彼氏 #1
文字数 5,503文字
かっぱらいの道具が入れられた袋=巾着の口を緩め、袋のなかを手探りする。懐中電灯はすぐにわかった。取りだしながらスイッチを入れる。強すぎる灯りのせいでまわりが一瞬、真っ白になった。光から顔を背ける。レンズを真下へ向けると木箱や農具が闇からにじみ出てきた。
ほったて小屋のなかは昨日となにも変わっちゃいなかった。椅子にしていた木箱の位置も、握り潰して放り投げたテトラパックもそのままだ。あれからおれたち以外の出入りはなかった――そう考えていい。
松本が使っていたほうの木箱へ腰をおろし、聖香が投げつけてきた紙くずを広げた。猫なのかうさぎなのかよくわからない絵の描かれた封筒を懐中電灯で照らす――ボールペンかなにかで書かれた青い文字。おれの苗字がとんでもなくきれいな字で書いてある。聖香がこんな字を書くなんてちっとも知らなかった。
慎重に封を破り、中身=三つ折りにされた線つきの紙を取りだす。きれいな文字は紙の裏側からでも見て取れた。懐中電灯をもうひとつの木箱の上へ転がし、そいつの作る扇形の光のなかへ青い文字の並ぶそれを広げて置いた。
沢村くんへ
もうすぐ冬ですね。畑のお手伝いつらくないですか。
この間、佐東先生が沢村くんのことを
ていました。はじめて聞く言葉だったので調べてみま
した。
わたしは辞書に書いてあることを読んで、それは少し
ちがうんじゃないかと思いました。虞犯少年というの
は非行少年やちんぴらという意味だそうです。だって
そうでしょう。そんなに悪い子だったら、おばあさん
の畑を手伝ったりなんかしないでしょう?
わたしは本当の沢村くんを知っています。そして沢村
くんをわかってあげられるのもわたしだけだと思って
います。本当はこの話を修学旅行のときに話そうと思っ
ていました。
聖香はなにをいってるのか。書いてあることがさっきの態度とまるで噛みあっていない。おれは妙な気分を押し殺し、とりあえず先へと読み進めた。
でも沢村くんは旅行に参加しませんでした。わたし、
すごく寂しかった。そのときはじめて沢村くんに対す
る自分の気持ちに気づきました。
松本くんと聖香ちゃん。武田くんと――
松本と聖香? 途中をすっ飛ばして二枚めの終わりを読む――染川蘭子。冗談にもほどがある。手紙を縦と横に引き裂いた。
聖香はおれを馬鹿にしている。からかって遊んでいる。どうしてこんなことになるのか。こんな、おれをおちょくった話が肝心なことなのか。だいたい豚が――天敵がおれにこんなものを書くわけがない。
手紙をさらに破こうとして失敗した。肘から先がけいれんしている。たった八枚の紙きれを十六枚にできないおれの指。理由はわかっている。松本くんと聖香ちゃん――勝手に耳の奥へ居座り、そこばかりを繰り返す豚の声のせいだ。おれは破いた便せんを木箱の上へ並べ、いやな心境になるのを承知で続きを読んだ。
松本くんと聖香ちゃん。武田くんと真奈美ちゃん。す
ごくお似合いのカップルだと思う。わたしは今まで恋
なんてしたことがなかったから、そういうのはあまり
わからなかったけれど、こうやって実際に誰かを好き
になると……そんなところにばかり目がいっちゃう。
(わたしにだって乙女心ぐらいあるんだからね)
それからどうしても気になってることがあります。沢
村くんがいつも右の手首にしている紫の髪留めです。
それ、聖香ちゃんがしていたものでしょ? 理由はわ
かりたくないけどわかります。
でも今ふたりは普通のお友だち。それなのに。見るた
びにすごく悲しくなるのです。もしわたしの思いを少
しでもわかってくれるのなら外してください。
沢村くんがやっているおこづかい稼ぎについては先生
たちにはいいません。だってそれをいったら、沢村く
んが大変なことになっちゃうもの。それぐらいわたし
にもわかります。
小学生でいられるのもあと少し。お互いがんばろうね。
またお手紙します。
十月二十六日 染川蘭子
追伸 わたしの夢はアイドル歌手。応援してね。
封筒ごと丸めて地面へ叩きつけた。ズックの踵で地面がへこむほど踏みつけ、巾着袋から取りだしたライターで火だるまにしてやる――燃えろ。燃えて完全な灰になれ、豚。ついでに聖香への気持ちもそうなってくれ。
おれの思いが乗り移ったのか、炎は伸びあがるようにして暗がりを焼いた。そして次の瞬間にはもう、火薬の切れたねずみ花火みたいにしょぼくれていった。
でたらめに決まっている。あのふたりがお似合いのカップルなわけがない。あり得ない。認めない――くちびるを噛みしめた。
きつく握った拳で
ちくしょう!――自分の顔をぶん殴った。
ふざけるな!――みぞおちをぶん殴った。
蹴飛ばさなかった木箱の上へ突っぷして、地面の燃えかすもぶん殴ってやる。行き場のない思い=おれのなかでのたうちまわる怒りのエネルギーがこれでもかと心を痛めつけてくる。
体を起こして怒鳴った。胸の肉をつかみあげた。舌を出して踊っていた顔なし女がぶっ倒れる――よく効く弱点。もっと力を入れたら次は殺せるかもしれない。おれは地面へ転がったまま光っている懐中電灯を拾いあげ、積みあがっている木箱の上へ叩きつけるようにして置いた。
たしかに昼間のふたりは普通じゃなかった。おれの知ってる聖香なら、ただのクラスメイトにあんな態度は取らせない。おれの知ってる聖香なら、ただのクラスメイトにプリンなんか渡さない。おれの知ってる聖香なら――
邪魔な思いを心から一旦どけて考える。ふたりはいったい、いつ、どこでただのクラスメイトじゃなくなったのか。聖香の誕生日から今日までのふた月半、おれはさっぱりそいつに気づけなかった。そればかりか、ついさっきまで無駄な思いを燃えあがらせていた。
爆発しそうな頭。目を閉じるとまぶたの裏に聖香と松本がいた。肩を組み、おれのことを指差して笑いあうふたり。もう一度自分の顔をぶん殴った。
松本とはもう終わり。だが、おれはこのままじゃ終われない。どうするか――どうもしない。考える――考えるまでもない。後がない奴隷が選ぶべき道はただひとつ――奴隷じゃなくなること。ぐずぐずしている暇はなかった。
息を整える。せかつく気持ちとむかっ腹をひとまず抑えこみ、突っぷしていた木箱の上へ巾着袋の中身をぶちまけた。
軍手、単二の電池、マイナスドライバー、ゲームウォッチ、マイルドセブン。あとは入っていたのと同じ絵柄=バイキンくんの巾着袋。タバコ以外をもとに戻し、巾着袋の口ひもを肩へ引っかける――繰り返される電子音。音の出どころは脇腹あたり。右手を巾着袋に突っこんだ。
PM七〇〇=取りだしたゲームウォッチの画面に映しだされているデジタル表示。数字の下ではヤシの木へぶら下がった猿が鈴かなにかを振りまわしている。今の時間にセットされている目覚ましの意味がおれにはわからなかったが、たぶんテレビでも見る合図に松本がセットしておいたもんだろう。この計画とは関係ない。おれはもう一度木箱へ腰をおろした。
ひとけのない事務室で札束を数えている佐東の姿が頭に浮かんだ。
マイナスドライバーの角で『ALARM』と書かれた穴を押し、デジタル表示をPM一〇〇〇でセットする。その頃になればさすがに誰も残っちゃいないだろう。松本と約束した時間の一時間前に動きだし、おれひとりで札束をかっぱらう。後から来る松本のために百万ぐらいは残しておいてやるつもりだが、気が変わればそれもわからない。
三時間後に手にする五百万近い札束のことを思った。雑誌かなにかで見た百万円の束を五つ、頭のなかで重ねてみる――大して
松本は百万しか残っていない金庫を見て、やられたと思うだろうか。それとも全部持っていかれなくてよかったと思うだろうか。いずれにしろあいつは損をする。聖香と一緒になっておれをコケにした罰だ。それぐらいされても文句はいえない。
十時までやることがなかった。舌打ちをする。普段はやらない貧乏揺すりをしていることに気づいた。さっきの
右へ、左へ。また右へ。波の間にはサメの背びれが見えている。誰かが海に落ちてくるのを待っているんだろう。そうはさせじとボートを操る。お前なんかに食われてたまるか。
三人がサメの餌になるのに二分もかからなかった。これじゃすっきりしようもない。木箱の上に目をやる――猛毒の詰まった箱。そいつを手に取り、口に一本くわえた。昨日と同じやり方で火をつけ、昨日より慎重に煙を吸いこむ。最初に吐きだした煙がくちびるの裏に当たった。毒の味が
くねりながらゆっくりと天井に上っていく煙が夜空を駆ける999に見えた。暗がりに伸びた光の帯は天の川。煙の超特急がそいつに差しかかる。灰色から白へ、白から薄紫へ――今、一番忘れたい色をした宇宙列車をおれは鉄郎の気分で眺めた。
どうでもいいふたりのことが頭に浮かぶ。おれがあいつなら……聖香を取る。家出なんかしない。というより、聖香とうまくいってるのにわざわざ会えなくなるような真似はしない。それでももし、どうしても家出をするなら一緒に連れて……。
果てしなく無駄な考えだった。どう説得したところで聖香の首が縦に振られることはない。武田じゃないが、それこそ本気で誘拐してくるぐらいじゃなきゃ無理だろう。そうなるともう家出どころの騒ぎじゃない。
扉が音を立てた。一瞬、体がこわばったが、すぐに風のしわざとわかった。長い灰が折れて膝の上へ転がる。腰をあげ、二センチほどになった猛毒の棒をズックの踵で踏み潰す。すっきりとまではいかないが、ごちゃ混ぜの気分のうち、悪いほうのそれはおさまりかけていた。タバコは体に悪い代わりに心を落ち着かせるにはいいのかもしれない。おれはマイルドセブンとライターを巾着袋へ放りこみ、そいつのひもを壁の小釘へ引っかけた。
聖香よりも家から逃げだすことを選んだ松本と、聖香がいれば奴隷のままでもかまわないと考えたおれ。兄貴と比べられ、『あの家で暮らしてたらボクは絶対おかしくなる』と怒鳴った松本をおれは少し馬鹿にしていた。くだらないとも思っていた。だが、本当にくだらなくて馬鹿なのはおれのほうだ。
木箱を縦にふたつ並べた上へ横になる。背中のちくちくは気にしない。『ALARM』のセット時刻を一時間遅らせ、それから目を閉じた。
耳にはふたつの音が聞こえている。ひとつは板壁の隙間から吹きこんでくる風の音で、そいつは湿った小屋の空気をゆっくりとかき混ぜていた。もうひとつのそれは小さくて、頼りなくて、だけどしっかり生きているのがわかる音だ。おれの足もとで、扉の近くで、積みあげられた木箱の上で、下で、裏で。気配を殺していたそいつらは順ぐりに跳ね、自慢の声で子守歌を歌いはじめた。