チャンス #2
文字数 5,618文字
金曜の晩と同じ目にあわされ、ラジオとキーホルダーをわざわざ目の前でバラバラにされ、しあげに足の指全部をタバコで焼かれたおれはその場にいた全員をぶち殺してやりたいと思ったが、結局はただ泣き、両足を押さえてうずくまっているしかなかった。松本は家出を軽く考えすぎている。
次に問題を起こせば――たとえばこのちゃちな家出をやろうものなら、今度はなにを食わされるかわかったもんじゃない。おれは赤いナイキの脇へ唾を吐き、扉に向かって歩いた。
無視して扉を押す。
少し考えた――ガキの家出じゃない家出。扉を押す力が自然と弱くなる。
おれの馬鹿が並外れているのはわかっている。父さんにいわせれば静恵は『バイタ』とかいう人間で、そのバイタは父さんを『三下のちんぴら』と呼んでいた。どれもたぶん、馬鹿と似たような意味だ。そういうまともじゃないふたりの間に生まれたガキが相当な馬鹿なのは当たり前のこと。ただ『人生を丸っきり変えちまう家出』というのはちょっと聞き捨てならなかった。おれが今までどれほどそれをしたかったか、松本は知りもしないでいっている。
扉を引き戻しながら聞いた。体を百八十度回転させる。
眉の片ほうをあげ、舌を鳴らすのに合わせて人差し指を左右に揺らす松本――わざとらしい仕草。おれは蹴っ飛ばした木箱をもとのところへ置きなおして座り、声を混ぜたため息をわざとらしくついてやった。
ポケットから取りだされてきた『これ』は集金袋。松本が木箱の上へあぐらをかく。
学年費と給食費。それぞれの袋から引っぱりだされてきた札=小さいほうの聖徳太子と三人組の伊藤博文たちが木箱の上へ並べられた。
ふたり分を合わせてもたったの一万六千円。結局は遠足レベルを越えていない。その程度の金をちょろまかしたところでやれることなんてたかが知れている。人生を変えられるかもしれないと期待したときの熱が特急で冷めていった。
昨日、かっぱらってきた例の注文品は明日売りさばくことになっている。が、その金を手にしたところで学費の全部にはほど遠い。それはそれで問題だったが、なによりおれはもう、この家出話から降りたくなっていた。
松本はおれがかっぱらいで金を稼いでいることを知らない。別に隠しているわけじゃなかったが、なんとなく今までいいそびれている。
お粗末な家出計画。八千円の金で松本はなにがしたいのか。なにができると思っているのか。それっぽっちの金で人生を変えられるなら、不幸なやつなんてこの世には誰もいなくなる。
松本が肩から慌ただしくおろしたランドセルを後ろの木箱の上へ置く。
松本はなにをいってるのか。
そんなの、とんでもない金額に決まっている。
声と態度に面食らった――問答無用。頭をしかたなく算数用に切り替える。
松本はおれとちがって頭の回転が速い。
なんとなく読めてきた計画。ただ、読めてきただけで、つまりはどうしたいのかと思う。
目の眩むような金額。そんな金をおれは今までに一度も見たことがない。べらぼうな数字に口のなかのガムを思わず飲みこんだ。
松本がこともなげにいう。
咳きこみながらいい返した。
いったいなにをいってるのか。そんなことが簡単にできると思っているんだろうか。だとしたらちょっとふざけすぎ……いや、けど待て。こうまでいいきってくるぐらいだ。松本はとんでもなくナイスな方法を冗談抜きで思いついているのかもしれない。もし……本当にもし、そいつで四百八十万円分の札束がおれたちのものになるなら、単純に山分けしてもひとり……二百何十万円。うまくすればちんけなかっぱらいで小銭を稼ぐ暮らしともおさらばできる。こいつはまじめに人生を変えちまうことができるかもしれない……いや、できる。だが――
躍りだしそうになる心を押さえこんで聞いた。
ただじゃ済まない覚悟があるかどうかは別にして、やばいということは松本もわかっている。
普段やっているかっぱらいのことを思った。なにかを黙って持ってくる、というところだけでみれば同じだが、何千円のかっぱらいと四百八十万円の盗みの差はどう考えてもでかい。いつも売っぱらっているだいたいの金額で割り算しても……千回分以上。実際には松本と半分にするわけだからそこまではいかないにしても、それと同じだけの稼ぎを手にするとなれば、おそらく三年……いや、もっとかかる。松本のいうとおり、この話に乗らないやつは相当な馬鹿か、そうじゃなきゃ金持ちだ――が、そいつは絶対に失敗しない。そう踏めたときの話。
――そりゃ、誰でもそうだろう。
そうだった。家出だった。人生をそっくり変えちまう旅の計画をおれは今聞かされているところだった。
ガキどころか大人でもやらない家出。いや、こいつはもう家出なんかじゃない。お尋ね者覚悟で行方をくらます旅=銀行強盗や誘拐犯と同じ運命に、おれたちは自分からなろうとしている。そういう話だ。
おれの顔を斜め下からのぞきこんでくる松本。正直、逃げきれるものなのかどうかはやってみなけりゃわからない。が、それだけの金があればどうにかなりそうな気もしている。
考える――大泥棒の未来。その先に広がる世界。四百何十人の聖徳太子は自由への切符だ。鉄郎も機械の体を手に入れるためにやばい橋を渡った。銀河鉄道の乗車券を盗み、逃げて追われて追い詰められたが、最後にはうまいことやった。
うまくいく。この計画は必ず成功する。危ない賭けだが逃げきれないこともない、と思う。世のなかは金だ。金がすべてを解決する。担任だってそういっていたし、そこはおれも同じことを思っている。金は強い。金の持つ力はたぶん……いや、きっと無敵だ。
得意げな顔がのぞく。今度はおれが松本のほうへ前屈みになった。
五百万近い金が手に入るんだったらなんだって聞いてやる――頷いた。
おれたちのほかにも誰かいるのか聞く――横に振られる首。話がまるで見えてこない。残り七割の計算はどうなっているのか。
むかつきそうになったが、いってることは正しい。立場が逆ならおれでも同じことをいってそうだ。
どうあっても七割の線は譲らないつもりの松本。しかたがない。気を取りなおして計算をする。四百八十万の十分の一、かける三。ざっと百四十万がおれの取り分。半分の場合と比べたら百万も少ないが、それでも夢みたいな金額に変わりはない。
どうするもなにもなかった。百四十万をものにするには松本の言葉に従うしかない。頷いた。
実際に金が手に入ったときはそれでしかたなかったが、問題はそいつをどうやっておれたちのものにするかだ。でかい話だけされても肝心なところがあやふやじゃ、ままごととなにも変わらない。
松本が鼻を鳴らす。
いって、話の続きをせっつく。説明をはじめる松本。その目を見ながら頷くおれ――頼む。おれたちふたりでやれそうな方法であってくれ。天に祈るような気持ちで松本の話に耳を傾けた。
そうだ――頷いた。
それも知ってる――頷いた。
疑い半分、期待半分。汗ばんだ手のひらをGパンの膝へこすりつけた。
バイク? 話がさっぱりつながってこない――気だけが焦る。
つながった。バイクは集められた金を信金へ運ぶために取りに来ている。同時に第二、第三の疑問が湧く。
疑えばどこまでも疑える話。だけどおれは信じたかった。賭けたかった。大金がこの手に乗るのは夢でもなんでもない。今はもう、そう思いこんでいた。だから『たぶん』じゃ困る。
勘や想像だけじゃない、といった口ぶり。どう確かめたのかを聞く。
念の入った下調べ。松本はどうだといわんばかりに胸を張っている。だが、おれにはまだ納得いかないところがあった。
松本が『わかってないな』という顔をする。自信満々のその表情と態度がちょっと気に食わなかったが、裏を返せばそれは練りに練った計画という証拠。おれはいらつきを期待にすり替えた。
松本の声にかぶせていった。
しっ!――鼻の前に人差し指を立てる。
忍び足で板壁に近づき、耳を当てる――音とわずかな振動。向こう側からなにか硬いもので壁を叩いてきている感じだ。
小声で短くいい、それから壁の小穴から表を見た。黒っぽいなにかが夕方ギリギリの暗さのなかを飛び跳ねている。
誰も来やしないんじゃなかったのか――文句をいう代わりに外へ出てまわりを確認する。黒い鳥がおれのことをあほう呼ばわりして、紫がかった空へ飛び去っていった。