いつもピカピカのジャンバーを着ている松本亨がいった。今日はおろしたてのスニーカー=真っ赤なナイキまでセットだ。もしかすると松本はこいつを買うために午前中、学校を休んだのかもしれない。
いいながら、自分の着ているものを見た――乞食にしか見えなかった。
おれたちは決められた通学路から外れ、りんご畑のなかを歩いていた。下校時間を知らせる放送が風に乗って聞こえてくる。
おれには兄弟がいない。だから兄貴と比べられることがどんなふうにいやなのかわからないし、わかる必要もない。
松本には松本の、おれにはおれの悩みがある。自分以外を本気で心配できるやつなんかいやしない――そういおうとしてやめた。
兄ちゃんは勉強ができて野球もうまい。でもボクは、そうでもない。
悪りい悪りい。だけど松本だってそんなに成績悪くねえだろ。野球も今年はピッチャーだったじゃねえか。
枝から落ち、半分土に埋もれたりんごを蹴った――腐っていた。りんごはズックの先でほとんど潰れてから脇へ転がっていった。
学校で一番。勉強も野球も。背だってボクよりずっと高い。
たしかに松本の背は高くない、というよりチビだ。背の順でいくと前から……たしか二番めか三番め。前ならえで腰に手を当てるポジションまであと一歩、というのがいやなのはまあ、わかる。
背なんてそのうち伸びる。だいたい兄貴、中学生じゃねえか。松本より勉強や野球ができて当たり前だろ。
ズックの先で染みを作りかけている腐ったりんごのジャム。落ち葉へそいつをこすりつけながらいった。
ちがう。兄ちゃんは小学校んときも一番だった。背だってそうだ。ボクみたいなチビじゃなかったし、足も速かったし、モテたし、それにどけちだ!
おれからすると松本と松本の兄貴は双子といっていいぐらいよく似ていた。頭の中身とどけちについてはわからないが、見ためだけでいけば松本を縦にちょっと引っぱって学生服とメガネをくっつければ兄貴がそのままできあがる。なにをどう比べたところで、いうほどちがいがあるとは思えない。
そんなにちがわねえって。ちがうとしても気にするほどじゃねえよ。
――そりゃ、わからねえよ。お前んちに住んでるわけじゃねんだから。
だけど怒ったってしょうがねえだろう。人はみんなどっかちがうんだし。
今のまま、あの家で暮らしてたらボクは絶対おかしくなる!
どこかで音がした。顔をあげてあたりを見まわす。三本先のりんごの木でカラスたちが枝を揺らしながら、萎びたりんごを突っついていた。
あんな家=両親がちゃんといて、食いものもこづかいもある家。
なんでさ。いい暮らししてるじゃねえか、松本んちは。
松本がりんごの木を怒鳴りつけながら、その幹も殴る。木はもちろんびくともしない。まずいに決まっているりんごを突っついていたカラスたちが跳びのいただけだった。おれはポケットのなかで剥いたガムを親指と人差し指でくるくるやり、そいつを口のなかへ放りこんだ。
松本の声の感じがいきなり軽くなる。おれは眉の動きだけで『なんだ?』と聞いた。
担任をはじめ、朝から十回以上聞かれていることをおれにいわせようとする松本。うっぷんは溜まらないが、うんざりはする。
土曜から月曜――つまり昨日までおれは学校を休んでいた。きちがいどもの言葉に従ったわけじゃない。あの晩からゲロが、その翌朝から高熱が止まらなかったからだ。もちろんそこのところは誰にも話していない。松本にも当たり前に省略する。
昨日の昼には調子を戻し、午後には例のかっぱらいに精を出していたおれ。松本と顔を合わせるのはだから、金曜の放課後以来――四日ぶり。
立ち止まって拳をさすっている松本の横を過ぎながら、今日さんざん口にしてきたセリフをいってやる。
この街と、となりの小布施町の間を流れている、魚のいない赤茶けた川にかけられた橋の名前を口にする。これも十何回め。おれたちはそこを渡り、学区外へよく出かけていく。
医者に見せたのかという質問に、そんなのは根性なしの馬鹿がやることだと答えてやる。
当たり前だ。こんな顔になる勢いで橋から落ちれば、よくて骨折、運が悪ければ死ぬ。おれの本当の暮らしぶりを誰かにしゃべるつもりはない。
本当の暮らしぶりを思いだしたせいで、口のなかにあの味と感触がよみがえってきていた。どれだけガムを噛んでも消えない酸っぱさと舌触り。歯を磨いてもそれは同じだった。口の内側を誰かと丸ごと取り替えたくなる。
松本が小走りで追いついてくる。モズだかヒタキだかを追っかけまわす猫がおれたちの影を踏んづけていった。
野鳥の悲鳴が聞こえた。落ち葉がバサバサいう音も聞こえた。『実はさ』に続く言葉だけがなかなか聞こえてこない。悲鳴は少しずつ小さくなっていった。
立ち止まって後ろを向く。つんのめっておれにぶつかってきた松本がよろけた。
なにを考えているのかわからない目玉がふたつ、おれの顔を見ては逸らすことを繰り返す。
目の前の顔がしっかりとおれに向く。引き続きなにを考えているのかわからない目玉が下を向き、横を向き、戻ってきてまたおれに向いた――なにかを決心したような顔つき。誰にそうしているのかわからない頷きに合わせて、松本が左の手のひらを右の拳で叩きはじめた。
松本の口からはときどき方言が出たが、静恵やハツほどめちゃくちゃな言葉は使ってこない。
にやついてるだけで、その先をしゃべろうとしない松本。心にうっぷんの芽が生える。
内緒話がもし、どけちな兄貴や家族のそれならおれには関係ない。松本もそんな話につきあわせるつもりじゃない……とは思うが、さっきの話の流れでいくとそこのところは微妙だった。そういう話以外で金のかからないことなら乗ってやってもいい。どうせおれは三年半後まで暇だ。
いちゃつくなし=焦んじゃねえよ。千葉ならまるで意味の変わってくる言葉。松本がおれの少し前を歩きだす。
松本の考えたこと。考えそうなこと――わからなかった。想像の範囲をもう少し広げてみる――テレビゲームが馬鹿みたいに好きな松本。
松本が山の側=ゲームセンターとも帰る方向ともちがうほうへ歩きだす。
よくなかった。あまり道草を食って帰りが遅くなるとハツが面倒くさい。畑を手伝わねえガキは出てけ=野良仕事をサボると決まっていわれるセリフ。これにくだらない暴力と朝飯抜きの刑がもれなくついてくる。
おれの事情などおかまいなしに歩いていく松本。いったいなにを『一緒にやらず』なのか。うっぷんの芽から枝や葉っぱが伸びはじめる。
松本が入口の扉を引っぱり開け、小屋のまわりとなかをざっと見まわす。つられておれも同じことをした。人影らしきものはない。
大丈夫、大丈夫。りんごの収穫なんてもうとっくに終わってんだし、人なんて来やしないって。
堂々と小屋のなかへ入っていく松本。しかたなくおれも後に続いた。
§
扉を閉めるとなかは薄暗がりになった。外に比べるとひんやりしていたが、人の出入りがない場所の大抵はこんな感じだ。松本のいったことはたぶん当たっている――ひとまずは安心。窓もないのに真っ暗闇じゃないのは、板壁のところどころに空いている小穴から夕日のおこぼれが入りこんできているおかげだった。
ズックの底で足もとをこすってみる――剥きだしの地面。踏みかためられたその上に苔かなにか生している感じがあった。湿った空気のなかにはカビのにおいもいくらか混じっている――おれの寝ぐらよりも原始的なほったて小屋。鼻の奥が急にむずがゆくなってきた。
こんなところに電気が通っていたらおれの寝ぐらの立場がない。
板壁の小穴をのぞきこみながらいった。穴の大きさのわりには空や畑の景色がよく見える。
板壁から顔を離すと光の筋が反対側の壁まで伸びた。そのなかを埃の粒が飛びまわっている――鼻、限界。松本は平気なんだろうか。おれは追加のペンギンガムを口のなかへ放りこんだ。効きめがあるかどうかはわからない。
なんかくしゃみが出そうでしょうがない。早くしろよ。
小屋の奥に目をやる。農作業で使う道具の向こうに赤っぽい字で『信州りんご』と書かれた木箱がいくつも積んであるのが見えた。
もうもうと埃の舞うなかで手渡された木箱へ腰をおろし、背負っていたランドセルを脇へ置く――連続で三発のくしゃみ。松本に鼻紙を持っていないか聞いた。
鼻紙を鼻の穴のサイズに丸めながら話の先を急かす。もったいぶっているその話がもしくだらないことなら、おれはダッシュで帰らなくちゃいけない。飯抜きだけならまだしも、あのくそつまらない老いぼれのうさ晴らしにつきあわされるのはもううんざりだ。
松本が前屈みになって顔を近づけてくる――真剣なまなざし。おれは息を飲んだ。
うっぷんの木に花が咲く――おれを襲う後悔と怒り。松本のあまりのガキっぽさに意味もなく体から心が離れそうになった。
家でちょっといやなことがあったぐらいでなにが家出だ。ばかばかしい。そんなもののどこがとっておきだっていうんだ。うさ晴らしがしたいなら、ひとりで勝手にやればいい。自分と一ミリも関係ない話につきあってやれるほど、おれは暇でもお人好しでもなかった。
ランドセルを引っつかんで立ちあがり、腰をおろしていた木箱を蹴っ飛ばす。
鼻の穴へ詰めこんでいた鼻紙を鼻息で吹き飛ばしてやる。
いいか、松本。遠足行くのとはわけがちがうんだぞ。腹も減れば喉も渇く。寝るとこだって必要だ。遠くへ行くなら電車賃もいる。つまり金がいるんだよ、金が。
実際にそうだった。おれは取っかえ引っかえに男を連れこむ静恵に嫌けが差し、十才の頃に家出をしたことがある。
家を飛びだしてきたはいいものの金はなく、あるものといったら手垢にまみれた小型ラジオと宝ものにしていた999のキーホルダーだけ。チャリンコをかっぱらい、あてもなく走り、スーパーの試食コーナーで食いつなぐ。眠くなっても雨に降られてもひたすら走り続けるしかない、くそつまらない旅。泣きたくなった。途中からは本当に涙が出た。しまいにはどこだかわからない場所でぶっ倒れ、このまま死ぬんだろうと思いながら眠った。
気がついて最初に目に飛びこんできたのは静恵の顔だった。瞬きをした次の瞬間には額を金属バットの先で突かれていた。