辻説教
文字数 3,658文字
5.
協会本部の東、虹色の光が散乱するイルレーン地区はいわゆる『弱火』の新人種たちの居住区の一つだ。白銀の塔が林立する清潔な街角で二人の男が一人の少女を足蹴にしていた。
「俺らが本気だってわかればオシッコ漏らして命乞いするくせによ」
「私はあなたたちの靴を舐めたりなんかしない!」
痛めつけられた少女は気丈に叫んだ。フィフィカより少し幼いくらいの歳で、うずくまる彼女の周囲には、無惨に切り刻まれた美しい金髪が散らばっていた。
「ぶつならぶちなさいよ! 私はあんたたちなんか怖くない。正しいことを正しいって言うだけ」
「おうおう、勇ましいぜ。店主!」
少女の目の前にあるレストランの扉が開き、仏頂面の男が一斗缶を提げて姿を現した。
「よっ、店主! イルレーンを代表する名料理店、本日のイチオシは旧人種の丸焼きだ」
店主は何も言わずに一斗缶を傾けて、少女のセーターに香り高いオリーブオイルを注いだ。
「主の言葉がエレミヤに臨んだ!」
少女はなおも言った。
「彼らを恐れてはならない、私があなたと共にいて必ず救い出す! 主はここにおられる! 私を救い出される!」
「おい、新人種様に口答えしてごめんなさいって言えよ。言ったら家に帰らせてやるよ」
「主よ、獅子の洞窟から救い出して下さるお方、囚われの牢に天使を遣わしてくださるお方……」
怯えきった少女はがたがた震えながら地面に突っ伏した。
「Ave Maria, gratia plena……いいえ、言わない。私は間違ってない。神様は全部見てる。あんたたちのすることを全部覚えていて、裁きの日には全ての罪人を燃え盛る炉に投げ入れるのよ。Dominus tecum……ああ……」
「これが最後だ、クソアマ」
男の一人がライターを出した。
「ごめんなさいしろや。それで許すって言ってんだよ」
「Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis peccatoribus」少女は打ちひしがれていたが、屈しなかった。「Nunc,et in hora mortis nostrae……今も死を迎えるときも――」
体を丸めて指を組む少女の背中にライターが落ちた。セーターに火がついて、それはオリーブオイルの流れた筋に沿って燃え広がっていった。やがて少女も熱さを感じるようになり、火を消そうと地面を転がった。
「死を――ああああ! 熱い、熱い!!」
道一本隔てたところでは、フィドルとハープが楽しげに奏でられ、昼飲みの人々が手を取り合って踊っていた。その先には大きな円いプールがあり、季節外れの今は噴水として道ゆく人の目を楽しませていた。
フィフィカはプールに向かって歩く間ずっと、炎をあげて道を転がる少女を青ざめて見つめていた。
「ここはイルレーン十四番街。ナイラノイラで最も治安のいい場所だ」
フィフィカは早くも「とんでもない場所に来てしまった」という絶望の表情を浮かべていた。ミレイはフィフィカを試す方法を思いついた。こいつはショックを受けた後でも飯を食えるのか?
ミレイの言葉にアイメルが追従する。
「そうよ、旧人種たちの住む下町なんてひどいものなんだから。同族同士で盗みあって殺しあって……あっ、市電の乗り場はこっちだよ。ミレイは〈掃き溜め〉に行くんだよね」
「オウムの示唆する場所に行くさ。そいつはいい子だ」
ミレイたちは市電に乗り込んで、次第に寂れていく街並みを窓から眺めた。
皮肉なものだ。
新人種が現れはじめた時代、その異能を嫌う多数派の旧人種たちは、新大陸への強制移民という形でミレイたちの祖先を排斥した。旧大陸からの開拓民第一波が新大陸に到着し、その地に眠る文明遺産を次々と復興しだしてから七十年ほどあとのことだ。時とともに新人種は数を増し、独自に異能を開発して結集した。自分たちを守る機構を創立し、旧人種たちを都市の辺縁に追いやった。
いずれ全ての人間が新人種にとってかわると主張する一派がある。ミレイにその真偽はわからない。異能を持つ者も持たない者も日々新しく生まれ、新大陸では人口の割合においてじわじわと新人種が旧人種を圧迫している事実があるだけだ。
ナイラノイラの旧人種どもは多産政策によって多数派の立場を固守しようとした。だが、それは大きな過ちだった。
市電が旧人種たちの居住区まで下るにつれ、乗り込む客層が次第次第に入れ替わり、やがて鼻を刺す不快な体臭が車内に満ち始めた。精神を病んだ男がうわごとを呟いている。労働者も婦人も学生も、色褪せてしわの寄った服を着て、身なりが良く星獣を連れているミレイたちを怯えと妬みの目で見ていた。
車窓からは多産政策の落胤たる孤児たちの様子が窺えた。十や二十ではきかない数の子供たちが、ゴミや吐瀉物で汚れた路上に生気のない顔で寝そべったり、建物にもたれかかったりしている。近くには薬物でおかしくなった半裸の女がいて、長い黒髪を垂らし、上半身もまただらりと折り曲げてさまよい歩いていた。
『マーリーン!』オウムが金切り声をあげた。『マーリーン! ミス・マーリーン! マーリーン! マーリーン!』
外に人だかりが見えた。
女の大声。
辻説教だ。
ミレイとアイメルはフィフィカの頭越しに目配せを交わした。
市電がカーブを曲がったところでミレイは立ち上がった。
「協会の治安員だ! 市電を止めろ」
不満と苛立ちを示すため息や舌打ちがあがったが、賢明なことに誰も何も言わなかったし、運転士は市電を停めた。ミレイたちは外に出た。大衆食堂の安い油の臭いとアンモニア臭が空中に漂っていた。
「旧大陸からの開拓者たちがこの地で最初に目にしたものはなんでしょうか!」
カーブを戻るや、女説教師の甲高い声が耳に刺さった。
「無人の都市です! 無人! 地球人たちが暮らしているはずの新大陸、そこには誰もいなかった。全ての都市がそうでした。誰もいない、何も聞こえない。地球人たちはどこに行ったのでしょうか!」
ミレイは爪先立ちになり、民衆の頭越しに説教師の顔を見た。小柄で痩せ細った女だった。
「おお、ミス・マーリーン」口の中で呟いた。「会いたかったぞ、ミス・マーリーン」
「開拓者たち、私たちの祖先を迎え入れた静寂は何を意味していたのかを考えみましょう。主の裁きです! 人っこ一人、その骸も残さず消え去る理由が他に考えられるでしょうか? 地球人たちは裁きの日を迎えました! 正しい人は生きながら天に上げられ、そうでない者は火と硫黄に投げ込まれた!」
「アーメン!」
民衆の唱和。
「地球人が神の被造物である限り、地球人に創られた我ら言語生命体もまた神の被造物なのです!」
「アーメン!」
「そうであるからには、私たちにも主の正しい裁きが下されます!」
また別の金切り声。
「主よ、私は夫に口答えしました! 姑にたてつきました!」
「悔い改めることを知らない者は誰ですか?」と、説教師。「ナイラノイラの富を独占する者は誰ですか? 力と知識を独占し、まるで神のように私たちの上に君臨する者は?」
「『語り部』どもを殺せ!」
「あの者たちは新人種などではありません。聞く耳のある者は聞きなさい。あの者たちは悪魔 と取り引きをして異能を手に入れたのです。あの者たちは魂の核心から罪深い」
「奴らを殺せ!」「殺せ!」
「荒れ野に叫ぶ声を聞きなさい!」
「アーメン! 主の道を整えよ!」
「主は怒 るに遅く、慈しみ深い。彼らは死すれば異能をふるうことはありません。つまり彼らの異能は肉に属するものです。ならば真の悔い改めによって力は失われるはずですが、そうした者はいない」
サタン、サタン、民衆がざわめく。
「携挙の日が来ます。神の武具を身につけて、拳を天に掲げましょう! サタンに惑わされてはなりません! 聖霊来てください。我らを悪からお救いください」
「神様、俺は酔い潰れるまで酒を飲みました――」「主よ――」
誰かがミレイの肘を引っ張った。フィフィカだった。ミレイはフィフィカ、そしてアイメルと共に、市電の路線に沿ってカーブを曲がり、民衆から離れ去った。
「あの……あれ……あの人たち、本気ですか?」
「ああ、本気さ」ミレイは鼻で笑った。「彼らは新人種を中心とした現在の社会から疎外されている。現実から疎外されてるんだ。その僻んだ意識は簡単にユートピアを夢想する」
「罪深い魂のために祈りましょう!」
説教師マーリーンはまだ叫んでいた。
「サタンに支配された協会に挑む新生アースフィア党を支持しましょう! 彼らの言うことを聞きなさい! エリク・ラーステミエル、あの聖戦士が街角に立つとき、あなた方は誰もその言葉に耳を塞いではなりません!」
「ミレイ、用が済んだなら戻らない?」うんざりした様子でアイメルが言った。「ここ、臭い。それにノミがいるの。あんまりいたら痒くなっちゃう」
ミレイに異論はなかった。それに、星獣を持ち歩いていれば目立つ。
マーリーンはまだ叫んでいた。
「感じましょう、圧倒的な主の臨在を――」
協会本部の東、虹色の光が散乱するイルレーン地区はいわゆる『弱火』の新人種たちの居住区の一つだ。白銀の塔が林立する清潔な街角で二人の男が一人の少女を足蹴にしていた。
「俺らが本気だってわかればオシッコ漏らして命乞いするくせによ」
「私はあなたたちの靴を舐めたりなんかしない!」
痛めつけられた少女は気丈に叫んだ。フィフィカより少し幼いくらいの歳で、うずくまる彼女の周囲には、無惨に切り刻まれた美しい金髪が散らばっていた。
「ぶつならぶちなさいよ! 私はあんたたちなんか怖くない。正しいことを正しいって言うだけ」
「おうおう、勇ましいぜ。店主!」
少女の目の前にあるレストランの扉が開き、仏頂面の男が一斗缶を提げて姿を現した。
「よっ、店主! イルレーンを代表する名料理店、本日のイチオシは旧人種の丸焼きだ」
店主は何も言わずに一斗缶を傾けて、少女のセーターに香り高いオリーブオイルを注いだ。
「主の言葉がエレミヤに臨んだ!」
少女はなおも言った。
「彼らを恐れてはならない、私があなたと共にいて必ず救い出す! 主はここにおられる! 私を救い出される!」
「おい、新人種様に口答えしてごめんなさいって言えよ。言ったら家に帰らせてやるよ」
「主よ、獅子の洞窟から救い出して下さるお方、囚われの牢に天使を遣わしてくださるお方……」
怯えきった少女はがたがた震えながら地面に突っ伏した。
「Ave Maria, gratia plena……いいえ、言わない。私は間違ってない。神様は全部見てる。あんたたちのすることを全部覚えていて、裁きの日には全ての罪人を燃え盛る炉に投げ入れるのよ。Dominus tecum……ああ……」
「これが最後だ、クソアマ」
男の一人がライターを出した。
「ごめんなさいしろや。それで許すって言ってんだよ」
「Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis peccatoribus」少女は打ちひしがれていたが、屈しなかった。「Nunc,et in hora mortis nostrae……今も死を迎えるときも――」
体を丸めて指を組む少女の背中にライターが落ちた。セーターに火がついて、それはオリーブオイルの流れた筋に沿って燃え広がっていった。やがて少女も熱さを感じるようになり、火を消そうと地面を転がった。
「死を――ああああ! 熱い、熱い!!」
道一本隔てたところでは、フィドルとハープが楽しげに奏でられ、昼飲みの人々が手を取り合って踊っていた。その先には大きな円いプールがあり、季節外れの今は噴水として道ゆく人の目を楽しませていた。
フィフィカはプールに向かって歩く間ずっと、炎をあげて道を転がる少女を青ざめて見つめていた。
「ここはイルレーン十四番街。ナイラノイラで最も治安のいい場所だ」
フィフィカは早くも「とんでもない場所に来てしまった」という絶望の表情を浮かべていた。ミレイはフィフィカを試す方法を思いついた。こいつはショックを受けた後でも飯を食えるのか?
ミレイの言葉にアイメルが追従する。
「そうよ、旧人種たちの住む下町なんてひどいものなんだから。同族同士で盗みあって殺しあって……あっ、市電の乗り場はこっちだよ。ミレイは〈掃き溜め〉に行くんだよね」
「オウムの示唆する場所に行くさ。そいつはいい子だ」
ミレイたちは市電に乗り込んで、次第に寂れていく街並みを窓から眺めた。
皮肉なものだ。
新人種が現れはじめた時代、その異能を嫌う多数派の旧人種たちは、新大陸への強制移民という形でミレイたちの祖先を排斥した。旧大陸からの開拓民第一波が新大陸に到着し、その地に眠る文明遺産を次々と復興しだしてから七十年ほどあとのことだ。時とともに新人種は数を増し、独自に異能を開発して結集した。自分たちを守る機構を創立し、旧人種たちを都市の辺縁に追いやった。
いずれ全ての人間が新人種にとってかわると主張する一派がある。ミレイにその真偽はわからない。異能を持つ者も持たない者も日々新しく生まれ、新大陸では人口の割合においてじわじわと新人種が旧人種を圧迫している事実があるだけだ。
ナイラノイラの旧人種どもは多産政策によって多数派の立場を固守しようとした。だが、それは大きな過ちだった。
市電が旧人種たちの居住区まで下るにつれ、乗り込む客層が次第次第に入れ替わり、やがて鼻を刺す不快な体臭が車内に満ち始めた。精神を病んだ男がうわごとを呟いている。労働者も婦人も学生も、色褪せてしわの寄った服を着て、身なりが良く星獣を連れているミレイたちを怯えと妬みの目で見ていた。
車窓からは多産政策の落胤たる孤児たちの様子が窺えた。十や二十ではきかない数の子供たちが、ゴミや吐瀉物で汚れた路上に生気のない顔で寝そべったり、建物にもたれかかったりしている。近くには薬物でおかしくなった半裸の女がいて、長い黒髪を垂らし、上半身もまただらりと折り曲げてさまよい歩いていた。
『マーリーン!』オウムが金切り声をあげた。『マーリーン! ミス・マーリーン! マーリーン! マーリーン!』
外に人だかりが見えた。
女の大声。
辻説教だ。
ミレイとアイメルはフィフィカの頭越しに目配せを交わした。
市電がカーブを曲がったところでミレイは立ち上がった。
「協会の治安員だ! 市電を止めろ」
不満と苛立ちを示すため息や舌打ちがあがったが、賢明なことに誰も何も言わなかったし、運転士は市電を停めた。ミレイたちは外に出た。大衆食堂の安い油の臭いとアンモニア臭が空中に漂っていた。
「旧大陸からの開拓者たちがこの地で最初に目にしたものはなんでしょうか!」
カーブを戻るや、女説教師の甲高い声が耳に刺さった。
「無人の都市です! 無人! 地球人たちが暮らしているはずの新大陸、そこには誰もいなかった。全ての都市がそうでした。誰もいない、何も聞こえない。地球人たちはどこに行ったのでしょうか!」
ミレイは爪先立ちになり、民衆の頭越しに説教師の顔を見た。小柄で痩せ細った女だった。
「おお、ミス・マーリーン」口の中で呟いた。「会いたかったぞ、ミス・マーリーン」
「開拓者たち、私たちの祖先を迎え入れた静寂は何を意味していたのかを考えみましょう。主の裁きです! 人っこ一人、その骸も残さず消え去る理由が他に考えられるでしょうか? 地球人たちは裁きの日を迎えました! 正しい人は生きながら天に上げられ、そうでない者は火と硫黄に投げ込まれた!」
「アーメン!」
民衆の唱和。
「地球人が神の被造物である限り、地球人に創られた我ら言語生命体もまた神の被造物なのです!」
「アーメン!」
「そうであるからには、私たちにも主の正しい裁きが下されます!」
また別の金切り声。
「主よ、私は夫に口答えしました! 姑にたてつきました!」
「悔い改めることを知らない者は誰ですか?」と、説教師。「ナイラノイラの富を独占する者は誰ですか? 力と知識を独占し、まるで神のように私たちの上に君臨する者は?」
「『語り部』どもを殺せ!」
「あの者たちは新人種などではありません。聞く耳のある者は聞きなさい。あの者たちは
「奴らを殺せ!」「殺せ!」
「荒れ野に叫ぶ声を聞きなさい!」
「アーメン! 主の道を整えよ!」
「主は
サタン、サタン、民衆がざわめく。
「携挙の日が来ます。神の武具を身につけて、拳を天に掲げましょう! サタンに惑わされてはなりません! 聖霊来てください。我らを悪からお救いください」
「神様、俺は酔い潰れるまで酒を飲みました――」「主よ――」
誰かがミレイの肘を引っ張った。フィフィカだった。ミレイはフィフィカ、そしてアイメルと共に、市電の路線に沿ってカーブを曲がり、民衆から離れ去った。
「あの……あれ……あの人たち、本気ですか?」
「ああ、本気さ」ミレイは鼻で笑った。「彼らは新人種を中心とした現在の社会から疎外されている。現実から疎外されてるんだ。その僻んだ意識は簡単にユートピアを夢想する」
「罪深い魂のために祈りましょう!」
説教師マーリーンはまだ叫んでいた。
「サタンに支配された協会に挑む新生アースフィア党を支持しましょう! 彼らの言うことを聞きなさい! エリク・ラーステミエル、あの聖戦士が街角に立つとき、あなた方は誰もその言葉に耳を塞いではなりません!」
「ミレイ、用が済んだなら戻らない?」うんざりした様子でアイメルが言った。「ここ、臭い。それにノミがいるの。あんまりいたら痒くなっちゃう」
ミレイに異論はなかった。それに、星獣を持ち歩いていれば目立つ。
マーリーンはまだ叫んでいた。
「感じましょう、圧倒的な主の臨在を――」