女スパイ #3
文字数 5,493文字
金があればなにができる?――ガキのおれでも大人のように生きられる。
大人のように生きてどうしたい?――やりたいことをやる。
やりたいこと? それはなんだ?――わからない。ただ、奴隷の暮らしはもうたくさんだ。
そんなに奴隷はいやか?――当たり前だ。そんなもの好きなやつがどこにいる。
ふと我に返る。おれは誰としゃべっているのか――
化けものは札束を積み木代わりにして不気味なものを作っていた。そいつがなんなのかを聞く。
相変わらずふざけたことしかいわない化けもの。ぶっ飛ばせる手段がなにもないことにいらつく。
――さっきのはお前か。
耳もとでいきなり声がした。目の高さも
床から立ちあがり、ぶっ倒した丸椅子をつかんで起こす。尾てい骨が少しだけしびれていた。
壁の時計を見た――二時十五分。五時間目は二時何分までだったか。
相馬が目を閉じて口をすぼめる。
どうせいい意味じゃないに決まっているたとえ――舌打ちだけした。
下を向いて笑う相馬――弱々しい笑い。どういう意味でそうしてるのかはわからないが、見ていてなんとなくいやな気分になった。
相馬の口が開きかけて閉じた。口争いはおれの勝ち。
相馬が――大人の相馬がおれに頭を下げだした。いったいなんの真似だ。児島の顔を見る――まん丸の目玉。おれのそれもたぶん、同じ。首の向きを戻す。目の前のつむじを見ているほかに、なにをすればいいのかわからなかった。
頭をあげながら相馬がいう。
相馬は変わっている。大人は普通、子供に頭なんか下げない。少なくともおれはそんな大人を見た覚えがない。今の話がそのとおりなのはわかるが、ほとんどの大人は子供に対していばっている。だから謝らない。それだけならまだしも、場合によっちゃことの責任をこっちへなすりつけてくるまである。
顎で頷く。かなりぎこちない動きでそうしたのが自分でもわかった。
相馬の態度から今までの申しわけなさが消し飛ぶ。
別に――なにかいい返しそうになるのを顎に力を入れて堪えた。へたなことをいってまた謝られても敵わない。少し間を置いてから、どうしてそれが自分を弱く見せてることになるのか、なるべく角が立たない言葉を選んで聞いてみた。
それは犬じゃないと笑われた。児島までけらけらやっている。正解を聞いてそっちだったか、と思った。が、そんなことは大きなお世話だ。
目とメガネの間を魚の柄のハンカチでこする相馬。食ってかかりたい気分が復活してくる。だいたい、そこまでいわれるほどぼろかすに弱いわけじゃない。静恵やハツをぶちのめすぐらいなら朝飯前だ。
ハンカチを白衣のどこかへしまった相馬が児島に聞く。
そういわれると自信がなくなる。同い年のやつらや女のきちがいには勝てても、男のきちがい=デブにはどうしたって負ける。金曜の晩も野球でいえばスコンク負けに近いやられ方をした。きちがいども全員をぶちのめせないうちはミミズも同じ。いや、転がされて、いやおうなしにそいつらを食わされたおれはミミズ以下の生きもの。鉄のスコップはおろか、針金にもほど遠い。
おれがなりたいのは硬くて丈夫な鉄のスコップだ。鳴きもしないペラペラの虫に用はない。
結局、昆布茶と健康についての話は終鈴を聞くまで続けられた。話を聞いているふりが効いたのか、相馬は絆創膏の予備を二枚、追加でよこしてきた。メガネを相手にするときは好きなだけしゃべらせてやれ――後で松本に教えてやろうと思ったが、もうその必要もないことに気づいた。
おれは相馬に礼をいい、サービス分の絆創膏をポケットへねじこんだ。
弱々しい声と例のカメレオンで児島は相馬に体調不良を訴えたが、ものすごく元気そうな顔色が芝居を台なしにしていた。
アーモンド型の目がまた宙をさまよう。都合が悪くなると目の上の埃を追っかけたくなるんだろうか。変なくせだ。
うその咳をしながらうそをつく児島。黙っていた。
児島は根っからのサボり魔だった。おれや武田みたいな馬鹿ならともかく、たぶんそんなに馬鹿じゃない児島が、こんな調子で勉強についていけるんだろうか――どうでもいい心配。いんちきな咳はまだ続いている。
助け船――武田の彼女へのスペシャルサービス。派手に宇宙遊泳をしていた目玉が痣だらけの顔に着地する。
病人の顔から笑顔へカメレオン――左目を軽く閉じてくる児島。
上手なウインクもここじゃ余計な真似。せっかく手助けしてやってるのに、この女はどうしていらないことをするのか。こんなんじゃスパイなんて到底無理だろう。
的はずれな脅し。武田のことを知らないんだろうか。いずれにしろ、それをされたところで痛くもかゆくもない――いろんな意味で。
勝ち誇ったような顔にむかついた。口もとのあたりが特に憎たらしい。児島はそして彼女じゃない。
そこまでいうなら、聖香の名前を出してみろ――鼻息で吐き捨ててやった。
相馬がおれの前に来て腰を屈める。
目の下の痣を反対向きに映しだすレンズ。顔が近かった。
相馬のメガネは透明で色なんかついていない。そのへんの大人どもがどうなのかも知らない。それともまたことわざかなんかだろうか。聞くとまたしても笑われた。おれは日本語がだんだん嫌いになってきた。
馬鹿なおれにもわかる言葉で色メガネの意味を説明してくる相馬。
そういう目=うそつき、問題児、常識のないガキ、よた者のせがれ、やくなし、うじ虫、ごったく、奴隷――そんなものを見る目。
謝らなくていいから、決めつけるのをやめろ――口を返す代わりに無視をした。
なにが悲しいのか知らないが、残念なのはこっちも同じ。放課後を最後に会えなくなる聖香のことを思うと、みぞおちが馬鹿みたいにちくちくしてくる。昼を過ぎた今にしたってそんな調子だ。
わかってもらいたい相手はいる。だが、その気持ちが相手に伝わることはない。相馬の問いには答えなかった。
またしてもすっとんきょうを口走る児島。
おれと児島は完全に疑われていた――超色メガネ。こうなったらなにがなんでも武田に登場してもらうしかない。
うそつけよ――鼻で笑ってやった。
そうはいっても大人の相馬がいってる以上、そういうふうにしか聞こえない。
勘ちがいしないで聞いて。あなた、かなり損をしてるのよ。さっきも話したけど、だめじゃないのにだめなふり。弱くないのに強がってるように見せちゃう。そういう……なんていうのかしら、あまのじゃくな態度? まあ、ひと言でいうと生活態度の悪さね。人から誤解を受けやすい原因はそこ。わかる?
問題は生活態度だけじゃなかった。生まれた場所にはじまって、運に頭。けっこういろいろとどうしようもない。
勉強という言葉を口にして笑いそうになった。おれの人生は今夜から、そんなものとは一ミリも関係ない方向へ進んでいくことが決まっている。国語、算数、理科、社会用の脳みそはもう必要ない。
馬鹿なガキへのお決まり文句。ケガや体の調子のことならともかく、馬鹿と利口の区別を保健医にできるわけがなかった。それに馬鹿じゃないことがそのまま利口につながるわけでもない。大人は言葉を使い分ける。便利ないいまわしをたくさん知っている。相馬は慰めのつもりかなんかでそういうことをいってるだけ。今のおれにそんな話をしても無駄だということをちっともわかっていない。
上履きをきっちり踵まで履き、それから扉に手をかけた。
相馬の前でその話はするな――目で児島にいった。
でたらめを口にしながら扉を引き開けた。いつもどおりのざわめきが耳に飛びこんでくる。おれは放課後までの時間をどう潰すかペンギンの包みを剥きながら考えた。