迷い
文字数 3,204文字
夜の闇を加速させていく虫の声に包まれておれたちは歩いていた。松本はおれから二、三メートル離れた前にいる。
電柱の近くへ差しかかった赤い後ろ姿を防犯灯の光が闇に浮かびあげた。もぎたてのりんごのような色をしていた背中が今はミルクチョコレートのそれになっている。
黙りこんでいる松本。おれも同じだった。気まずい空気でできた壁の向こうに声をかけたかったが、おれの勇気はその壁をぶち破れないでいた。ランドセルの金具が立てる音を聞きながらやりすぎたことを反省する。
さっきは――松本を叩きのめしているときはひとりでかっぱらうことも考えた。だが、よくよく思えばおれの頭と運だけですべてをうまくやりきれるはずがなかった。学校へどう忍びこんで、どこへ向かって逃げて、隠れて、やり過ごすのか。そういうことをこの脳みそは一ミリも思いつけない。今だって頭のなかにあるのは奴隷の暮らしから抜けだすことと、あとは今さら気にしてもしかたがない聖香のことだけだ。
もちろん、この計画に聖香を巻きこもうとか、そんなことを考えているわけじゃない。悪いことと聖香は水と油の関係だ。泥棒――いや、家出の『い』の字でも口にしたら最後、
ただ、叶うものならおしまいぐらいは普通に口を利きたい。別にさよならなんかいえなくてもいい。おはよう、元気、また明日。たったそれだけでかまわない。聖香と言葉を交わすことができれば、おれはそいつを思いでにこの街を出ていくことができる。知らない街で生きていくことができる。そしていつの日か聖香を忘れることができる。
考えごとをしている間にずいぶんと歩いていた。松本は相変わらずの位置にいる。口を開く
計画をふたりでやると決めた以上、このまま別れるのはまずい。家を出るまでまだ日があるなら今日は口を利かずにさよならしてもいいが、計画の実行は明日だ。そいつを成功させるには特急でいつもどおり――つまり、仲なおりをする必要がある。せっかくのチャンスをここで棒に振るわけにはいかない。
丁字路があと少しのところまで迫ってきていた。松本はそこを右へ、おれは左へ曲がる。
小蝿でも払うような手つきで遠慮されたガム。引っこめたそいつを自分の口へ放りこむ。
松本はふてくされていた。怒っていた。当たり前だ。自分をぶちのめしてきた相手を五分かそこらで許せる馬鹿なんていない。特急コースの仲なおりはちょっと無理かもしれなかった。
松本はそんなやつじゃない――自信満々にいいきるおれと、そうじゃないおれがいた。
こんなことで裏切るぐらいなら、はじめから誘ってくるわけがない=自信満々側のおれのいい分。対して、そうじゃないほうの意見ははっきりしていて、しかもいくつもあった。
いい分、その一/松本が計画からおれを外して、ほかの誰かと手を組んだらどうする?
その二/鍵がいつもの場所になかった。だから中止だとうそをつかれたらどうする?
その三/殴られた腹いせにすべてをおれのせいにして学校へ
――やっぱり今夜のうちにやっちまおう。
人を信用するのが苦手なおれは、ひとりで金をかっぱらうことをもう一度考えた。松本と別れた足でそのまま学校へ行き、窓ガラスを破り、例の鍵を使って事務室へ忍びこめば、そこに眠っている札束はすべておれのもの。みんなが明日持っていく分を差っ引いたとしても、今夜独り占めした場合のほうが手にする額は多いだろう。ついでをいえばハツのうさ晴らしにつきあわなくても済む。後のことはおいおい考えていけばいい。
本当にそう思っているのかどうかわからない口ぶりだったが、今そのあたりを探ればやぶ蛇になる。おれたちはさっきと同じように黙って歩き、丁字路の止まれで背を向けあった。
首の後ろで感じていた気配が遠のいていくにしたがってふくらんでいく不安。松本はおれを裏切るつもりなのか。騙すつもりなのか。売るつもりなのか。そんなものはもしかすると全部おれの思いこみなんじゃないのか。松本はやらないといってるわけじゃない。おれと組まないともいっていない。恨みっこなしというのは、計画の成功を松本なりに考えた返事なんじゃないのか。
〝沢村ー!〟
すっとんきょうな声が背中に飛んでくる。振り向くと、松本がおれから数えて四つめの電柱の脇=防犯灯の光の輪のなかでランドセルをぶんまわしていた。おれになにか話すことでも出てきたのか――いやな予感。
自分が痛い思いをする前に、たくさんの痛みを相手に与えて動けなくする。従わせるためにもっと痛みを加える。二度と歯向かわせないために相手が味わったことのない痛みを上乗せしてやる。暴力はそういう使い方をするものだと、おれはきちがいどもからいやというほど学んできている。ただ、それを今日、松本にするべきじゃなかった。
ガッツポーズをする松本。暗すぎる道と明るすぎる防犯灯のせいで、ひとり芝居をしている役者みたいに見えた。なかなか様になっている。おれも同じポーズをして返した。そうしてお互いが見えなくなるまで、おれたちは後ろ向きに歩いていった。
最初から疑ってかかってどうする。お互いを信じようといいだしたのは自分じゃねえか――二分の一のおれがいう。
信じてやることにした。なにがあってもおれは