女スパイ #1
文字数 3,924文字
午後の授業は教頭がやるといっていた。最後の記念に出ておこうか――そんな気持ちも二ミリぐらいはあったが、かったるい気分を負かすまでにはならなかった。ついでにいうと
放課後までサボることを決めたおれはランドセルを置きに一旦教室へ戻り、それから保健室へ向かった。渡り廊下を使って体育館の脇を行く。こうすると職員室の前を通らずに済んだ。佐東や教頭とばったりというのは具合が悪い。
保健室が見えてきた。手前の水飲み場で口をゆすぎ、ペンギンガムを一枚噛む――涼しくなる舌。今じゃ、やみつきの感覚だ。
扉を開けると先客がいた。口を利いたことはないが顔はわかる。肝心の保健医はいなかった。
ベッドの上で本を読んでいた女が聞き覚えのない言葉を、これまた聞き覚えのない声でしゃべってくる。無視をしていると今度はおれの苗字を口にしてきた。
顔色がおかしいのは体調のせいじゃない。と、ここでそれを説明してもはじまらない。おれは帽子を深くかぶりなおし、はじめて口を利く相手にどうでもいいことを聞いた。
誰もいない保健室で友だちの彼女とふたりきりになるわけにはいかない。おれは『じゃあ、後にするわ』といってまわれ右をした。
児島がおれの背中にしゃべりかけてくる。後ろ向きで答えるのも変だと思い、もう一度まわれ右をした。
佐東は一組=児島たちのクラスの担任。やつはおれを職員室へ呼びだした後、げんこつで二回、出席簿で四回この頭をぶっ叩き、それ以外のときはストップウォッチをカチカチやりながら、三時間目の
親御さんがなくたって立派になった人はたくさんいる――そりゃいるだろう。
お
よそはよそ。お前はお前だ。自分が他人とちがうからって卑屈になる必要なんかないんだぞ――勝手に決めつけんじゃねえよ。
佐東は
なんだこの女。おれにケンカを売ってるのか。軽く睨みつけると児島はかけ布団をずりあげ、そいつで目の下までを隠した。
くぐもった声で話しかけてくる児島。アーモンド型のつやつやした目玉がおれに向いている。
なんでガム噛んでるの?――くせみたいなもんだ。
やっぱり不良だから?――だから、くせみたいなもんだっていってるだろう。食うか?
それ食べたらわたしも不良かな――そう思うんならやめとけよ。
両腕が突きだされてくるのと同時に、かけ布団がずり落ちる――こぢんまりとした顔。下半身にかけ布団を乗っけたまま児島が体を伸ばしてくる。シャツの襟もとへ自然と目がいった。首のつけ根より下の肌が丸見えになっている。おれは目のやり場を女子どもの誰もがやっている
そういう問題じゃない――武田の顔がちらついた。
児島に身だしなみを注意してからガムを渡し、クレゾールやイソジンが並べてある棚へと近づく――ガラス戸に映りこむ顔色最悪のろくでなし。心のなかでは顔のない化けものが武田の怒った顔を真似ていた――リーゼント以外はまるでへのへのもへじ。
意味もなく跳ねあがる心臓。いや、意味がないことはない。
ベッドのほうへまわれ――左。枕の脇へたたんであったGジャンのポケットに児島が手を突っこんでいる。
紙きれのようなものをひらつかせて児島がいう。
魅力的な紙きれを見ながらいった。
二枚の紙きれはどっちも聖徳太子だった。それもでかいほうのやつだ。児島もそんなものをおれに見せびらかしてどうしたいのか。
うちわ代わりの聖徳太子。見ているだけでばちが当たりそうだった。
乞食ヤッケのポケットにある、稼ぐのにめちゃくちゃ苦労した金の五倍ものそれを彼女にポンとくれてやれる武田。それなのに手すら握らせてもらえない武田。わりに合わないことが好きなのかもしれない武田。金持ちの心のなかがどういうしくみになっているのか、まだ貧乏人のおれにはわからなかった。
口を開いたのはおれのほうが早かったが、声の勢いは児島のほうが勝っていた。
おれは電器屋じゃない。もしかしてかっぱらってこいという意味でいってるのか。
――やっぱりか。
新井、武田、
家が近いとか傷が痛むかどうかなんてどうでもいい。なんでおれの秘密を豚なんかが知ってるのか。問題はそこだ。
焦るとどうしても力が入る。おれは児島に謝り、体から力を抜いた。
二週間以上前だ。豚はどこからそのことを聞いたのか。いや、それよりもおれのことをあれだけ目の敵にしておいて、なぜそれを佐東どもにちくっていない? 引っかかるのはこっちのほうだ。
変などころの話じゃない。この話をほかの誰かにしゃべったりしてないか聞こうとして――やめた。そいつをちくられようがバラされようが、明日にはもうどうでもいいことだ。今までちくられなかったことを素直に喜んでおけばいい。考え方を切り替える。
ベッドに背を向け、扉のほうへ歩く。サボりはまた今度。いや、今度はもうないか。
納得? 誰が誰にだ? またまた、まわれ右。
自分の将来を力強く宣言してくる児島。いってることの意味がつかめなかった。言葉をどう返していいのかもわからない。
ぶっ飛んだ理屈。凄まじいにっこり顔。ベッドから身を乗りだしてヤッケの袖を力強くつかんでくる右手。口も顔も手もやってることがまるで噛みあっていない。なんだか武田がかわいそうになってきた。
鏡を見なくても自分の目が点になっているのがわかる、そういう珍しい気分。
疑いのまなざし。それも絵に描いたような。そんな目をされなきゃならない覚えはない。
児島がさらに身を乗りだしてきた。
この時間=五時間目の残りはプールの脇かどこかにいて、六時間目は……広げた教科書越しに聖香の背中観賞でもしておこう。
人質に取られている右手を引っぱり戻す。
腕から力が抜ける――怒る気力すら失せるこぢんまり笑顔。好きにしろとしかもう、おれにはいいようがなかった。