彼氏 #2
文字数 4,386文字
元気のない懐中電灯。三時間もつけっぱなしじゃ当たり前だった。
新しい電池に交換してやると小屋のなかは普通の家と変わらない明るさになった。ポケットの中身を木箱の上へ並べる――五千円に少し足りない金。ペンギンガムの予備がひとつ。それに絆創膏が三枚。ささやかな準備だが心細くはない。あと一時間もすればこの何百倍もの金が手に入る――夢のはじまり。目の前の札がただの紙きれに見えてきた。
並べたものをしまい、ズックのひもを結びなおす。右手に痛みが走った。甲に貼りついている絆創膏を引っぺがし、傷口を光のなかへかざす――膿む寸前。消毒液が欲しかった。学校へ忍びこんだら、ついでにそいつも一本いただいてこよう。それまでは空気に触れさせておくことにした。おれは頭に帽子を載せ、灯りを消して外へ出た。
§
空には月がなかった。明るい星もあまりない――家出にはもってこいの黒い夜。見渡す限りの闇がおれの未来を祝ってくれていた。冷えた空気を鼻から思いきり吸いこみ、勢いよく口から吐きだす。いい気分だった。
ハツのことが頭をよぎる――いい気分からそうじゃない気分へ。だがじきにそれも気にならなくなった。老いぼれがなにをどうしたところで自由にはなれない。そういう縛り方をおれはしてきた。きちがいどもに発見されるまで、せいぜいくそや小便を垂れ流せばいい。
Gパンのチャックをおろし、最近やっと毛が生えてきたあそこを引っぱりだす。暗い星の
後悔しながらチャックをあげていると後ろで物音がした。反射的にしゃがみ、耳を音の方向へ傾ける――ひとり分の足音。農道からこっちへと近づいてきている。
闇のなかの気配は、これから遠足にでも行くような脳天気さだった。着ているジャンバーの色がわかる位置まで来ると向こうもおれに気づき、手を振りながら駆けよってきた。
松本が眉をよせる。
心配されていることの意味がわからなかった。まさか夕方のあのことを聞いてきているんだろうか。
そっちじゃないほうの話は、今はまだちょっとしたくない。
小さなうそをひとつ、口にする。
そうじゃなきゃ困る。松本がでかいあくびと背伸びをしながら、おれの横を過ぎていった。
誰にだろう。ふたつの頭のなかに浮かんだ顔が同じじゃなければいいと思う反面、同じに決まっているとも思った。
親じゃない――いいかけて黙る。
松本は聖香に別れをどう切りだしたんだろう。どう納得させたんだろう。会って話をしたんだろうか。電話でそうしたんだろうか。それともなにも伝えていないんだろうか――次から次へと押しよせてくる疑問。おれには一ミリも関係ないふたりのことが気になってしかたがなかった。
少し離れたところからの声。体をねじる。松本が小屋の扉を引き、まるで友だちを自分ちへ呼ぶかのようにしてこっちを手招きしている。
深呼吸――頭と心を空っぽに。いや、頭のほうは生まれつきか。おれは
§
小屋のなかで松本を追い越し、懐中電灯のスイッチを入れた。暗がりじゃわからなかった松本の顔=おれに負けず劣らずのパンダ模様が浮かびあがる。
拳で自分の顔を軽く叩いてみせた。
まずくはない。だが、ガキのケンカに口を出してくる親もなかにはいる。蝿野郎のところなんかは手まで出てきた。
扉を閉めながら松本がいう。
大抵の家じゃおれみたいなガキは嫌われる。美滝でも前の学校でも千葉でもそうだった。親にそういわれた友だちのほとんどはおれから離れ、次の日からは口も利いてこなくなる。
木箱のところまで歩いてきた松本が鼻をひくつかせる。タバコのことをいってるのか。松本の真似をしてみた――くしゃみが出そうになるだけだった。
松本が晩に食った飯の話をする。うまそうだなと思いながら、聖香とのことを聞こうかどうか考えた。本当のところを知りたいおれと、知っていやな思いをしたくないおれが心のなかで火花を散らす。どっちのおれにも応援団がついていた。団長は顔なし女。笛の代わりにカニの足をくわえている。
服の上から胸の肉をつかみあげる。爪を深くめりこませると化けものはかたまって動かなくなった。
松本が巾着袋を手に取りながらいう。大仕事の前に気合をぶちこんだんだ、と返した。
袋の中身をのぞきこむ松本。赤い背中を懐中電灯の光が直撃する。昨日は泥だらけだったところがきれいさっぱり、もとどおりになっていた。松本はそんなすごい洗濯機の置いてある家を今夜、捨てる。それと同じように聖香のことも捨てる。おれには捨てるものがない。最初からなにも持っていない、捨てる勇気を一ミリも知らないおれがふたりのことに首を突っこむのは、おかどちがいなんじゃないのか。
積みあがった木箱の上を指しながらいう――いやな思いをしたくないおれの勝ち。松本がくわえタバコで頷く。
松本がスナップを効かせた動きでマイルドセブンの箱を振ると、毒の棒が一本、半分ほどの長さで飛びだしてきた。
隙間風に顔をなでられた。ほどよく冷えたそいつを鼻から深く吸いこみ、ずるい気持ちを勇気に変える。
どうでもいい質問になぜか落ち着く心――またしてもいやな思いをしたくないおれの勝ち。だいたいからして、おれは女の話――特に自分も内容に関係してくるそれを誰かとするのが苦手だ。こいつはだからいいわけなんかじゃない、といういいわけを心のなかでする。
立ったままタバコを吸っている松本。大人のふりはいいが、クラクラしてこないんだろうか。
どこまで本当のことをいおうか迷うところだった。松本はこの話に聖香のあれが関係しているのを知っているんだろうか。いや、聖香があんな勘ちがいをしてるぐらいだ。つきあっているならなにか聞いているにちがいない。おれは質問に質問で返した。
やっぱりなにか聞いている。事実ならいいが、話がもしでたらめならおれも本当のことをいうしかない。
でたらめのにおいがぷんぷんしてきた。
また豚か。松本が続ける。
誰かが使った生理用品=聖香のそれを奪いあうおれと蝿野郎。馬鹿げている。蝿野郎の場合は身から出たサビだが、こっちは完全な濡れ衣だ。だいたい普段口も利かない相手とそんなときだけ一緒に行動するわけがない。
あの手紙を書いたのが本当に豚なら、普通はそんなことをいわないはず――疑いと怒りが渦を巻く。松本は聖香がどんな字を書くのか知っているだろうか。そこだけでもわかればと思ったが、おれの脳みそはうまい聞き方を思いつけなかった。代わりに別のことを聞く。
松本が少し考えた後に聖香の
ふたりの関係が仮におれの直感とちがうものだったとしても、松本はおれと旅する道を選んで今、ここにいる。今夜から先の人生に関係ない――二度と会わないやつらのことなんかどうでもいい。目の前にいるこの男だけがおれを信じてくれたら、それで充分だ。