デブがぼろアパートで寝泊まりするようになって四日めの朝、ステテコから作業着に着替えたデブはそれまでの三日間と同じ時間に部屋を出ていった。その五分後、おれは殺すつもりで静恵の首を絞めた。
理由は覚えていない。反対に忘れようがないのは殺すのを一ミリか二ミリためらったということ。そのせいできちがいを地獄へ送りそびれた。おれは忘れものを取りに戻ってきたデブに結局取り押さえられたが、そこらへんを差っ引いてもわずかな迷いの影響は大きかった。
死に損なったきちがいはその日を境に変わった。近くにデブがいるときだけおれで遊び、そうじゃないときはこっちを警戒するようになった。おもちゃをいじるにはデブの助けがいる。助けがないときは遊べない=くそを漏らしながら決めた静恵のルール。今夜もそれにならってこの女は遊んでいる。きちがいどもが暮らしている場所をおれにいわないのは遊ぶためのおもちゃに遊ばれないため。今となってはだから、殺すチャンスなどほとんどない。
文句あんだらせってみ、ほう!
一向に終わる気配を見せないきちがいどものうさ晴らし。いつもの倍はやられている。おれの得意技もそろそろ限界に近づいていた。
静恵が意味のわからない言葉を叫ぶ――脇腹にフルスイング。心が特急で体へ吸いこまれる。とんでもない痛みと息苦しさに死にたくなった。口と鼻の穴からゲロが勝手に噴きだしてくる。
おい、あんましやっと死んじまうに。
かまわね! こんなはおっちんじめばいいだ!
金属バットを避けているうちに農舎の隅へ追い詰められた=まずい状況。袖のあたりが壁の釘かなにかに引っかかった。無理やりに引っぱり戻す。ぶっちぎれた紫色のひも=聖香の髪留めが静恵の顔に当たって落ちた。かまっている暇はない。金切り声――人のものとは思えないそれが農舎の空気を震わせる。
きちがい女が喚き散らす。デブの言葉もその耳には届かない。でたらめに宙を舞う金属バットをかわしながら武器になるものを探した。
ゲロが止まらなかった。そいつを吐くたびに目で見える範囲が狭くなる――いらついた。いつものくせで舌打ちしそうになるが、口のなかは次のゲロでそれどころじゃなかった。顎の先を金属バットがかすめる。
腹がねじ切れるんじゃないかと思える痛みが一秒おきにきていた。喉から鼻へ流れていくゲロを手の甲で拭う――血が混じっていた。もしかするとおれの胃や腸はやばいのかもしれない。だが、今はそんなことを気にしてる場合じゃなかった。金属バットの先を目で追う。おれの頭を狙っている動き――来る。
ようでもねえがきゃ、死にさらしゃ!
空気を切り裂く音=パワー全開のフルスイング。屈みながら一旦下がる。頭の真上で豪快に振りきられていく金属バット。まともに食らっていたら、この頭は砂浜のスイカと同じ運命だった。
誰かが叫ぶ――あいつに決まっていた。すぐさま腰を浮かせ、壁に立てかけてあった農具=鋤を引っつかんだ。両手に構え、空振りに終わった金属バットへ振りおろす――手がじんとした。
金属バットが二度バウンドして地面へ転がった。鋤を構えなおし、きちがい女に立ち向かう。
顔なし女がまたいった。従うことに文句はない。きちがい女の額に狙いを定める。今度こそ――
一歩踏みこんで鋤を振りおろす――振りおろせなかった。
怒鳴り声と一緒に飛んできた脇腹への蹴り=デブの攻撃。顔中の穴からゲロが噴きだしてきそうだった。鋤の柄を握る手に力をこめる――馬鹿力が反対側を固定していた。すかさず背中への蹴り。握りこんでいた鋤の柄がすっぽ抜け、農薬の入ったドラム缶へ体ごと叩きつけられた。
蹴り、蹴り、蹴り、蹴り、パンチ、パンチ、蹴り=背中や足へしつこく飛んでくる打撃。そいつを食らうたびに口と鼻からゲロが飛びだしてきた。
まあで恩も常識も知らねわ、こんがきゃ。おい、静。そろそろうじ虫に飯ぃ――
指をドラム缶のふちにかけ、両足のつま先を農協マークが描かれた横脇の部分で揃える。膝と足首に力をこめ、ひと息に後ろへ跳んだ。
反動をたっぷり効かせた後ろ向きの頭突き。背中がデブの体に触れるタイミングでそいつを食らわせる――確かな感触。たぶん、鼻を潰した。が、ガキの頭突き一発でぶっ倒せるほどデブはやわくない。動きを止めるには頭か内臓をめった打ちにする必要があった。おれはきちがい女が拾いあげようとしている金属バットを先につかみ、そのまま体当たりをかました――農舎の壁に顔を打ちつけるきちがい女。ただちに百八十度ターン。左手で顔を押さえているデブの膝を走りながらフルスイングする――ジャストミート。はじめて聞く叫びに笑いがこみあげてきた。
うじ……れ、怜二、俺ぁ別におめのことが――
憎くてやってるんじゃない――たわ言のすべてを聞くつもりはなかった。宙でパーをしている左手をぶん殴り、返しの右打ちで左の太ももをぶっ飛ばしてやる。尻もちを突くデブ=チャンス。
ぎょろ目が一瞬、右へ動いた。振り返りそうになるのを堪える。決定的なダメージを与えていないデブから目を離すのは危険。後ろへは耳の神経だけを向けた。ふらつきながらこっちに近づいてくる足音で、きちがい女までの距離を測る。三メートル……二メートル――
片手バットで左半回転――空振り。きちがい女はバットの先より向こうにいた。あてにならないおれの耳。そのまま踏みこんで跳び蹴りをする。
向きなおる。腰を浮かせちゃいるものの、立つことができないでいるデブ。きちがい女に一秒だけ目をやった。胸を押さえ、夕方、穴の底で運悪くおれに見つかったミミズと同じ動きをしている。
今日こそぶち殺す。この女を地獄へ送る。だが、その前にデブだ。やつさえ始末できちまえば、あとはどうにでもなる――ダッシュ。
きちがい女の叫び――知ったことか。自分たちが不利なときだけまともなふりをするんじゃない。こいつらをこの世から消して、おれはおれの人生を手に入れてやる。
金属バットを振りかぶる。狙いは脳天。振りおろした。背中を丸めたデブが体を左へ倒す。動きを止めずに軌道修正――失敗。腕時計の部品が飛び散っただけだった。ごつい右手が握りのところまで伸びてくる――つかませない。手早くバットを引き、先の部分でぎょろ目を突く――かわされた。今度はがっちりつかまれた。
デブの顔つきが変わる。次の攻撃に入ろうとした瞬間、足払いをされた――後頭部に痛み。首から下は地面と水平。ここで倒れるのはどうにもまずい。おれの後頭部をぶっ叩いた耕運機のハンドルに手を伸ばした――届かなかった。
起きあがろうと両手を地面に突いたとき、おれの体はデブに馬乗りされた。
§
今までで一番スペシャルな暴力。顔も急所も関係なかった。デブは少なくとも三十発はおれを殴り、きちがい女は十発かそこら蹴ってきた後、右手の甲をいつものようにタバコの先で焼いてきた。
母さん、おめに弁当こせてやったに。
もう無理だった。一ミリも動けなかった。きちがい女をぶち殺すチャンスをまたもや逃しちまったおれ。これで何度めの後の祭りだろう。どうでもいい気分だった。
いわれるままに首を動かす。開かなくなったまぶたの向こうできちがいどもの影が揺れていた。鼻の穴は血とゲロが完全にふさいでいる。口のなかは鉄の味しかしなかった。
ひんやりしたものがくちびるに当たる。どうせろくでもないものだ。もう、いっそのこと殺してくれ――おれのささやかな願い。
はあ、もっと開けさ。飯がへっていかねでや。
次々と口のなかへ放りこまれていくひんやりとしたなにか。赤ん坊のくそや土じゃないことは舌触りでわかった。
食事係の交代――きちがい女からデブへ。ひとつずつだったものがいっぺんに口のなかへ押しこまれてきた――動きまわる飯。そいつがなんなのか、やっとわかった。
おごっつぉだ、うじ虫。はあ、天然のスパゲッチだに。めっぺ食えさ。
舌の上や歯ぐきの隙間で暴れだすそれ。鼻のほうへ這いずってこようとするのもいた――畑で殺した弱者のたたり。父さんのいいつけに従うのも今はさすがに無理だった。
ちゃんと噛まんきゃだめだずに。
舌でそいつらをかきだす。胃や鼻の奥へ潜りこんでいかないように喉へも力を入れる。呼吸の手間を考えると、なかなか難しい技だ。
両手を使っておれの頭を押さえつけてくるきちがい女。デブの右手が顔をわしづかみにしてくる。残ったほうの手で下顎をつかみあげられた。奥歯と顎の関節に力をこめる=無駄な抵抗。プロレスラーの握力に敵うわけがなかった。
吐きけが言葉の邪魔をする。喉の奥からせりあがってくるものを咳と一緒に吐きだした。何匹かのミミズとゲロがデブの手にかかったはずだったが、その手が顎からどけられることはなかった。
吐くことはできても吸うことができない苦しみ。新鮮な空気が欲しかった。そのためなら聖香を殺してもいいと思った。その後でちゃんとおれも死ぬ。そいつができたらきっと最高だ。
残さねでちゃんと飲っくめ。
息ができない間も勝手に動かされるおれの顎。口のなかへ次々とぶちこまれていく天然スパゲティーどもを奥歯が噛み潰すたびに、ひどく酸っぱい味が口のなかに広がった。それでも這いずりまわることをやめない不死身の肉。もうどれぐらい飲みこんでいるのかわからない。自分の腹のなかを想像するだけで胃が爆発しそうになった。
きちがい女がおれの名前を口にする。眉間に力をこめてまぶたを押しあげた。目を潤ませ、まるでサンタにプレゼントでももらったかのような表情を浮かべているきちがい女。夏にくそを食わしてきたときも、こいつはこんな顔をしていた。
もってねえことすっと地獄へ落っこちんだに。
おれはもう、とっくに地獄にいた。ちがう地獄があるのなら、さっさとそっちへやってくれ。そういう代わりにミミズのジュースを噴きだしてやる――跳びのくようにしておれから離れるきちがいども。ざまあみろと思う。思うだけでそれ以上おれにできることはなかった。
こきたねことしゃあがって、こんがきゃ!
デブがびっこを引いていないほうの足でおれの体を蹴り転がす。三度めのそれでうつぶせになった。土に口をつけたまま吐く。好きに吐けることが馬鹿みたいに嬉しかった。
ばあやん帰ってきたら、ちゃんと謝れ! わかたか!
またなんくせ。おれがハツになにをしたのか。いずれは殺すが今はまだなにもしていない。
デブがいった。静恵がいった。きちがいでも他人の目を気にする頭はちゃんと働く。大したもんだ。
口を動かさずにいう――いつものように。きちがいどもはもう、おれに近づいてこなかった。
§
どこからともなくやってきて、好き放題に暴れていったきちがいども。今夜はこれで済んだが、あいつらのお遊びはこの先も――おれがあいつらを殺すか、あいつらにおれが殺されるかするまで続く。
転がった透明の入れものから、あちこちへ這いずっていく残飯ども。そいつらと同じようにしておれも扉のほうへ這っていった。
肘と膝で体の向きを変える――誰かが乗っかっているんじゃないかと思えるほどに重たい体。砂利を噛むタイヤの音を頭の後ろで聞きながら左肘を前へとずらしていく。這いずっていたミミズの一匹がおれに向かってきた。
喉から声を絞りだした。ミミズは怯むことなくこっちへ向かってくる。強い者に好きにされた弱者などまるで目に入らないとでもいうように。
強くなりたかった。でかい体が欲しかった。鉄のスコップになって、きちがいどもにくそやミミズを食わせてやりたかった。
人のことなどおかまいなしに鳴いている虫たちの声と夜風が、扉のほうから入りこんできていた。じっとする。顔をなでまわしていく風が冷たいのかそうじゃないのかわからなかった。鼻のなかでかたまりかけている血やゲロを鼻息で飛ばす。それからゆっくりと左の肘を前に出して――こけた。
横倒しになった勢いで鼻からちぎれたミミズが出てきた。舌が自動的にさっきの味を思いだす――胃がひっくり返った。
ひとつの口でゲロと文句をいっぺんに吐く。おれは四つん這いで進むのを諦め、歩けば二秒かそこらのところを横向きになって転がっていった。さっきのミミズが自分の何倍もでかいおれの背中に潰されていく。そいつを下敷きにしたまま、おれは馬鹿高い天井を眺めた。
この背中にはミミズしかいないが、父さんの背中には龍がいた。でかい背中にびっしり生えた黒い鱗。大人になればおれにも同じものが同じ場所に生えてくるんだと昔は思っていた。
でかくて強かった父さん。父さんの子供のおれもいつかきっとそうなる。そうなったときおれはきちがいどもを殺す。三人まとめて畑の肥やしにする。
きちがいどもの命日をいつにするか。ミミズたっぷりのゲロをぶちまけながら考えた。