彼氏 #2

文字数 4,386文字

 寝て起きた。夢は見なかった。そのせいかよく眠れた気がする。松本はまだ来ていない。約束の時間まではあと四十五分あった。体を起こしてあくびをする。くしゃみをする。ペンギンガムを一枚口へ放りこむ。眠る前より小屋のなかが暗くなっているのに気づいた。
やべ。怒られちまう。

 元気のない懐中電灯。三時間もつけっぱなしじゃ当たり前だった。


 新しい電池に交換してやると小屋のなかは普通の家と変わらない明るさになった。ポケットの中身を木箱の上へ並べる――五千円に少し足りない金。ペンギンガムの予備がひとつ。それに絆創膏が三枚。ささやかな準備だが心細くはない。あと一時間もすればこの何百倍もの金が手に入る――夢のはじまり。目の前の札がただの紙きれに見えてきた。

そろそろ支度しとくか。

 並べたものをしまい、ズックのひもを結びなおす。右手に痛みが走った。甲に貼りついている絆創膏を引っぺがし、傷口を光のなかへかざす――膿む寸前。消毒液が欲しかった。学校へ忍びこんだら、ついでにそいつも一本いただいてこよう。それまでは空気に触れさせておくことにした。おれは頭に帽子を載せ、灯りを消して外へ出た。


   §


 空には月がなかった。明るい星もあまりない――家出にはもってこいの黒い夜。見渡す限りの闇がおれの未来を祝ってくれていた。冷えた空気を鼻から思いきり吸いこみ、勢いよく口から吐きだす。いい気分だった。


 ハツのことが頭をよぎる――いい気分からそうじゃない気分へ。だがじきにそれも気にならなくなった。老いぼれがなにをどうしたところで自由にはなれない。そういう縛り方をおれはしてきた。きちがいどもに発見されるまで、せいぜいくそや小便を垂れ流せばいい。


 Gパンのチャックをおろし、最近やっと毛が生えてきたあそこを引っぱりだす。暗い星のびびたる(・・・・)光を頼りに、りんごの木へ小便をぶちまける――遠吠え。どこからか聞こえてくるそれは夜によく似合う響きだった。つられてなのか、それとも負けたくないからなのか、あちこちでそいつがはじまる。ハナコのそれもきっと混じっているにちがいない。

やっぱり、放してきてやればよかったかな。

 後悔しながらチャックをあげていると後ろで物音がした。反射的にしゃがみ、耳を音の方向へ傾ける――ひとり分の足音。農道からこっちへと近づいてきている。念のため(・・・・)に息を凝らし、おれは音の正体を突き止めにかかった。


 闇のなかの気配は、これから遠足にでも行くような脳天気さだった。着ているジャンバーの色がわかる位置まで来ると向こうもおれに気づき、手を振りながら駆けよってきた。

早いじゃん。
 聖香の彼氏かもしれない男がいう。

待ちくたびれた。

いつからここにいたん?

七時前だ。昼間のことがあったからな。いろいろ考えて早く動いた。

 松本が眉をよせる。

大丈夫なん?

 心配されていることの意味がわからなかった。まさか夕方のあのことを聞いてきているんだろうか。

……大丈夫って、なにがだよ。

だって家から出てきてるの、親とかにバレてたらやばいじゃん。

なんだそっちか。

そっち?

 そっちじゃないほうの話は、今はまだちょっとしたくない。

心配いらない。おれの部屋は離れにある。灯りがついてなきゃ寝てると思うだけだ。

 小さなうそをひとつ、口にする。

そっか。ならいいんだけどさ。

欽どこはどうだった。

うーん、見るには見たけどあんまりおもしろくなかった。

 そうじゃなきゃ困る。松本がでかいあくびと背伸びをしながら、おれの横を過ぎていった。

ちゃんとばいなら(・・・・)してきたのか。

誰に?

 誰にだろう。ふたつの頭のなかに浮かんだ顔が同じじゃなければいいと思う反面、同じに決まっているとも思った。

これから家出するからばいならね、なんて親にいう馬鹿いないって。

 親じゃない――いいかけて黙る。

そうだな。

 松本は聖香に別れをどう切りだしたんだろう。どう納得させたんだろう。会って話をしたんだろうか。電話でそうしたんだろうか。それともなにも伝えていないんだろうか――次から次へと押しよせてくる疑問。おれには一ミリも関係ないふたりのことが気になってしかたがなかった。

なにやってんの。

 少し離れたところからの声。体をねじる。松本が小屋の扉を引き、まるで友だちを自分ちへ呼ぶかのようにしてこっちを手招きしている。

作戦会議、やるよ。

 深呼吸――頭と心を空っぽに。いや、頭のほうは生まれつきか。おれは九九(くく)を諳んじながら、呼ばれたほうへ歩いていった。


   §


 小屋のなかで松本を追い越し、懐中電灯のスイッチを入れた。暗がりじゃわからなかった松本の顔=おれに負けず劣らずのパンダ模様が浮かびあがる。

痣とか傷とか、親や教師どもに聞かれなかったのか。

痣?

 拳で自分の顔を軽く叩いてみせた。

ああ、親には聞かれたよ。

なんていったんだ?

うそつく必要もないと思ってそのまんまいったけど、まずかった?

 まずくはない。だが、ガキのケンカに口を出してくる親もなかにはいる。蝿野郎のところなんかは手まで出てきた。

沢村とはあんまりつきあっちゃだめだっていわれたよ。

 扉を閉めながら松本がいう。

だろうな。

笑っちゃうよね。

 大抵の家じゃおれみたいなガキは嫌われる。美滝でも前の学校でも千葉でもそうだった。親にそういわれた友だちのほとんどはおれから離れ、次の日からは口も利いてこなくなる。

見つかったら、またいわれるぞ。

見つかることがあればね……沢村、なんか燃やした?

 木箱のところまで歩いてきた松本が鼻をひくつかせる。タバコのことをいってるのか。松本の真似をしてみた――くしゃみが出そうになるだけだった。

たき火?

手紙を燃やした。

毛ガニ?

手紙だよ。なんだ、毛ガニって。

 松本が晩に食った飯の話をする。うまそうだなと思いながら、聖香とのことを聞こうかどうか考えた。本当のところを知りたいおれと、知っていやな思いをしたくないおれが心のなかで火花を散らす。どっちのおれにも応援団がついていた。団長は顔なし女。笛の代わりにカニの足をくわえている。

きかないでさつたばかー、きいてぶっとばすかー、どうする、どうする、どうする、ど――

 服の上から胸の肉をつかみあげる。爪を深くめりこませると化けものはかたまって動かなくなった。

具合悪いの?

 松本が巾着袋を手に取りながらいう。大仕事の前に気合をぶちこんだんだ、と返した。

あれ? おっかしいな……

 袋の中身をのぞきこむ松本。赤い背中を懐中電灯の光が直撃する。昨日は泥だらけだったところがきれいさっぱり、もとどおりになっていた。松本はそんなすごい洗濯機の置いてある家を今夜、捨てる。それと同じように聖香のことも捨てる。おれには捨てるものがない。最初からなにも持っていない、捨てる勇気を一ミリも知らないおれがふたりのことに首を突っこむのは、おかどちがいなんじゃないのか。

電池を替えた。使いすぎて暗くなっちまったから。

 積みあがった木箱の上を指しながらいう――いやな思いをしたくないおれの勝ち。松本がくわえタバコで頷く。

タバコも吸ったんだ。

暇だったから一本、灰にした。吸っちゃいない。

もう一本、灰にする?

 松本がスナップを効かせた動きでマイルドセブンの箱を振ると、毒の棒が一本、半分ほどの長さで飛びだしてきた。

いや、いい。

 隙間風に顔をなでられた。ほどよく冷えたそいつを鼻から深く吸いこみ、ずるい気持ちを勇気に変える。

あのさ、松本――

そうそう!
 即席の勇気を振り絞ろうとしたおれに松本がでかい声をかぶせてくる。続きの言葉を鼻息にして吐きだした。

カズ、ぼろぼろじゃん。なんで?

 どうでもいい質問になぜか落ち着く心――またしてもいやな思いをしたくないおれの勝ち。だいたいからして、おれは女の話――特に自分も内容に関係してくるそれを誰かとするのが苦手だ。こいつはだからいいわけなんかじゃない、といういいわけを心のなかでする。

ああ。まあ、くだ……らっちょもねえことだよ。

大丈夫。くだらないって言葉、覚えたから。で、なんで?

 立ったままタバコを吸っている松本。大人のふりはいいが、クラクラしてこないんだろうか。

石森の馬鹿が――

 どこまで本当のことをいおうか迷うところだった。松本はこの話に聖香のあれが関係しているのを知っているんだろうか。いや、聖香があんな勘ちがいをしてるぐらいだ。つきあっているならなにか聞いているにちがいない。おれは質問に質問で返した。

聞いてないのか? その、なんだ……誰からも。

ん~、それがさ、いってることがおかしいんだよね。

 やっぱりなにか聞いている。事実ならいいが、話がもしでたらめならおれも本当のことをいうしかない。

沢村、生理用品なんかに興味あった?

馬鹿いうな。あるわけないだろう。

 でたらめのにおいがぷんぷんしてきた。

だよね。そんな話してんの、聞いたことないもんなあ。

当たり前だ。誰がなんていってんだよ。

染川がほとんどしゃべってたんだけどさ――

 また豚か。松本が続ける。

二組の女子の誰かが使った生理用品を取りあいして、沢村がカズをぶん殴ったって。

 誰かが使った生理用品=聖香のそれを奪いあうおれと蝿野郎。馬鹿げている。蝿野郎の場合は身から出たサビだが、こっちは完全な濡れ衣だ。だいたい普段口も利かない相手とそんなときだけ一緒に行動するわけがない。

取りあいしたことになってんのか?

そう。沢村がカズに女子のトイレへ取りに行かせて、その後揉めた、みたいな話。

 あの手紙を書いたのが本当に豚なら、普通はそんなことをいわないはず――疑いと怒りが渦を巻く。松本は聖香がどんな字を書くのか知っているだろうか。そこだけでもわかればと思ったが、おれの脳みそはうまい聞き方を思いつけなかった。代わりに別のことを聞く。

……で、その誰かってのは?

ん?

だから、あれだよ。二組の女子の……誰かってこと。

ああ、そこは内緒にしてって釘刺されたんだけどさ。

 松本が少し考えた後に聖香の苗字(・・)を口にした。顔色に変わりはない。おれの直感が、あの手紙はでたらめ――少なくともふたりのことについてはそうだと告げてくる。

どう思ってる。

どうって?

松本はその話、丸ごと信じてんのか。

まさか。

そっか。ならいい。

 ふたりの関係が仮におれの直感とちがうものだったとしても、松本はおれと旅する道を選んで今、ここにいる。今夜から先の人生に関係ない――二度と会わないやつらのことなんかどうでもいい。目の前にいるこの男だけがおれを信じてくれたら、それで充分だ。

行こうぜ、そろそろ。

そうだね。ちょっと早いけど、ここにいてもしょうがない。

 松本が短くなったタバコを足もとへ転がし、ナイキの靴底で踏み潰す。おれたちは作戦の『さ』の字も話しあわずに札束のもとへと向かった。
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登場人物紹介

沢村怜二《さわむられいじ》


問題児兼主人公。非常に残念な脳みその持ち主。12歳。

松本亨《まつもととおる》


怜二の友人で計画の発案者。頭の回転は速いがうそはあまり得意じゃない。早生まれの11才。

顔なし女《かおなしおんな》


怜二の心のなかに居つく思念体。人の不幸が大好き。

出脇静恵《いずわきしずえ》


怜二を生んだ女。ノリノリのきちがい。バッティングセンスはなかなか。息子思いの34才。

武田眞路《たけだまさみち》


怜二の悪友で金持ち。話があらぬ方向にぶっ飛んでいきやすい。少年野球チームにも所属。12才。

染川蘭子《そめかわらんこ》


美滝小学校の生徒会長。正義とプライドのかたまりかと思いきや、意外と清濁併せ呑んじゃうタイプだったりする。12才。

岡崎聖香《おかざききよか》


怜二とは瞬間的に恋人関係だったことがある。清廉潔白風味。イモ欽トリオの真んなかが好きな12才。

児島真奈美《こじままなみ》


怜二の悪友の彼女。自称スパイ。好奇心旺盛な不思議系少女。もうじき12才の11才。

相馬秋子《そうまあきこ》


美滝小学校の養護教諭。真面目でやや過干渉気味も多少の融通はきく。趣味でリッターバイクを乗りまわしている。29才。

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