヴォレックが通信端末をテーブルに立てかけると、ディスプレイに、天井の低い倉庫のような場所が映された。
 画面の中央に片膝を立てて座っている人がいた。
 どうやら女性のようだが、異様な風体だった。頭髪の左半分を剃り上げて、右半分は豊かな黒髪を長く伸ばしている。下唇の左端には二つのボディピアス。
 目が合った。化粧をしなくても十分に量が多く長い睫毛に縁取られた目は、黒曜石に似た漆黒。その表面を、無慈悲と執念の冷たい光が覆っていた。
「ああ……この人は? ……君は? ええっと、通信は繋がっているのか?」
「フォレナ・ヨリス。解放戦線が雇った悪魔狩りの悪魔だ」
 解放戦線は常に新人種を指して悪魔と呼ぶ。
「彼女も異能力を使えるのか? 驚いたな。解放戦線がすすんで異能力者を雇い入れるとは」
「彼女はスレーンを追われてきた。悪魔どもを憎んでいる」
「スレーンだって?」
「そうだ。お前が勇敢に戦った、あの温帯草原(ステップ)の民だ」
「スレーンでは既に両人種間の共生条約が締結されている。俺たちが血を流して協会からもぎ取った譲歩だ。追われるなど、どうして――」
 画面の中でフォレナとやらが動いた。
 床に広げたパレットから緑色が立ち上がり、草原の形を作った。その中に、針金のように細い、小さな黄色い人間。
 別の黒い人々が立ち現れて、黄色い人間を激しく殴打した。一発殴られるたびに、黄色い人間の体は欠け、殴打が続くと砕けたクッキーのように草に埋もれて見えなくなった。
「ええっと」エリクはいくつかある質問の中から一つを選んで問いかけた。「その黄色い人は?」
「オニイチャン」
 少女の声でフォレナが答え、エリクとニハザは絶句した。
「……そうか、ああ、その」
 エリクはなんとか会話のつぎ穂を探した。
「俺にも異能力者の妹がいるんだ。これからよろしく頼む」
「フォレナは悪魔どもと仲良くやったりはせん。必要があれば協力しあうが、必要がなくなれば殺す」
「実際のところ、叔父貴がエリクのお袋にしたみたいにか?」
「誰がお前にそんなことを吹き込んだ、ニハザ? ユリアは悪魔を産んでしまった己を許せなかったのだ」
「異能力者たちは今回の作戦の重要な協力者です。あなたの思想の中身に手を突っ込むつもりはさらさらないが、今この場では悪魔呼ばわりは控えていただきたい」
「お前こそ結構な口をきくようになったものだ。エリエーンさえいなければ、お前は今も俺の手元にいて、都市の解放を叫んでいた。宗教的な熱狂さえもな」
「ヴォレック、俺が灼舌党のマーリーンと手を組もうとしたのがそんなに気に入らないか?」
「俺がお前に姪を与えたのは、お前の聡明さを信じたからだ。協力相手を選べる程度には賢いとな」
「姪じゃなくて甥な。俺、そこんとこ譲らねーから」ニハザが食ってかかる。「それに俺は叔父貴からエリクの兄貴に贈与されたモノじゃねえ。俺自身が兄貴の人柄に惹かれて、排除よりも共生の可能性を信じられるようになったんだ。イスマリルやエリエーンを悪魔呼ばわりする叔父貴の組織にも、教会にも戻るつもりはねえ。党の教会のほうが理性的で居心地がいいよ」
「ニハザよ、お前は信仰のために教会を捨てるのか」
「排除の教義は捨てたんだ。それで地獄に落ちるっていうのなら、兄貴と地獄に落ちてやる」
 ヴォレックが深々とため息をつく。そのタイミングでエリクが口を挟んだ。
「異能力者たちの存在をどう解釈するかにこだわっていれば、俺たちは永遠に協力しあえない。俺たちにとって目下の脅威は協会の特務治安員、その戦力の増補、そして資料館に収められた星獣を俺たちの弾圧に使われることだ」
「異存はない」
「フォレナは今どこにいるんだ?」
 フォレナはパレットの上で、黄色い兄が原形をとどめないほど石打ちでぐちゃぐちゃにされる様子を再現しているところだった。
「アンナフェルナだ。マジードを処刑した地下室にいる」
『色覚輪郭資料館には私が行く』
 やっとフォレナがまともに発言した。
『お前の妹、役に立つなら手厚く保護してやろう。だが足手まといになるならその限りではない』
 フォレナが思いやりのあるたちではないことは明らかだった。エリクは膝の上で拳を握りしめた。祈るような心地だった。
 エリエーン、うまくやれよ。お前を必ず今の境遇から救い出してやるから……。

 ※

 色覚輪郭資料館見学当日。
 ついぞ資料館前に停まったバスが弱火の女学生たちを吐き出しはじめた。ミレイたち四人は二階のレストランから様子を見下ろしていた。
「あれだ。あの緑色の髪の子がエリエーンだ」
 学生たちがランチを取る予定の、広々としたレストランで、資料館内の施設で本日貸切となっているのはこのレストランだけだった。
「あの子、ちょっと浮いてるみたいですね。なんか私が想像してたのと違うな」
 遠目にもエリエーンは疲れているように見えた。同級生たちから少し離れ、じっと俯いている。
「信念に突き動かされる堂々たる革命戦士を想像してたのかい?」
「はい、でも、勝手にそんな想像しちゃ駄目ですよね。あの子緊張してるのかな」
「何かやらかす手前の緊張じゃなければいいんだがな」
 ラジャンの声は強張っている。
 ミレイは突然、フィフィカを直視した。
「フィフィカ、君はエリエーンとお友達になれるかい?」
「えっ!?」
「重要な局面でイスマリルは迷った。だから私たちは今、生き延びている。同じようにエリエーンを迷わせられるかと聞いているんだ」
「それは……」
「あっ、入ってきます」
 ランゼスに言われて外に目を戻すと、学芸員が何か喋るのに合わせて資料館の外観を見上げていた学生たちが、いよいよ正面玄関から扉をくぐるところだった。
「私たちも行かねばなるまいな」
 ミレイは立ち上がり、ジャケットを羽織った。
「フィフィカ、ランゼス、エリエーンに親切にしろ」
「はい」
「最後に念を押しておく」
 ラジャンもまた立ち上がり、言った。
「有事の際に守るべきは、学生団でも一般の観覧者でもない。『天球儀の戦象』だ。この点を決して間違えるな」


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登場人物紹介

◆ミレイ・スターセイル

◆32歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈茜の闇〉。本作の主人公。

◆ラジャン・シンクマール

◆32歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈墜とし得ぬ星〉。ミレイの相棒。

◆イスマリル・ダーシェルナキ

◆17歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


〈呪つ星の狂照〉。旧大陸からきた特務治安員候補生の一人。

◆フィフィカ・ユンエレ

◆17歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆ランゼス・フーケ

◆17歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆ラトル・グレイ

◆17歳/男性

◆所属:治癒と再生者の協会


特務治安員候補生の一人。

◆リリファ・ホーリーバーチ

◆29歳/女性

◆所属:治癒と再生者の協会


協会の戦闘支援部隊員で、ラジャンの婚約者。

◆エリク・ラーステミエル

◆24歳/男性

◆所属:新生アースフィア党


新生アースフィア党ナイラノイラ支部の指導者。ナイラノイラ人民解放戦線の広告塔だった人物の息子。

◆エリエーン・ラーステミエル

◆17歳/女性

◆所属:新生アースフィア党


エリクの妹で、弱火の新人種。イルレーン地区の高等学校に通っている。

◆ニハザ・マーシーン

◆19歳/トランス男性

◆所属:新生アースフィア党


エリクの助手。ナイラノイラ人民解放戦線指導者ラルフ・ヴォレックの甥。

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