野良仕事
文字数 5,318文字
昨日、一日降り続いた雨のせいで畑はかなりぬかるんでいた。十月も下旬の弱い日の光じゃ土だってそう簡単には乾いちゃくれない。こんな田んぼのような畑でやる野良仕事になんの意味があるのか。おれはばかばかしい思いを味の薄くなったガムと一緒に噛み潰した。
わざわざ盛りあげてある土=
おれにはどうにも合わない野良仕事。舌打ちをしながら右膝をあげる――足の裏が涼しくなった。同時に今度は左足がさっきの二の舞。手に持っていたスコップをぶん投げ、尻を濡らさないように地面へ両腕を突く――今日、三度めのへま。額から垂れてくる汗だか水だか泥だかを、できそこないのウインクでやり過ごす。長靴のなかで足首をこねくりまわすたびにぬかるみが変な音=下痢をしたときに尻の穴がやるそれを鳴らしてきた。
ムキになればなるほどまぬけな音が派手になる。笑いがこみあげてきたおれは、そいつでリズムを取りながら鼻歌で
口を動かさずにいった。声のしたほうを盗み見る。ハツは長ねぎと野沢菜の向こうで小豆を打っていた。見ているだけで
びしょ濡れの背中にやっとの思いで熱を伝えてくる貧弱な日射し。拾いあげたスコップを自分の影のみぞおちに突き立てる――くそ!
くだらなかった。つまらなかった。どう考えてもおれだけが幸せじゃなかった。いや、幸せじゃなくてもいい。せめて普通の暮らし――たとえば友だちを家へ呼んだり、
じゃが芋とはまるで関係のない穴をひたすら広げていく。意味のない時間を意味のない行動で埋めていくのはいつものパターンだった。今までの人生を、おれはほとんどこのやり方で塗り潰してきている。
スコップを突き刺すスピードをあげた。息が弾む。雨水をたらふく吸いこんだ土はいくらでも掘り返すことができた――くそ、くそ、くそ!
いつになったら
山の側から吹いてきたひどく冷たい風がキャベツとじゃが芋とおれの顔を引っぱたいていく。また、うっぷんが溜まった。スコップを右手に持ち替え、今度は反対側へと穴を広げていく――くそ、くそ、くそ、くそ!
――いつまでも奴隷じゃねえよ……。
――次は奴隷になんか生まれてこねえよ。
自分の声で我に返った。ゆっくりと首をひねり、長ねぎと野沢菜の先へそれとなく目を向ける。ハツはおっさんがやるようなあぐらをかいて、さっきと同じことをしていた。心がうっぷんだらけになっていく。
前を向き、舌打ちをし、なんの味もしなくなったガムを掘った穴へ吐き捨てる――作業再開。
スコップの先が硬いなにかにぶつかった。感触としては石。そうじゃなきゃ
自然と吊りあがっていくおれの口もと。ミミズの世界じゃ
弱い者はいつだって強い者の好きにされるのがこの世のルールだ――頭を潰しながらいってやった。鉄のスコップになったおれに敵うものはない。
まぶたをきつく閉じる。ハツをぶち殺したくてうずうずしているおれと、それをためらうおれが話しあいをはじめる。
話しあいの結果が出る前に体から心だけを切り離す――去年、あの冬の晩に覚えた技。今ではそいつがくせになっている。自分がまだ死なずに済んでいるのはこいつのおかげだということをハツはわかっていない。
痛めつけられているおれの体を、ハツの後ろへまわりこんで見ているおれの心。老いぼれの後ろ姿がどこかのガキのそれに変わる。ズームアップ――傷だらけの背中。切り離された心が行き当たりばったりで迷いこんだ場所。ガキの横で突っ立っている女には顔がなかった。左手にはバットが握られている。
§
三年前の冬、
冬休み中の急な出来事によって、お別れ会すら開かれずに終わった千葉での暮らし。静恵の兄が運転する車へ乗せられ、馬鹿寒い長野へ連れてこられたおれはその晩、自分の運のなさに泣いた。
沢村静恵はすぐに安西静恵になったが、おれの苗字はそのままだった。父さんとのつながりをかろうじて残されたことはせめてもの救いだったし、それを大事にしたいとも思った。
前の学校では暴れまくり、力で友だちを押さえつけていたおれは転入した先でも同じやり方をためした――すぐに袋叩きにされた。もちろん次の日からは無視に嫌がらせのお決まりコース。どこの学校でもそのへんは同じ。たまらなくなったおれはクラスのボスを、そいつの塾帰りに闇討ちした。二度と歯向かってこないようにしつこく、骨のずいまで、徹底的に。
そいつの取り巻きがそのことを学校中にいいふらしてまわると、それまでの無視は
おれはそいつらとグループを作り、縄張りをほかのクラスにまで広げた。家が金持ちそうなやつを狙ってはいじめ、それがいやなら金やものを持ってこいといった。そうして集めた金をおれたちは買い食いやゲームセンターへ入り浸るために使った。
仲間の
二月の雪の晩だった。勤めを終えた静恵が知らない男を連れてきて、そいつを新しい家族だといった。今日から一緒に暮らす、ともいった。ただでさえ狭い六畳二間のぼろアパートにこれ以上人が増えるなんて冗談じゃないと抗議をしたが、それはおれがふたりにぶちのめされる理由にしかならなかった。心が『おれじゃないおれ』を見たのはこのときが最初だ。
静恵の苗字が安西から
切り離していた心を体へ戻す――いつもに比べて少ないダメージ。農道を行く誰かの顔がこっちに向いていた。ハツは
弱者の残がいを土へ返し、しゃかりきになってじゃが芋を引っこ抜く。たまに出くわすミミズはもう相手にしない。引っこ抜いた芋のまわりについている土を払い落とし、畝の脇へと転がしていく。種芋からちぎれて置き去りになっているものがないか、スコップの背を使って探す。それが済んだらとなりへ移って同じことを繰り返し、一列やっつけ終わったところで、今度は転がしておいたじゃが芋を発泡スチロールの箱に詰めていく=馬鹿でもできる単純作業。
なにも考えなければ体は動く。考えはじめると途端に動かなくなる。おれの脳みそはふたつのことを同時にこなせない。それはつまり、馬鹿ということだった。
頭の足りないガキには奴隷がふさわしい。奴隷になったからには考えごとなんかしちゃいけない。考えたとおりに、もし生きたいと思うなら、今すぐここを飛びだして奴隷をやめることだ。
二列めのじゃが芋に手をかける。芋掘り専用の馬鹿になるために、おれは考えごとをやめた。
§