名前 #2
文字数 4,473文字
沢村たち=おれと聖香。そんな暮らしは夢でも見たことがない。
なんにもわかっちゃいない武田。ことはそんなに簡単じゃない。
誰にも予想できない話のぶっ飛び方。今の今まで聖香の話をしておいて、どうしたらそんな変化球をぶん投げてこれるのか。
睨みあった――武田が折れた。
信じるもくそもない。おれは武田の彼女と口を利いたこともなかった。
またしてもでかくなる声。特急でボリュームを絞る。
もとのぶっ飛び話にようやく戻ってきた。
マジでもない。やばくもない。近所から近所への誘拐。そんなもの、鬼ごっこの後で
しらけてきたおれは黒板の上の時計に目をやった。針はきっちり十時を指している。休み時間まであと十分。時間割表の真ん中あたりに目を持っていった――三時間目は理科。なにかの実験をやるとなったら居眠りはしづらい。どうするか。どうもしないで聖香の横顔でも見ているか。
垂れ目を垂れ目に見えないぐらいの位置まで吊りあげてくる武田。わかりやすくていいやつだとは思う。が、自分の考えに横槍が入るとすぐムキになってくるところは正直ちょっと面倒くさい。
また兄貴。おれは不良のそういう、自分より強いやつに頼る考えがどうしても好きになれない。なにかやらかすなら、その責任は全部自分で負うべきだ。
ちょっと男子、まじめに自習しないと後で怒られるわよ=豚の声。
武田がかばん置き場から降りた。
豚番長の号令で席に着くやつら。同い年の、しかも女に命令されて従う気弱なガキども。まるで羊飼いと羊――いや、豚と羊か。どっちも似たようなもんだ。
教卓に両手を突いてえらそうにしているメス豚=おそろしく肥えたそいつを見おろしながらいってやった。
例のことが頭に浮かんだ――今どきの小学生はけっこう吸ってるよ。松本と豚はどこで一緒にタバコを吸ったのか。
マイセン=マイルドセブン。そいつをプカプカやる生徒会長。本当ならとんでもない女だ。
人の健康に興味はない。武田が自分でいいと思うならなんだってやればいい。
豚の羊飼い攻撃がはじまった。
鋭い目つきで睨んでくる豚。まじめに自習していたやつらも似たような顔つきになっている。
腕相撲やプロレス――きちがいみたいに暴れてるやつらもいるのに、どうしておれだけが迷惑なのか。
あんた呼ばわりされたうえに馬鹿扱いまでされたおれ。振り子のように足を動かして跳び降りた。
武田のいうとおり。豚のかんしゃく=ヒステリーは小学生でありながら
心配なんか一ミリもしていない感じで武田が耳打ちしてくる=低い声。おれも早くそんな声が出せるようになりたかった。
聞いた話とちがう――心のなかで松本に文句をいった。
気合が足りねえな――いって、三歩前へ出た。
細く吊りあがった目と口。ただでさえ豚みたいな顔が本物と見分けがつかないぐらいに似てきた。顔のところどころに赤みも差してきている。ヒステリーの前ぶれだ。
いわれなくても今夜そうする。豚の願いを叶えてやるのはしゃくだったが成り行き上、しかたがない。
喚き散らしながら羊どもを見渡す豚――どっちも家畜のくせしやがって。頷くやつをひとりでも見つけたら、走っていってぶっ飛ばしてやるところだった。
ものはいいようだ。タバコのことをいったら松本に脅されたとでもいうんだろうか。
豚をかまうのもそろそろ飽きていた。だいたい、ここにいるやつらと顔を合わすことはもう二度とない。豚はもちろん、聖香も武田も、松本以外はみんなそうだ。今日は傷の手当てと鍵の確認。あとは万が一に備えて小銭をちょっと稼ぎに来ただけ。それ以外のことはどうだっていい。
女は大人も子供も、しまいにはわけがわからなくなってくる。それにむかついたからといって、男でも年上でもない相手をぶん殴るわけにもいかない。これ以上いい争いをしても疲れるだけだ。
羊飼いの命令=教師が生徒にそれをさせるときの口ぶり。
あんた呼ばわり、馬鹿扱いときて、今度は羊にされたおれ。よた者のせがれ、やくなし、うじ虫、ごったく、奴隷。どうして人はおれをなじる? けなす? 馬鹿にする?
低い声でいった。武田のそれには遠くおよばない。
目の前の机を蹴り倒し、ひとつ脇の机に引っかけられていた誰かの絵の具箱を豚目がけてぶん投げた。短い悲鳴――クラスの女子のほとんどが同じ声をあげた。豚とそのまわりにいたやつらが背中を丸めて頭を抱える。絵の具箱はおれの狙いとはまるで見当ちがいの方向=黒板の『日直』と書かれているあたりへぶち当たり、中身を派手にばら撒いた。
暴投を野次ってくる武田。そのおかげで気分が少し落ち着いた。
絵の具箱の持ち主が恨みがましい目をおれに向けながら、バラバラになったチューブや絵筆を拾いにいく。謝る気にはなれなかった。
あの程度が捕球できないようじゃ、そのキャッチャーも大したことはない。
教壇の脇へ屈みこんで泣いている豚を見ながらいった。保健委員の女子=
教室の空気がじっとりしていることに気づく。関係ないやつら=羊どものささやき声が耳にまとわりついてきた。なにをいってるのかまでは聞き取れない。声のひとつひとつは小さいのに、数がまとまるとそれなりにやかましかった。そいつはやがてひとつの言葉になっていき、じわじわとおれに向かってきた。
《謝りなよ》
――ふざけるな。
《謝りなよ、謝りなよ》
――なんでそんなことしなくちゃならねんだよ。
《謝りなよ、謝りなよ、ほら、謝りなよ》
――いいかげんにしろ、てめえら。
おれを取り囲むささやき。誰かれかまわず睨みつけてやった。誰もおれと目を合わせなかった。羊どもの輪唱だけが続く。
椅子をつかみあげると呪文のようなささやきはぴたりとやんだ。羊の群れが窓の側と廊下の側とに分かれていく。
豚の正面にラベンダー色の背中を見つけた――安らいでいく心。持ちあげていた椅子を床へ転がし、おれは自分の机の上へまたがった。
また一歩、遠い存在になった聖香。だけどまだ手の届くところにいる聖香。その距離は今夜を境に死ぬまで……いや、死んでも会えないそれに変わる。
ぐずりだすみぞおち。眺めるだけならいつだってそうしていられた背中を見える範囲の一番隅に置く――早く懐かしく思えるときがくればいい。念じるように思いながら、おれは藤色でもあやめ色でもない紫を心の奥へと焼きつけた。