たたり #1
文字数 4,231文字
もうやだ。ほんとにもうやだよ。母さんの正しさを信じられなくなっちゃった。気づいてないと思うけど、母さんはぜんぶがうそ。なんでもそれでぬりかためちゃうんだ。
それに母さんはいま、すごくひどい顔してる。人の顔じゃない。ほら、かがみで見てよ、自分の顔。きっとびっくりするから。ぼくはなれてるけどね。ずっと見てきてるから。
ごめんね、母さん。ほんとにごめんね。ぼく、口ごたえしたことないよね。はむかったこともないよね。ただのいちどだって母さんにそんなことしてこなかったよね。でも今日はいうよ。足がびっこになっても、目がつぶれてもね。うん、ころされてもいう。ころされるまでね。
《どうして母さんの気持ちがわからないの》
ぼくはサーカスのくまやライオンじゃないよ、母さん。そんなものでたたかれなくてもわかるよ。
《お腹を痛めてお前を産んで、ここまで育ててきたのに》
ありがとう。ほんとにかんしゃしてるよ。でも母さんにけとばされたおなかもすごくいたいよ。
《母さんだって好きでこんな暮らししてるわけじゃない》
そうだよね。だけどぼくだって好きで手からやきにくのにおいをさせてるわけじゃないよ。
《母さんはお前の父さんのせいでぼろぼろだ》
それはちがうよ。母さんはぼろぼろじゃないよ。ぼろぼろなのはぼくだよ。ぼくの心だよ。ねえ、母さん。ちゃんとぼくを見てよ、母さん、母さん。
お前なんか産むんじゃなかった。
――ほら、またうそいったよ、母さん。
§
鎖がじゃらじゃら鳴る音で目が覚めた。大量の空気を鼻から吸いこみ、吐きだす。頭のなかに残っていたろくでもない夢も一緒にそうした。
鎖の音はまだ続いていた。動きに落ち着きがないハナコ。おそらくハツのせいだろう。あんなもの、戻ってこなきゃいいのに。
体を起こした。ひとつしかない小窓に目をやる――闇が映っているだけだった。そのまま目玉だけを動かし、床へ置いてある目覚まし時計で時間を確認した。黄緑色に光る針が十の少し手前で重なっている。
伊勢乃へ出かけていったハツがその日のうちに戻ってきたことなど、今までに一度だってなかったはず。たまたまなのか――いやな予感が眠けを吹き飛ばしていく。
虫たちが一斉に鳴きやむ=ニュースを読みあげるアナウンサーの声だけになったトタン小屋。ちぎれっこない鎖をぶっちぎろうとしている音とハナコの唸り声がそいつに重なり、さらに砂利を噛むタイヤの音も上塗りされると、唸り声は吠え声に変わった。
はずれてほしいときに限って当たるおれの予感。トタン小屋に向かってまっすぐ近づいてくるふたり分の足音が、せっかく温まった体を一気に冷やしていく。死ぬのは大嫌いだったが、今なら即死してもいいと思った。
何年か前に
§
殴るか蹴るかして開けられた扉。人が入ってくる前になにかが飛んできた。せんべい布団をとっさにかぶる。右肘にそいつが当たった――まともに食らっていたらやばい威力。ベニヤの床で金属バットが軽やかな音を立てた。
前のめりになっているおれの体を、今度はデブ=
うじ虫のガキはしょせん、うじ虫――後頭部に吐きつけられてきた文句。デブがおれを名前で呼ぶことはない。父さんともども、うじ虫としかいわなかった。
髪を引っぱりまわされた。扉の前で体をベニヤの床へ叩きつけられた――脳みその芯にしびれが走る。デブの力はプロレスラー並みに強い。
こいつらはなんでもおれのせいにした。ハツはなんでもこいつらにちくった。おれをいたぶることがなによりも生きがいのふたりにとって、ハツからの電話はプレイボールを宣言する審判の声と同じ意味だった。
じゃが芋とは関係のない穴掘りが招いたろくでもない夜。牙を剥きだしにしたハナコが鎖をギリギリいわせて吠えている。
一度だけ短い悲鳴をあげたハナコがまた吠えはじめる。
よせ。静恵は――その女はきちがいだ。なにをどうしたところでおとなしくはならない。もげるほど首をひねり、おれはまっすぐにハナコの両目を見つめた。
きちがいどものうさ晴らし。おれは鼻がひん曲がりそうなにおいの立ちこめている
§
ハツの家はまわりを畑にぐるっと囲まれたところにあった。一番近いよその家でも百メートルは離れている。畑の内側はすべてハツの敷地で、たった今おれがぶちこまれた
デブに後ろ手をひねりあげられた。髪を引っつかまれた。前後左右に揺すぶられるおれの頭。心と体を切り離すスイッチを入れる。おれはきちがいどもと、おれのかたちをした人形に向かってじゃあな、といった。
足蹴り、膝蹴り、肘打ち、指輪がはまった拳での打撃。それから得意の金属バット。この体の傷は静恵の
さっきからデブがおれの体を固定しているおかげで静恵の攻撃が確実に決まっていた――慣れたやり口。つまり人形もその痛みには慣れている。
うんともすんともいわないおれ型の人形に向かって死ねという女。こいつを母親と慕っていた頃の自分を笑い飛ばしたくなった。
発酵した堆肥のにおいが人形の鼻を通じて心に送られてくる――あのときと同じにおい。
テレビの前で狂ったようにはしゃぎだす顔のない化けもの。ボリュームは勝手にあがっている。耳障りな音=寝巻きのなかにぶちまけられたくそのそれが耐えがたいほどの爆音になる。
――やめろ。
おれの声とテレビからのそれが重なった。
あのときに息の根を止めることができていれば。邪魔さえ入らなければ。首なんか絞めずにいっそ刺し殺しておけば。いや、そうじゃない。やれるチャンスはもっと昔にもあった。それも一回や二回じゃなかったはず――後の祭り。今夜こんな目にあっているのも、すべてはおれの責任。静恵を――このきちがいをぶち殺すことに踏んぎりをつけられなかった弱い心のせいだ。